マキシマム遥 - 花凝り
足早に家路を辿る。
咽せ返るほどの暑さの中。シャワシャワと騒ぎ立てる蝉の声を余所に。それでも何かに急かされるように、歩く。
胸の奥から湧き続ける苛立ちから、必死に目を背けるように。
────冗談じゃ言うとるじゃろ。しつこいの。
口をついて出た、あの言葉。
隠せなかった。隠し切れなかった。
笑顔で乗り切らなきゃいけなかったのに。無理やりにでも笑顔を浮かべて、心がズタズタになろうと取り繕って、そうしてちゃんと隠し切ることができたはずなのに。
どうして、我慢ができなかった。
どうして、言えた今の方が少しすっきりしているんだ。
どうしたって当てつけでしかない。あの子の気を引けたかもしれない、という一抹の嬉しさが自分の中に在ることが、酷く気持ち悪い。自分の中に在る何もかもに嫌悪感が募って、足は更に速くなる。
立ち止まれなかった。苛立ちと自己嫌悪が心臓の奥でのたうち回って、止まるなんてできなかった。走り出さなかったのは、今なら戻って弁明できるかもしれない、なんて我儘があったから。でも、それもただの偽善だ。
肌を灼く夏日が煩わしい。蝉の声がうるさい。流れる汗がとめどなくて、食い縛った奥歯で顎が痛くて、痛み続ける心臓が辛くて、もういっそこのままドロドロに熔けて消えた方が。
「マキハル君」
突然、誰かに呼び止められた。
思わず足が止まる。メグの声じゃないのに、その声には、立ち止まって振り向かせる何かがあった。
「……ノアちゃん」
名前を呼ばれたノアちゃんがふふっ、と微笑む。真夏の陽射しすら感じさせない涼やかな出で立ちで、汗のひとつも額に浮かべないまま、そこに立っていた。
言葉に詰まる。自然と目を逸らしてしまう。このタイミングで後ろから追い掛けて来たんだ。間違いなくノアちゃんは、さっきのオレとメグの会話を聞いている。その上で、オレは何て言うべきなんだろう。弁解するのか。はぐらかすのか。それとも、オレは。
オレは、何て答えるのがマキハルらしいんだ?
そうこうしているうちに、ノアちゃんが先に口を開いた。
「マキハル君はメグちゃんのことが好きなんだよね?」
────心臓が、跳ねる。
握った拳に力が入る。心臓がギリギリと縮む。喉が渇く。頭の奥で誰かが叫ぶ。
否定しろ。
否定しろよ。
否定するべきなんだから。
ほら、早く。
「…………答えとう、ない」
煮え切らない返答に、ノアちゃんが困ったような笑みを浮かべる。
「そっかぁ。じゃあ別のこと、訊いていい?」
「いや、今はそうゆう、気分じゃ」
無意識に後ずさりする。半歩動いた靴の底で、アスファルトがザリ、と嫌な音を立てる。
ダメだ。今は何を訊かれてもダメな気がする。もう振舞えない。カッコいいオレでいられない。カッコよくいる理由がない。今のオレはダサい。ダサいオレは、嫌だ。
だから、今は。
「わたしね、マキハル君のことが好きなの」
一瞬、思考が追い付かなかった。
出たのは「は?」なんてか細い間抜けな声だけ。
呆然としたまま、何を言われたか理解できないまま陽射しに灼かれるオレに、ノアちゃんは一歩、また一歩と距離を縮める。
「でもマキハル君はメグちゃんのことが好きでしょ。メグちゃんはK汰君のことが好きだし。だからどうしたら良いのかな、って思って」
「……な、何でいま、そがな事、」
ノアちゃんはふふっ、と目じりを下げる。
「だって今日の作戦だと、マキハル君はこのあとドモル君と打ち合わせでしょ? 当日も別行動になっちゃうから、ちゃんとお話しできるのは今日が最後かな、って」
一歩。また一歩。ノアちゃんが近付く。ふわりとなびく前髪の隙間から、赤みがかった茶色い瞳が覗く。
「ねぇ、マキハル君はわたしのこと好き?」
鈴のような透き通った声が響く。
「そ、そりゃ、友達じゃ思うとる、けど……」
「そっかぁ、良かった! 嬉しいなぁ。それじゃあ、メグちゃんとどっちが好き?」
分からない。分からない。狼狽えて言葉が続かない。暑さで思考がままならない。思わず俯いた額から汗がボタボタとアスファルトに落ちる。
ノアちゃんは何を言っているんだ? 何でいまそんな話をするんだ? 何でこんなことになっているんだ?
分からない。理解できない。思考が追い付かない。何もかもが暑くて、熱くて、視界がズレていく、
「好き、だったんは、メグ、」
「うーん。過去形でも、やっぱりメグちゃんが先なんだね。難しいなぁ。あ、それじゃあK汰君が最初から居なかったら? それとも、メグちゃんが最初に出会ったのがマキハル君だった方が良いのかな?」
バラバラで、ズレていて、いや、
違う。
だって、ノアちゃんがいるから。そこに立っているから。彼女だけがそこに在るから。
なにも、間違っていない。
理路整然と。当然のように。1+1が2であるように。
"ぜんぶ、さいしょからそうだったように"。
ねぇ、とノアちゃんが問う。涼し気な声色で、わしに訊ねる。頭がからっぽになっていく。
「マキハル君はどうしたい?」
「わし、が、」
「そう、君が選んでいいんだよ。だって君は、君のままで良いんだもん」
涼し気で、かろやかで、柔らかくつつみ込むような、閉じていくような。
「なんで、そんな、こと、」
「わたしはね、君に幸せになって欲しいの。君が苦しむ姿は見たくないの」
「くるし、む」
「そうだよ。君は苦しんでる。君の好きと、メグちゃんの好きが違うことに、どうしようもないほど苦しんでる。わたしはそんな君の力になりたい。君を救いたい」
わしを、救う。
この心臓のいたみから。この抱えきれないかんじょうの渦から。
すくう。
「苦しいくらいなら背伸びしなくていいんだよ。無理に変わらなくていいんだよ。君は君のままで良いの。それでも苦しいなら私が君を救いたい。君が君のままでいられるようにしたい。だって、君が君のままでいられないなら、わるいのは君じゃないんだもん。だって」
めのまえがまっしろになる。せかいから、ノアちゃん以外のすべてがきえる。
てが重なる。ノアちゃんの少しつめたい指さきが、わしの手のおん度に触れて、とけあって、
それから、
「─────無理に頑張らなくても、君はカッコいいんだもん」
────マキハルは、カッコ悪くなんかない。
……。
…………。
……………………ちがう。
そう思った瞬間、手を振りほどいていた。
「? マキハル君?」
ノアちゃんが不思議そうに小首を傾げる。オレ自身、ノアちゃんの手を振りほどいたのはほとんど反射だった。
それでも。
「……ちがう」
「え?」
口に出す、そこに感情が宿る。淡くても、苦しくても、自分でも全て理解できている訳じゃないとしても。
違うんだ。何かが。
顔を上げる。鮮やかなくらい真っ青な夏空を背にしたノアちゃんがいる。まだきょとん、としている彼女に告げる。
「ごめんなノアちゃん。ドモルが待ってっから」
一瞬、ノアちゃんの目に何か別の色が映ったように見えた。でも彼女は、すぐさまいつもの軽やかな表情に浮かべる。
「そっかぁ、じゃあまた今度だね。ドモル君によろしくね」
ひらひら、と手を振るノアちゃんに、手を振り返すこともなく。オレは彼女に背を向けて家路を辿る。まるで最初から何事もなかったみたいにオレたちは別れる。
咽せ返るほどの暑さの中。シャワシャワと騒ぎ立てる蝉の声を余所に。
心は落ち着いていた。
ノアちゃんに言われたことは覚えている。その言葉で、いまだに胸の奥がちくちくと疼きもする。それでも、それよりも、心の中を占めていたのはもっと別のものだった。
静かな疑問だけがあった。
額に滲んだ汗を拭う。その手をじっと見る。
ノアちゃんの手を咄嗟に振りほどいた理由。想い出した、メグの言葉。遊園地のパレードの最中に交わした言葉。それらが心の中でゆっくりと反発する感覚。そして、疑問。
この感情は、一体何と呼ぶんだろう。