荊アキラ - ロト
「すみません」
ふと声を掛けられた。
振り返ると、警備員姿の男が僕らを呼び止めていた。
「関係者の方ではありませんよね」
ちら、と目線だけ走らせる。周囲に他の人影はない。
当然だ、僕らがいるのは関係者用エレベーターの目の前。人の行き交うエントランスの脇にそっと設けられた、狭い通路。その途中に佇んでいた注意喚起の立て札すらも無視した、奥まった場所だ。呼び止めた警備員の彼と、呼び止められた僕ら以外誰もいない。
軽い注意。ちょっとした牽制。彼はそのつもりなんだろうけど。
僕はフフッ、と微笑み返す。
「おや、どうしてそう思うんだい?」
その僕の言葉で男の表情がサッと変わった。瞳の奥に拭えない疑念の色が宿ったのが分かる。トーンは変わらないのに、どこか探るような声色。
「……こちらは関係者区域ですので。よろしければエントランスまでご案内しましょうか」
思わず笑みがこぼれそうになるのをグッと堪える。まさかここまで乗せやすい人種だとは。警戒心が強いのも、警備員としては満点だろうけど、それにしたってあからさま過ぎる。
仕方ない、とそれまで押していた車椅子の取手から手を離し、大っぴらに両手を上げて見せる。
「いやあ結構! 僕らはこのビルの最上階に用があるんだ。ほら、ちゃんと"関係者"だろう? ……おっと」
話の途中、胸元に付けたトランシーバーに手を伸ばした彼の右手をパッと押さえる。
「……離していただけますか」
「ちょっとちょっとー。判断が早いのは賞賛すべきことだけど、ヒトの話は最後まで聞きたまえよ!」
振り解こうと若干の抵抗を示す男、その手にそっと両手を重ねる。「それともアレかい? この女の姿は好みじゃないのかな?」
細く柔らかな指先で、彼の手を包む。サラサラに伸ばした髪がレースのように僕らが重ねた手を覆う。上目遣いで彼と視線を合わせる。
だが。
「離していただけますか」
男の声色は変わらない。その頑固な感じが、少しトリさんを思い出させた。
「やれやれ。案外遊びのない人間だねえ、君も。人生楽しいかい?」
「すみませんが、これ以上、」
「いやはや、今日の為にせっかく整えた顔だったんだけどなあ。仕方ない、この顔で釣れないってことはもしかして君──」
無視する僕に抗議の声を上げようとした男が、動きを止めた。苛立ちを含んだ顔は呆気にとられたものへと変わる。眉根に寄った皺は解かれ、瞳の奥に恐怖にも似た驚きが花開く。
そんな彼の素晴らしい反応を眺めながら、僕は"僕"を変えていく。意識を向ければ顔が変わる。少し弄れば骨格が変わる。思い通りに容姿が変わる。
もぞもぞ。ぱきぱき。蠢いて。
ばきっ。べきんっ。砕け治って。
「────『扇情的なのが好きなのかい?』」
胸が張る。ヒップを強調する。唇を厚くして、声の艶を盛る。体温を上げて、彼の手に絡み付けた指先をわざと発汗させる。
新しい"僕"が完成する。
先ほどよりも外見年齢を上げ、全体的な肉付きを増やしたせいで、着ていた服が少しキツい。パンプスを履いた足先は変えていないけど、胸元や太腿の辺りは些か窮屈だ。それも踏まえて、胸元のボタンをわざわざ彼に見える位置で1つ開けて見せる。
『さあ、これで遊びが出来た。んもう、君も君だぜ? こういう系が好きなら早く……ん?』
絡みつかせた彼の指がスウッと温度を失っていく。押し当てようとした胸元からビクッと身を引く。ただの恐怖だった彼の瞳に、もっと別の、何か悍ましいものでも見るような色が滲んでいく。
ハァ、と溜め息をついて見せた。あまりの拍子抜けに、声も戻ってしまう。「何だいなんだい、せっかくの人が出血大サービスしてあげてるってのにさ。文字通りの"腰抜け"じゃあないか。無駄骨も良いとこだよ」
パッと手を離す。彼が後ずさる足音が、誰もいない通路に固く響く。冷たいコンクリートの壁。のっぺりとしたダウンライトの灯り。
「……あ、あんたら、一体、」
「いいよ別に。君程度に名乗るほど僕は暇じゃないんだ。ああ、でも一応この車椅子のお婆さんは"名無しさん"だからね。以後よろしく」
力なく壁にへばりつく彼。そこから見えるようにそっと身を引き、手で示す。
僕が今まで押していた車椅子。そのシートに力無く腰掛けている、1人の老婆がいた。
背もたれに寄りかかったまま目は虚ろ。どれだけ凹凸の酷い道でもピクリとも動かない。上品な服装と可愛らしい柄物の膝掛けに反して、口元は半開き。だらしないにも程がある。現に彼女は、僕らがどれだけ背後で騒いでいても、瞬きひとつしない。言葉ひとつ届いてはいない。意識があるかも定かじゃない。
そんな状態の車椅子の老婆と、不意に骨格から全転身させた女を見比べながら。警備員の彼は声も上げられないまま、目の前で起きた不自然な出来事を理解できていない。動揺を抑えようと必死だ。
「まったく、せめてリアクションの1つでもしてくれなきゃ張り合いがないじゃないか。まあいいや、この後も控えてるし、僕らはこれで失礼するよ」
「ま、待て!」踵を返そうとする僕らを上擦った声で呼び止める。
「ちょっと君ィ、それで呼び止められたことなんて無いだろう? それに、君はどうせ僕らを追いかけられない。いや、正確には僕を認識できない、と言えばいいかな?」
今にも無様に尻餅をつきそうな彼に歩み寄る。覆い被さるようにして顔を覗き込みながら、僕は再び顔を変える。
意識するだけで肌が波打つ。頬骨が造り変わる。思い通りの顔へと変性する。
「僕の知り合いに【匿名の異能】を持っているヒトがいてさ。外見から経歴まで、個人情報として何ひとつ認識されず、特定もされない。ただそれだけのつまらない異能だけど、こういう時には使えるんだよね。あ、そうそう!」
「『────ちょうど、こんな顔の』」
ふう、と溜め息をこぼす。スマホの時計を見ると、想定していた時刻を少しばかり過ぎてしまっていた。
「まったく。あの警備員にさえ捕まっていなかったらなぁ」
そう独りごちてみる。トン、トン、と自分の足音が通路に響き渡る。それに合わせて、キィ、キィ、と合いの手を入れる車椅子の音。そこに乗っけられた、ぴくりともしない老婆。
それにしても。警備員に絡まれるのが面倒だったから詰所を避けて通ったのに、ああして巡回の奴に捕まるなんて運がない。
当の警備員は案の定、僕の"顔"を見るなりその場に崩れ落ちた。決死の抵抗か、はたまた恐怖で視線が動かせなかったのか、必死に僕の"顔"を覗き込もうとしていたけれど。その視線はチラチラと忙しなく泳ぐばかりで、結局定まることはなかった。
まるで指の隙間から漏れる水を必死に掬おうとするように。それでも掬いきれず疲弊していくように。
僕らのグループ「五重奏」の代表、のような立ち位置にいるS。彼の持つ【匿名の異能】。
その要素が彼自身の外見にある程度紐付いているのは知っていたけれど。まさか"顔"を見せつけられた警備員が、泡を吹いて倒れる程だなんて嬉しい想定外だった。それも、ドゥさんが後生大事に持っていた写真を元に構築しただけでこの効果。
僕自身、その写真に映った彼を全部認識できたわけでは無いから、この"顔"も完全では無いだろうけど。警備員に対して、自己認識阻害を利用した意識混濁まで可能にするとは。彼は今でもまだ、あの人影絶えた場所で哀れに倒れていることだろう。
「────さて」
誰もいない最上階のビルの廊下。音を吸い込むグレーのタイルカーペット。殺風景な壁に据え付けられたいくつもの扉、その中の適当な1つの前で立ち止まった。
試しに取っ手を握り、ぐっと下向きに力を込める。案の定ビクともしない。取手のすぐ横には名刺入れサイズの黒い箱も取り付けてあるし、もしかしなくてもオートロックだろう。
でも。こんなの。
そっと髪の毛を伸ばす。肩から腰骨、ふくらはぎから足元までサラサラと伸びた髪先は、扉の下の隙間からそっと部屋の中へ侵入する。
どれだけ機密性の高い扉だろうと、髪の毛1本でも通すことができるなら、それは僕にとって鍵が無いのと同義だ。
扉の下をくぐった髪はそのまま上方に進路を変え、反対側の取手に巻きつく。あとは髪が抜けないようにそっと引っ張れば。
ガチャ、とくぐもった音。ゆっくりと押し開かれる扉。
オートロックすら障害ではない。
車椅子とともに部屋へ足を踏み入れる。扉をくぐってすぐのスイッチを入れると、ライトに灯された部屋がふわり、と明るくなる。
全体的にブラウンで統一された広いワンルーム。パイル生地の床。窓際に並べられた立方体の椅子たち。備え付けのマガジンラックと、キャスター付きの簡易テーブル。いま流行りのレンタルオフィスだ。
でも、今回のお目当てはそこじゃない。
車椅子を押しながら、その真ん中を突っ切って窓辺へと向かう。壁一面の窓ガラス。景色を遮る真っ白なブラインドを引き上げると、その会場は見えた。
眼下に望むドーム状の建物。建物前の広いスペースには、賑やかに蠢く人の群れ。周囲に建てられたいくつものホール、その長方形の屋根が幾何学的に敷き詰められている様は、むしろ工場や研究所の屋根を彷彿とさせた。奥にはスタジアムも顔をのぞかせ、その更に向こうには夏空を映し返す太平洋が広がっていた。
────────幕張メッセ。
今日から3日間かけて開催されるイベント。その舞台となる会場だ。
そして明後日、"僕"が立つ舞台でもある。
思い出したように背筋が震える。でも恐怖なんかじゃない。腹の底が擽られるような、首筋が心地よく粟立つような、そんな感覚。
メインディッシュの前にも似た、恍惚に近い武者震い。
その時、ふいにスマホが鳴った。
「はいほーい、もしもし?」
〈……誰ッスか〉
「電話して来たのは君の方だろう?」
〈その喋り方……。アキラさんッスね〉
電話口の女がフゥ、と溜め息を吐く。〈"造り替える"なら先に知らせてもらわないと。人違いかも、って焦るのはウチらなんスよ〉
「やぁ、申し訳ない。ちょっとしたアクシデントがあってね。そうだ! せっかくだし、僕の華麗な色仕掛けテクを、」
〈そういうの良いんで〉
「わぁ冷たい。もしかしなくても煙草切れ?」
〈先にブチ切れても良いんスけど〉
殺気立った彼女の声。
やれやれ、という言葉は仕方なく飲み込んだ。もう一段階茶化したい気持ちもあるけれど、沸点の低い彼女のことだ。これ以上怒らせて計画に支障が出る方が面倒臭い。
コホン、と咳払いをして見せる。それと同時に喉を調整する。元の地声を思い出しながら、それに近いものへと声色を弄っていく。
「それで? こうして電話をくれたってことは、そっちはもう準備オーケーなのかな?」
〈準備も何もないッしょ、こんなの〉
「あれ、君が『メッセは初めて』って言ってたから先に会場を下見してもらってたはずだけど。もう終わったのかい?」
〈会場の下見くらい秒で終わるッスよ、オタク舐めんな。あの女がウチの邪魔しなけりゃ、それこそ20分も掛かんなかったッスけど〉
苛々と彼女が言う。「あの女」とは彼女に同行しているもう1人のことだろう。彼女が煙草を吸えていないのもその所為に違いない。連携すら危ういなんて、我が事ながら、即席でメンバーを増やすのも考えものだ。
〈それより〉と彼女の矛先がこちらに向かう。〈アキラさんこそ、準備はいいんスか。そろそろ時間スけど〉
その言葉に自信を持って頷く。
「もちろんさ! ボイスもばっちり録ったし、一斉送信の手筈も整えた。何より新生『五重奏』、最初で最後の大舞台だからね。余すことなく堪能しなくちゃ勿体ない!」
通話画面をそのままに画面をスワイプ。そのままチャットアプリを立ち上げる。
送信ボタンに指を添えれば、脳が甘美に震える。高揚で胸が沸き立つ。
静まり返ったビルの最上階。傍らの車椅子で置物のように腰掛ける老婆。そして眼下に広がる会場は、世界は、明後日"僕"によって埋め尽くされる。
送信ボタンを押す。舌で唇をそっと濡らす。
「────さぁ、聖餐を始めよう」
贅を尽くした僕の為の御饌、その最初の一手。