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Missing Never End  作者: 白田侑季
第8部 胎動
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K汰 - Ms. Bougainvilleaの淡い夢




 ────思わず、溜め息が出た。その溜め息すら、景色の一部として溶けていく。


 視界に映る、見渡す限りの水の原。白波の立つ広大な海野。そんな光景が、気の遠くなるような水平線の先まで続いている。明けたばかりの朝の空は淡い薄桃色と、限りなく白に近い水色に染まっていて、水平線はその境目へスゥ、と吸い込まれていく。


 靴の裏に感じる、細かくて柔らかい砂粒。固いアスファルトとも、エアコンの風でひんやりとした床とも違う。ふすふす、と音を立てる不思議な弾力に足がとられそうになって、慌てて履いていたスニーカーを脱いだ。脱いですぐ、砂粒が靴下に貼りつく感覚にゾワッとして、今度は靴下も脱いだ。素足で砂の上にしっかり重心を乗せると、砂は少しあったかくて、心地よかった。うなじを吹き抜けていく潮風。さらさら揺れる前髪が朝の光をきらきらと弾く。何より。


 砂浜に立つ自分、それよりも前方に"何もない"、という感覚。


 もちろん何もないわけじゃない。目の前には広大な海原がある。空の青色がある。遠い水平線もある。


 それでも"何もない"と思わされる。どこまでいっても"空間"がある。遮るものもなく。立ち塞がるものもなく。ただひたすらに"何もない空間"だけが広がっている。そして。


「…………、ぁ」


 そして、声が響かない。


 反響が無い。限度が無い。こうして溜め息をついても音が一切返ってこない。その在り方は、かつてぼくがいたあの「白い空間」にも似ているけれど、やっぱり違う。


 "一人"なのに。"何もない"のに。なぜか"独り"だと思えない。


 目を閉じて深呼吸する。潮の香りが鼻の奥をくすぐる。


 音が遠い。耳を揺する波の音。風の音。それ以外の全部が遠い。


 目を開けて、再び視線を波立つ海原に向ける。砂浜はもう少し先まで続いている。波打際までは、あと20メートルくらい。


 後ろを振り返る。ここまで歩いてきたアスファルトの道と、この砂浜を隔てるように海岸線に沿って伸びるコンクリートの塀の上に、圭は腰掛けている。ぼくの視線に気付いたのか、好きにしろ、とでも言いたげにフン、と鼻を鳴らした。その合図にぼくもコクリ、と頷く。脱いだスニーカー片手に、不安定で柔らかい砂浜に足をふらふらさせながら、海の縁まで歩き始める。


 空は雲ひとつない真っ青。水平線近くは薄桃色と白のグラデーションだけれど、少し上を見上げれば溺れそうなほどの水色がそこにあった。海原も、空を映したような淡い青色をしている。そんな世界の間を、名前の知らない白い鳥がスイ、と泳ぐように飛んでいく。


 圭いわく、空には"何もねえ"、らしい。眩しくて熱い太陽や、真っ白く膨れ上がった入道雲が浮かんでいるけれど、その上には更に広い「宇宙」がある。生物の住めない「宇宙」の空間は、それこそ理解が追い付かないほど広く、青い空はそんな「宇宙」までノンストップで繋がっているらしい。つまり、いま目の前に広がっている青さには、文字通り()()()()のだ、と


 そして海も。いま目の前に広がっているこの青い海も、ぼくがこれまで過ごしてきた「陸地」以外の全部を覆い尽くしていて、なおかつ「地球」は球状をしているから、「まあ海も果てがねえみたいなもんだろ」らしい。


 青い空。青い海。


 あの「白い世界」とは違う、遮るもののない、果てのない広大な空間。


 "青"というのは、果てがない色なんだろうか。


 そんなことを考えているうちに、ようやく海の縁まで辿り着いた。波が届くか届かないかのギリギリの場所でそっとしゃがみ込んでみる。ざあっ、と寄せた白波が心地よい音とともに砕けて、滑るように砂の上を流れる。薄く伸びた透明な水の中で、さらに細かい砂粒が音もなく軽やかに踊っては、淡い朝の光をきらきらと弾く。そんな星のような砂粒をよそに、薄い波は静かに海へと返って、別の新しい波にぶつかりながらまた砂浜へと寄せられる。


 さざ波の浸食は思ったより早かった。ぼくがしゃがみ込んでいた場所は、気付けばくるぶし辺りまで水に浸かり始めていた。そっと後退して、海と砂浜の境目を探しながら、足先が心地よく洗われる感覚に身を委ねる。その間も、潮騒は止まることなく響き続ける。


 静かに、緩やかに、ささやかに。けれど止めどなく返しては寄せる、波の音。終わらない海の唄。


 何となく、後ろを振り返った。


 さっきまでいたコンクリートの塀。その縁に腰掛け圭が、片手にスマホを持っている。その姿はお米の粒くらいまで小さい。そんな小ささでも、圭が「何だよ」とでも言いたげに顔をしかめたのが分かった。


 だからぼくも首を振った。圭からすれば、きっとぼくもお米の粒くらいまで小さく見えるんだろうけど。そう考えると、何だかおかしかった。心の奥がくすぐられるような、心地良い感覚。


 その感覚に身を任せるように、ぼくは砂浜を蹴った。海の方から吹いてくる風に背中を押されるように、元来た方へ。圭の元へ戻っていった。




「写真、撮ってたの?」


 戻るなりそう尋ねたぼくに、圭がなぜかバツの悪そうな表情を浮かべた。


「……悪かった」

「撮ってたんだ」

「悪かったって」


 ムッとしたように、それでいてはぐらかすように、圭が自分のスマホを取り出して操作し始める。「消しゃあいいんだろ、消しゃあ」


 そんな圭の腕をおもむろに止めて、首を振る。


「消して欲しいんじゃない。ぼく、消してって言ってない」

「じゃあなんだよ」


 ぼくは圭の言葉に応えずに、そのまま圭の隣に腰掛けた。塀の上は少し高くて、なんだか背が伸びたような気分になる。


「ありがとう、圭。一緒に来てくれて」

「……別に」そう言いつつ、圭はスマホをしまう。「礼を言われるようなことでもねえだろ」


 そういえば、と圭に尋ねる。


「圭が想像してたのも、こんな感じ?」


 その言葉を聞いた瞬間、圭の横顔が一瞬だけPの表情(仕事モード)になる。


「雰囲気はな。波の音と風は要らねえが、"広がり"っつう意味ではまあ大体合ってんだろ。強いて言やあ、もうちょい高音が響く感じだな」


 細かい修正。些細な指摘。そのわりに漠然とした表現。この前圭から受けた微調整を思い出す。


 でも不思議と理解できた。圭の言いたいこと、感じ取ったこと、その細部まで。だから、いまの圭の言い方も「かなり正解に近い」という意味なんだと分かって、少しホッとした。


「圭は海に来たことあるの?」

「そりゃあな」

「誰と?」

「別に。普通に家族とか、修学旅行とか。大学ン時もバンドの奴らに無理やり付き合わされたしな。あとは昔の……、とにかく、まあ来たのは久々だがな」

「ふうん」

「ふうん、て」


 ただまあ、と圭。「久々だからか、意外と飽きねえもんだな」


「"飽きない"」

「ああ」と圭が頷く。「ぼうっと出来る、っつうか。あれだな。目が良くなりそうな気がする」

「なに、それ……?」

「わ、悪ぃかよ。ずっとモニターに齧りついてる身からすりゃあ、そうも思うだろ。何せここまで広いんだ」


 困惑するぼくの様子に何か勘違いしたのか、圭がぶっきらぼうに言葉を濁す。「そんなことより、お前の方こそどうなんだよ。海に行きたい、っつったのはお前だろ」


「ぼくは……」


 もう一度海を眺める。波打際から離れはしたけれど、まだ潮騒は静かに聞こえている。


「ぼくは、びっくりした」

「……んだよ、そりゃ」

「あんまり広くて。こんなに広いと、思ってなくて」


 アサヒの言っていた"広がり"。確かに、ぼくも想像はしていた。何度か録音した時もそうだ。音もなく吹く風を、誰もいない景色を、だだっ広い空間を想像しながら歌ってみた。でもアサヒから聞いて実際に来てみた「誰もいない海岸」は、ぼくの想像を遥かに超えていた。


 ただ音がないだけじゃない。ただヒトがいないわけでも、ただ広いわけでもない。


 広すぎて反響が無い。果てしなくて限度が無い。溜め息をついても音が一切返ってこない。その在り方は、かつてぼくがいたあの「白い空間」にも似ている。けれど、やっぱり違う。


 "何もない"のに"独り"じゃない。そんな気持ちにさせるような、どこか包まれているような。"何もない"からこそ、"埋めたい"と思うような。



 ────どこにも響かないからこそ、唄で"埋めたい"と思うような。



 黙り込んだぼくの横で、圭がつぶやく。


「本当にこんなんで良かったのか?」


 潮風の音に溶けるような、そんな圭のつぶやきに頷き返す。


「うん。良かった。"誰もいない海岸"の感覚が分かったから。それに」

「それに?」

「海、綺麗だし」

「……そうかよ」


 急に口ごもる圭。その横顔がうっすら赤みを帯びている。


「圭」

「今度はなんだ」


 ぼくは口を開く。聞くなら今だと思ったから。


 誰もいない海岸で。圭とぼくだけしかいなくて。ここまで広い、反響も限界もない、果てしない空間の縁にいる今なら、聞けると思ったから。


 ずっと、圭に聞いてみたかったことを。




「────────圭は、どうして音楽を作ってるの」




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