ZIPANDA - エゴイスティック・ラブ
「────────ズ、──い、リズ」
声がこだまする。右に、左に、そしてだんだんはっきりしていく。
「おいリズ、そろそろ起きてくれないか?」
はっきりしていくに、つれて。
実感する。
「…………あ、」
「『あ』?」
問い返す声に、心の底からの言葉で答える。
「あ゛た゛ま゛い゛た゛ぃ゛ぃ…………」
「ハハッ! そらそうだろうよ、この呑み助め」
からかうようなその笑い声すら脳にズン、と重く響く。ぐわんぐわん、と回る頭を何とかもたげる。
そんな私の様子を見て、目の前の男はまた笑う。その手には、バーテンダー姿の彼には少し不釣り合いな、渋い湯呑み。
「ほい、しじみ汁」
「……なんでバーにしじみ汁があるのよ」
「遥か昔にどっかの誰かさんが呑み漁ってた時、オレが先代の店長に提案してたんだ。コレが意外とウケてさ。今じゃうちの看板メニュー、ってな」
その"誰かさん"は当時と同じように、こうして二日酔いに苛まれている訳だけれど。なんという最悪なマッチポンプ。いや、それよりも。
「ごめんなさい、いま何時?」
「夜の29時」
「妙な計算させないで……」
悪い悪い、とまったく悪気なさそうに言う彼。「頭の体操にはちょうどいいだろ」
彼の言う通り。少しずつ、少しずつ頭が回っていく。ぼやけていた視界に焦点が合っていく。ちら、と周囲を見渡せば、そこかしこに置かれた革製のソファ。消された電飾。その奥にある小スペースに設けられたDJステージ。それから自分がさっきまで突っ伏していた黒光りするカウンターと、その向こうの壁に所狭しと並べられたキープボトルの数々。
バー「Choir」。私が昨晩、酔いつぶれるまで呑んだ場所。
思い出す。自分がどうしてここにいて、昨晩何をして、どうして二日酔いになるまで飲んだのか。
どうして、そんなことをしたのか。
胸の奥が思い出したように重たくなる。黒々とした何かがわだかまる。
そんな重さを振り払うように、私は受け取った湯呑みを勢いよく煽った。滋味深い塩味がとろり、と喉を滑っていく。
「お、良い飲みっぷり」
とぼけたように目の前の男──ユキオが茶化す。「昨晩の荒らし呑みで勘を取り戻したのかねぇ」
「……あのねぇ。私だって外飲みくらいしてるわよ。取り戻すまでも無いわ」
「へぇ。ウチには全然顔出さなかったのにか?」
「あら、『ZIPANDA』を呼ばなかったのはソッチでしょ。売れ筋に声を掛けないなんて、キミもさぞお忙しいのでしょうね?」
「何を言う、売れ筋だからこそだろう。このハコにおまえを呼んでみろ、客の多過ぎで店がパンクするのは目に見えてる。オレはともかく、愛しの『ゆりりん』にまでそんな負担を掛けるわけにいくか」
うわ、と思わず声が出た。「キミねぇ、店の子に手を出すな、って先代にあれほど……」
はあ、と溜め息をついたのはユキオの方だ。「おまえの方こそ、色恋沙汰で早とちりするな、って散々言われてただろう。『ゆりりん』はウチの子じゃなくて、オレの相方。オレが1人で店回してるのが心配だから、って何かと手伝ってくれてんの」
「アラ失礼。かの『メルシィ』がお手つきするなら、って思って」
「ハ、その名前で呼ぶのはもうおまえくらいだろうさ。オレの心はもう『ゆりりん』一筋だからな。まったく、とんでもない物を盗まれちまったもんだ……」
「その惚気が面倒だから来たくなかったのよねぇ、ここ」
げんなりする私に、ユキオは「分かり切ってます」とでも言いたげな表情で溜め息をつき、カウンターの片付けに戻って行った。その背中に小さく舌を出しつつ、湯飲みの底に残ったわずかなしじみ汁を流し込む。
新宿2丁目、雑居ビルの隅に居を構えるここ「Choir」は、表向きはよくあるゲイバーの1つでありながら、EDM好きの中ではそこそこ名の知れたDJバーであり。かつて私が入り浸っていた場所でもある。
薄暗い店内に妖しく揺れるライト。渇いたグラスの音と、甘いアルコールのフレグランス。そして腹の底に響く煌びやかな重低音。夜の29時である今となっては、その喧騒もすでになく、革のソファが暗い店内に沈んでいるだけだけれど。それでも当時の私には、どれもこれも眩しく映ったものだ。
最初はただ"好き"なだけだった。私みたいな半端者にとって、この場所は単純に居心地が良かった。重低音に身を預けて、心地よいアルコールの酩酊に溺れて、近くの客と一緒に我を忘れて踊り明かす。それだけで日夜苛まれる暗い感情とおさらばできた。いま目の前で鼻歌まじりにグラスを拭いている2代目店長のユキオも、そんな当時の悪友の1人だ。
けれど、その"好き"は次第にその言葉の範疇を超えていった。
私も、あの中へ。私があの音の中へ。あの音のど真ん中へ────
衝動に導かれるように手を伸ばし、のめり込み、見よう見まねだったDJ技術は、やがて他の客からも認められるほどのものへと変わっていった。
いつしか他のバーやクラブハウスなどからも声が掛かるようになり、呼ばれるハコは広く大きくなり、その結果がいま、こうして一角のPとして音楽で暮らしていけるまでになった。そういう意味では、このバーは『ZIPANDA』の原点と言えるのかもしれない。
そんな私の音楽人生の始まりとも言えるこの大切な場所で、昨晩潰れるまで飲み明かしたわけだけど。
妙な姿勢で寝ていたから身体はバキバキ。化粧も落としておらず肌荒れ。吞み過ぎでむくみが酷い。喉の違和感も拭えない。こんな最低なコンディション、いつもなら鳥肌が立つほど許せないのに。今は。
「────ほんと、何やってんのかしらね」
思わずこぼれた言葉に、カウンター向こうでグラスを片付け終わったユキオがフッ、と軽く微笑んだ。
「別に。いまに始まったことでもないだろう」
「え?」
「好き勝手やらかして後で死ぬほど後悔するのは、おまえの十八番だっただろ、って話だ。オレはむしろ安心したね。久しぶりに顔突き合わせようが、おまえは相変わらずなんだな、ってさ」
柔らかい物言い。程良い距離感。ユキオの微笑みから、かつての思い出が、ちら、と脳裏に閃いて。懐かしさで胸が痛む。
それで? と腰に手を当てるユキオ。「閉店した後までクダ撒き続けた挙句、勝手に爆睡したおまえさんは、結局何がしたかったんだ?」
「……別に。ちょっとした憂さ晴らしよ」
「"憂さ晴らし"って言うにはかなりヤケだったな?」
突っ込んで聞いてくるユキオ。その顔に向かってフン、と湯呑みを突き返す。
「キミも相変わらずね。オトメの胸の内に土足でズカズカ入り込むなんて野暮」
「いやいや、おまえの為にわざわざ店を開けてたオレには、ズカズカ入り込む権利ぐらいはあると思うぞ」
ぐうの音も出ない。
「ここを離れてもう5年近くなるってのに、『久しぶり』の一言もなく店に飛び込んで来たと思えば、"タランチュラ"のショットを立て続けに3杯。その場にいた客全員に『今夜は奢る』って言ってカウンターに万札叩き付けた挙げ句、せっかくウチが呼んでた期待の若手DJを焚き付けて引き摺りおろ、」
「分かった分かった話せば良いんでしょ話すわよぉ!」
叫んだ声はそのまま二日酔いの頭に返ってきた。再び差し出されたグラスの水をありったけ流し込む。
「おーおー、酒が残るくせに声量抑えられないのも相変わらずだ。ま、おかげさまで昨晩の売り上げは悪くなかったけどな」
さんきゅ、と軽い調子で笑うユキオ。
でも彼はそれ以上揶揄う素ぶりを見せない。その空気感から、私の次の言葉を、私が打ち明けるのを待っているのだと分かる。
……なによ、相変わらずなのはお互い様じゃない。
昔っから他人の悩みを聞き出すのが絶妙に上手かった男だ。店の子をその気にさせては取っ替え引っ替えしていたそんな男が、この店でバーテンダーになっているのも頷ける。「3Bとは付き合うな」と言い継がれているのも、あながち間違いではないんだろう。
グラスに視線を落とす。空になったその底で、数滴の水が所在なげに震えている。
バーは静まり返っている。ここにいるのは私とユキオだけ。だから。
いいえ、だからこそ。
「────ホントに、ただの憂さ晴らしヨ」
言えなかった。
いや。それしか言わなかった。怪訝そうな顔のままカウンター奥に引っ込むユキオを視界の端に収めながら、それでも言わなかった。
だって、言ったところで始まらない。打ち明けたところで消えはしない。
────唄川メグの、全て。
覚悟はしていた。記憶が全て復元されるよりも前から、ああ多分そういうことなんだろうな、と察しは付いていた。
「唄川メグ」は、その存在からして世間から否定されていた。好き嫌いや風評被害などで済む話じゃない。その存在の成立からして、「唄川メグ」は赦されてはいけないものなんだ、と。きっと私だけじゃない、あのコの近くにいたK汰ちゃんも、ヒロちゃんも、他のみんなも。次第に、何となく察していたはずだ。
それでも、衝撃は深かった。昨日一日、ノアちゃんが作ってくれた「K汰君の作戦を共有するグループ」のタイムラインは一切動かなかった。誰も何も発言しなかった。発言できなかった。私達は、気持ちを共有するためのわずかな言葉すら完膚なきまでに失っていた。昨日の彼らは画面の向こうで、きっと昨晩の私と同じような心境だったんだろう。
私も。何も送れなかった。
励ましのメッセージ1つ。気付けのメッセージ1つ。送れなかった。だって気付いてしまったから。私がどうして「唄川メグ」を好きになったのか、思い出してしまったから。唄川メグという存在に出会って、私が真っ先に抱いたのは"好き"という感情なんかじゃなかった。──もっと身勝手で、汚い、どこまでも自己中心的な"同族意識"だった。
私の理想は『ZIPANDA』だった。自分の"好き"を理解して、自分の"好き"を貫いて、たとえ独りだったとしてもそこに立ち続けられるような、強い人間になりたかった。
オンナに成りたい訳じゃない。特別オトコが好きって訳でもない。でもどうしたってそういう風に見られるから、それっぽく振舞った方がいっそ気が楽で。実家から勘当されて、こういった場所でもどこか後ろめたくて、厳密には違うくせにそれっぽく振舞うことが申し訳なくて。どこまでいっても少数派で。自己嫌悪と罪悪感でどこにも居場所がないって勝手に自分を追い詰めて。お酒と音楽に逃げ続けていた、吐き気がするほど嫌いな自分。
だからこそ、せめて強くなりたかった。独りで立てる人間になりたかった。どこにも行けなくても、せめて現在に立っていられる人間になりたかった。ならなきゃいけないと思った。
だからこそ、ちゃんと"好き"だと思えた音楽にのめり込み始めた時。呼ばれるハコが次第に大きくなっていった時。自分で音楽を作ろう、と初めて思った時。
手に取ったのはバーチャルシンガーソフトで、目を惹かれたのは「唄川メグ」だった。
「唄川メグ」が────「唄川メグ」も、誰からも赦されていなかったから。
ああ、貴女も私と同じなのね、って。
そんな最低な同族意識。
そのくせ『ZIPANDA』としての活動が手広くなるにつれて。イベントなどに顔出しするようになるにつれて。次第に私は「唄川メグ」を使わなくなった。
私みたいな人間が「唄川メグ」を使えば非難の的になる可能性が高い。その考え方が、唄川メグだけのことを憂慮したわけじゃないことは明白だった。『ZIPANDA』の曲を、『ZIPANDA』というPを好きになってくれた人達が傷付く。そんな自分本位な、愚にもつかない最低な理由。たとえ独りでも強く立ち続けよう、なんて綺麗事の裏に潜んでいた、隠し切れない一抹の想い。
「唄川メグ20周年生誕祭事件」の時も、私は何もしなかった。何も出来なかった、ではなく、何もしなかった。どんなに弁を尽くそうと、結果としてはそういうことでしかない。K汰ちゃんに「ビビり」と言われたことも、今となっては反論したことすら烏滸がましく思える。
────ぼく、リズみたいになりたい。
そう言って私を抱きしめ返してくれたあの子に、私は。
罪悪感なんてどころじゃなかった。現実を見過ぎるあまり、私は「唄川メグという名前にこれ以上傷をつけないように」という言葉を免罪符に、「唄川メグ」を見限った。そこに気付いてしまってはもうだめだった。勢いに任せて古巣に飛び込み、忘れたくて酒に溺れ、結局何の足しにもなっていない。
そんな愚にもつかないことを、ユキオに言えるはずもない。
私に、何かを言う資格なんて────。
そのときカラン、コロン、とドアベルが鳴った。音に振り向くと、年季の入った店のドアの隙間から、線の細い青年が顔を覗かせている。
「あ、すみません。お邪魔でしたか」
申し訳なさそうに窺う青年に、慌てて首を振る。
「の、ノンノン! アタクシはお客じゃなくて……。というかイマは開店時間じゃ、」
そこまで言った時、ドアベルの音を聞きつけたのか、奥からユキオが顔を覗かせた。そのまま青年の姿を見止めたユキオの瞳がパッと輝く。
「お、なんだなんだ。来てくれたのかい?」
声を掛けられた彼の方も、どこか照れくさそうにカウンターまでやってきた。「夜勤明けのついでにちょっとね。ブラインド下りてないのが外から見えたから、まだユキオさん片付け中かなって」
「そりゃあ有り難いけどなぁ。気にせず、先に寝ていてもいいんだぞ?」
……その一言で気付く。何より、ユキオが彼に向ける視線が全てを物語っていた。まだあどけなさの残る青年の顔立ち、そこに向けられるユキオの瞳に宿るものは、ただの年下の男の子に向けられるものなんかじゃない。それは青年の方も変わらないようだった。
一気に酔いが覚める。胸の奥をくすぐる何かを、溜め息と共にそっと吐き出して、座面の高いカウンターの椅子からそっと下りる。
「……そろそろ行くワ、アタクシ」
「おいおい」とユキオが困惑気味に声を上げる。「忙しないな。こっちはまだ何も話してもらってないんだが」
「アラ、ただの"憂さ晴らし"だって言ったデショ? それ以上でもそれ以下でもないワ」
何か口を開きかけるユキオ。そんな彼を牽制するように、私は「そうそう」なんて言ってみる。
「しじみ汁のお代、まだだったわネ? アタクシ自慢の投げキッスで良いかしらァ!」
「結構だ。柄でもないくせに」
「アラ、そうだったわァ。投げキッスが得意なのは他でもないアンタだったわねェ、『メルシィ』?」
「? 『メルシィ』?」
その単語を初めて聞くのか、不思議そうに首を傾げる青年。そんな彼に「え、あ、いやぁ」としどろもどろしているユキオ。そんな2人の様子が、早朝の静かなバーカウンターに花を添える。
────ホント、"シャイニー"だこと。
「それじゃ。ゴチソウサマ」
そう言ってアタクシは扉を開け、バーを後にする。その背中に「ったく」と呆れながら、
「また来いよ」と、言葉を投げてくるユキオ。
「あ、ありがとうございました!」そこに重なる青年の──ゆりりんの声。
アタクシは振り返らず、背中越しに手を振る。一拍遅れて扉が閉まる。ドアベルの音が、静まり返った雑居ビルの階段にこだましながらゆっくりと消えていく。私は1人になる。
お幸せに、なんて冗談でも言えなかった私は1人、早朝の新宿を後にする。足先が向かうのは家路ではなく。かといってどうでもいい目的地すらなく。居場所はなく。
"好き"と言っていたはずのものを、最初から蔑ろにしていた人間が、もはや"好き"を信じられるはずもなく。
何者でもないヒトが1人。行く宛てもなく、彷徨い始める。
早朝の街はひどく寂しかった。