HighCheese!! - アイの糧:争奪戦
暗い廊下から自室に戻る。卓上ライトの灯りに照らされたパソコン前の椅子に、そそくさと座り、ヘッドセットを掛け直す。
「────お待たせしてすみません、パスコさん」
マイクに向かってそう言うと、モニター越しにパスコさんの明るい声が弾けた。
〈全然いいよぉ~。"ぷらすちゃん"の方こそ時間大丈夫?〉
「私も全然。さっきのは単に、家族が急に外出しなくちゃいけなくなって、玄関まで見送ってただけなので」
〈こんな時間に? 大変だねぇ〉
大変だね、と言ってくれるパスコさんは、それ以上踏み込んでくる様子はない。パスコさんはいつも私のプライベートに深く踏み込まないようにしてくれている。社会人だ、とは以前聞いたけれど。私にとってこの距離感は心地よかった。
"急に外出した家族"は、お母さんだった。それまで自室に籠っていたと思ったら、急に「圭くんから連絡が来たから行ってくる」と渋々外出していった。落ち込んでいないのは良かったけど少し心配でもある。夜遅いからってだけじゃなく、もっと別の理由もあるけれど。ともかくパスコさんは、そう言ったことに一切突っ込んでこない。「HighCheese!!」として動画制作をパスコさんによく依頼するのは、そういうところにもあったりする。
〈じゃあさっきの続きね。ショート動画の方はこれで行くとして、MV用のイラストはどれくらいで上がりそう?〉
ええと、と言葉を探る。「か、完成品はもうちょっとで上がる、っておk、……『ヒロアキ』さんが言ってたので。お渡ししたラフ画で絵コンテ切って頂くことは……」
〈んもぅ、そんな申し訳なさそうな声出さないの~。ぷーちゃんは本当に生真面目だねぇ〉
「む、無理をお願いしてるのは、本当なので……」
〈安心して〜。今回は1枚絵だって聞いてたから、動きはほとんど入れるつもりないし。ぷーちゃんも、元々そのつもりだったからウチに頼んでくれたんでしょぉ? 貰ったラフ画から大まかな配置に変更がないなら、コンテ切るくらいチョチョイのチョイだよ〜〉
柔らかい調子で励ましてくれるパスコさん。その言葉でようやく肩の力が抜けはじめた。
「……ありがとう、ございます」
〈いえいえ〜。と言うより、ウチとぷーちゃん、何年一緒にやってると思ってんの!〉
パスコさんはいつもこうだ。固くなりがちな私に、ほどほどの距離感で、それでも作業だけの間柄じゃない、不思議な立ち位置で寄り添ってくれる。
『超熟生パスコ』さんにMV製作を依頼しはじめたのは、私が『ぷらす』として楽曲製作を始めたのとほぼ同時期だった。右も左も分からなかった当初、パスコさんに出会えたことはいまでも忘れない。イラストと動画を含めたMV全体を「辺野もへじ」さんにお願いし始めた今でも、パスコさんには定期的に依頼している。
年数も、経験も、一緒に作ってきた楽曲も。『HighCheese!!』としての時間の大半を知っている人。
〈ていうか、思い返してみると。『アイの糧:争奪戦』とかもうちょい巧くできた気がするんだよねぇ~。って、超今さらなんだけど!〉
「い、一番最初のやつですもんね……」
〈そーなのそーなの! ウチも駆け出しの動画師だったわけで。ぷーちゃんの曲に全然合わせてあげられてなかった、っていうか。あ、そうだ! なんならリメイク版とか作っちゃう!?〉
「いいいいいいいえいえいえいえっ、あれは想い出ではあると同時に黒歴史と言いますか青春時代に埋め込んだ中二病狂喜乱舞の蟲毒と言いますか」
〈わっはははは! 相変わらずぷーちゃんの語彙力変わってんね!〉
パスコさんの爆笑がヘッドホンいっぱいに広がる。それから懐かしむような声に変わった。〈いやーでもだよ? 今でこそ寸劇チックな元気曲で一世を風靡してるぷーちゃんだけどさ、あの頃のトゲトゲした楽曲もウチは好きだったなぁ。それこそ『めのまえまっくらとかそんなぁ!』までは、けっこうさ……〉
そのとき、ふいにパスコさんの声が途絶えた。
「……パスコさん?」
息遣いは聞こえる。でもどこか言い淀むような、そんな空気が流れる。
〈……あー、ごめんね。急に黙っちゃって〉
そうはぐらかす声も、どこか元気がない。
だからこそ察してしまう。
息を吸う。彼女の沈黙に応える。「打合せがしたい」と突然ボイスチャットをしてきてくれた、その優しさに応える。
「ありがとうございます、パスコさん。……それと、すみません。お気を遣わせてしまって」
あ、いや、と焦ったようなパスコさんの声。〈違う違う! むしろ気を遣わせちゃったのはウチの方っていうか。気を遣うつもりが盛大に空回りしちゃった、っていうかぁ~……〉
〈……うん、正直言うとね。勝手にウチが気を揉んじゃっただけなの。ほら、この業界『才能優先、年齢は二の次』なんて風潮あるけど、一応年齢的にはウチの方がおねーさんだしさ。ぷーちゃんが心配になっちゃったのよ。……今朝、あんなことがあったし〉
今朝。あんなこと。そんな単語で通じてしまうほどのことが、確かにあった。
マイクに衣擦れの音が入らないよう、胸の辺りを静かにぎゅっと握る。痛みが癒えない。傷が塞がらない。開いた口から黒い感情が溢れてしまいそうで恐ろしい。
今朝、思い出した。私だけじゃない。きっと日本中の、もしかすると世界中の、
みんなが、唄川メグを思い出したんだ。
〈今はどこも静まり返ってるけど、いつどんなことが起こってもおかしくない雰囲気じゃん。誰か1人でも言い出せば、流れがそっちに全部持ってかれちゃうような、そんな空気をビシビシ感じるの。でも、ウチがまだ見てないだけで、ぷーちゃんとか他のPの所には、もう"そういう"コメント行ってるかも、って思ってさ〉
ねぇ、とパスコさんが静かに問う。
〈今回のぷーちゃんの曲。コーラスで入ってる女の子の声……、アレって、メグ?〉
────心臓が、痛い。
〈"獅子宮くん"のボーカルはすぐ分かったけど、コーラスの声はぷーちゃんじゃなかったし。ぷーちゃん、元からメグちゃんのこと大好きだったし……。それに、ほら! ウチはPじゃないけど、これでも一応この界隈で無駄に長くやってきたわけだし? 勘で気付いちゃったっていうかさ……。もちろんウチの盛大な勘違いって線も捨て切れないんだけどぉ、たはは!〉
苦笑いするパスコさんは、けれど言葉を止めない。
〈……でもね。それってつまり、ウチでもそう勘繰っちゃう、ってことだと思うの。それが事実じゃなくても、そう言い出す人は必ず出てくる。"声がメグっぽい"って、ただそれだけの理由で誰かが一言コメントすれば、ほんと、何が起こるか分からない。ぷーちゃんがメグ曲をよく作ってたことも、その中にスッゴイ曲が何曲もあるってことも、……それを逆手にとって嗤う捻くれた人も。今回の曲を投稿すれば、それは避けられない。大好きな『HighCheese!!』の曲は高確率で踏み散らされる。ウチはそんなの嫌。ウチは、ぷーちゃんにそんな目に合ってほしくない〉
「パスコさん……」
〈ごめんね、ぷーちゃん。でもこれは、年上お姉さんからのお小言なんかじゃなくて。微々たるものだけど、ぷーちゃんと一緒に楽曲を形作らせてもらってきた、仕事仲間としての、純粋な……ううん、ただのファンとしてのお願い〉
深く踏み込んでこない。気のいいお姉さんのような。
そんなパスコさんの、お願い。
〈────投稿しないで欲しいな、この曲。大好きだからこそ、ね〉
ふぅ、と溜め息を吐く。
背もたれにゆっくり身体を預けると、ギシッ、という音が光のない部屋に寂しげに響いた。通話越しに弾けていたパスコさんの明るい笑い声はもう無い。窓の外は深夜。海の底にも似た静寂。パソコンの画面だけが眩しい。お母さんは出掛けたまま。お父さんは。ミヤトは。
私は。
もう一度、深い溜め息。
スマホは鳴らない。ノアちゃんが作った「K汰くんの作戦を共有するグループ」は動かない。誰も何も言わない。私が、みんなが、全部思い出したのに。グループは動かない。私に動かす気力もない。ドゥさんを探すために無理やり交換したトリさんの連絡先からも、今は何の音沙汰もない。
たぶん、みんな思い知らされたんだと思う。
『唄川メグ』はそういう存在だった、と。
許されちゃいけない違法製品で。歌声は拙くて。そのことでたくさん、たくさん詰られて。虐げられて。それでも生まれたムーブメントは、たった1人の罪によって腫れ物のように扱われた。
────過去は変えられないよ。
こんな時に、ノアちゃんの言葉が脳裏に蘇る。
過去は変えられない。その通りだ。どうしたって起きたことは変わらない。メグちゃんの生誕も、歌声の拙さも、信者の起こしたどうしようもない罪も。全てが『唄川メグ』の背負う業。拭えないイメージ。変えられない過去だ。私にどうこうできる代物じゃない。
そう、変えられない。だから受け入れるしかない。
受け入れる、しか。
「…………無理だよ」
思わず言葉が漏れる。回転イスの上で膝を抱える。顔をうずめる。
受け入れられない。納得できない。メグちゃんの生まれがどうあれ、虐げられていい理由にはならない。でも、彼女の存在自体が社会から、みんなから赦されないのなら。みんなが赦さないのなら、私に出来ることは何だろう。私に出来ることなんて、あるんだろうか。
メグちゃんのありのままを受け入れたい。私がそうしてもらったように、メグちゃんの全てを受け止めたい。
でも、それは赦されない。みんなが赦さない。私がメグちゃんと一緒に元気にしたかったはずのみんなが、メグちゃんを赦さない。
それが理解るから、何も言えない。
全てを思い出した今朝からずっとそうだ。何も出来なくて、何をすればいいか分からなくて、夏休み明けなのに学校を休んだ。部屋に閉じこもってパソコンと睨めっこして、それでも作業は一音たりとも進まなくて、明るい窓の外の景色すら何だか気持ち悪くて。誰にも連絡できなくて、誰とも連絡する気になれなくて。そのくせ何か言ってほしくて、スマホの通知ばかり確認しては、私何してるんだろう、って絶望した。そんな1日だった。
腕の隙間から窓を見やる。カーテンに閉ざされた窓は、星すら見えない。
お母さんはいまK汰さん家にいるんだろうか。そこにはメグちゃんもいるんだろうか。
私は、メグちゃんに。何を。
パスコさんは言った。「投稿しないで欲しい」と。私もそうだ。メグちゃんの全てを思い出した瞬間から、この曲を投稿するのはマズい、と思ってしまった。そう思ってしまった自分に心底軽蔑した。それでもパスコさんの言葉を覆せなかった。
誰かを元気にしたい。
そう言いながら、私は、一体、何をして。
抱えた腕に力を込める。瞼をギュッと閉じる。
誰か。誰でも良いから。教えて。お願い。
私が何をすべきかを。
誰か。