K汰 - Lazy Lo-fi
目を開けた。自分が目を開けている、と気付くまでに少し時間がかかった。
部屋は暗かった。いや一ヵ所だけ、少し離れたところにあるパソコンの画面が二つ、暗い部屋の中でもひときわ明るく灯ったままだった。
しばらく横になったまま、パソコンの前に座った圭の背中をぼうっと眺めていた。
いまは夜中、だろうか。部屋の暗さのせいか、閉め切ったカーテンの向こうに滲んだ街灯の明かりがうっすらと透けて見える。サアァ、と柔らかな音がしている。雨が降っているのかもしれない。そんな雨の音が、静かな夜を余計に際立たせているように思えた。
昼間、アサヒと過ごした賑やかさが嘘みたいだ。圭とアサヒが買い出しから戻ってきた後も、買ってきた食材を冷蔵庫に詰めたり、アサヒが食事の作り置きを数品作ってくれたり、新しいぼくの布団を広げたり。わいわい、がやがや。外は暑くて部屋は涼しいのに、なんだか心の底はぽかぽかしていた。空気そのものがキラキラしているような気さえした(アサヒが掃除してくれたからかもしれないけど)。
だからアサヒが帰る頃には、少しだけ寂しさを覚えた。アサヒは笑って、また様子見に来るから、と言ってくれたし。圭もまだ一緒に居てくれるけれど。また会えると分かっていても寂しさは拭えなかった。
いま部屋は静けさに満ちている。窓ガラスの向こうの小雨の音。パソコンのブルーライト。逆光になった圭の背中。寂しさではない、どこか安心感のある穏やかな静けさ。
しばらくすると、少しずつ頭が冴えてきた。どうしよう。夜中だから寝た方が良いんだろうけど。
迷っているうちに、今度は音が聞こえてきた。小雨の音じゃない。静かな時に聞こえるキーンとした音でもない。どうやら圭のパソコンから流れているようだった。
これは、────────?
ふと、目の前に何かがよぎった。それもたくさん。一度に大量に。
たくさんの色。たくさんの音。色彩。鮮音。閃光。影。いくつもの断片。無数の破片。カラフル。モザイク。跳ねて、委ねて、これは、なに、と想う間もなく、その全てが一瞬で視界をよぎり、
一瞬で消えた。視界はまた、静寂に包まれた圭の部屋を映す。
何だろう、いまの。分からなかった。実際に目の前にあったわけじゃない、と思うけど。頭は痛くない。息苦しくもない。さっきのは、ぼくの、なんだろう?
思わず身体を起こす。衣擦れの音で、圭が振り返った。
「すまん、起こしたか」
「あ、ううん、なんでもない……」
口ごもるぼくを横目に、圭はマウスをカチカチッと動かした。
「眠れねえのか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと起きただけ」
「いや、俺が音流しちまったからな。こっちはヘッドホンするから、お前はもう一回横になっとけ。昼間あんだけ色々あったんだ、そのうち寝れるだろ」
圭はそう言ってくれたけど、何だかいまは眠れるような気分じゃなかった。代わりに聞いてみる。
「圭、さっきの音って」
「さっきの音? 外か?」
「ううん、圭のパソコンの方。何か鳴ってた」
「──────ああ、アレか」
数瞬ののち、圭の目の奥が少しずつ冷めていった。ぼくはその目をどこかで見たことがあった。
「まあ、別にお前に言うようなことじゃねえよ。大したもんじゃねえ。さっさと寝ろ。夜更かしは良くねえぞ」
圭はそのまま、傍に置いてあったヘッドホンを手に、パソコンの画面に戻ろうとする。
なにか、変なことを聞いてしまったんだろうか。謝ろうか。それとも圭の言う通り横になった方が。焦る。もやもやする。でもそのとき、アサヒの声がそっと脳裏に蘇った。
まあでも圭くん、アナタにならスルッと言えそうだけどね。
「ねえ圭」
「……なんだよ」
「えっと……。今日、お昼の時、アサヒに絵を見せてもらったの」
圭は一瞬虚を突かれたような顔をした後、少しだけからかうような笑みを浮かべてくれた。「あのドクロの絵か? お前にゃ結構ショッキングだったんじゃねえの?」
「うん、びっくりした。ちょっとだけ」
「やっぱりな。お前が見たのがどれか分かんねえけど、あいつの絵は大体グロいからな。ドクロとか標本とか骸骨とか」
「アサヒは、ああいうのが好きなのかな」
「さあな。単純に人間の骨格に興味があるだけ、ってあいつはよく言ってるけどよ。描く絵がアレだからなあ。投稿した分は結構な確率でセンシティブ扱いされてっから世話ぁねえよ」
「圭も、アサヒに描いてもらったこと、あるんだよね?」
「……ああ、だいぶ昔だけどな。まあ、あの絵は割とマシだったけどよ」
どこか懐かしむような目の圭。伸びすぎた後ろ髪がゆらりと揺れる。
「ねえ圭」
「今度はどうした」
「圭は……。圭は、ぼくの声を、どこで聞いたことがあるの?」
さっきまで口の端で笑っていた圭が、また笑顔を引っ込める。「昼間の話か」
頷く。昼間、アサヒがぼくの声について言及したときに圭が言っていた。どっかで聞いたことがある、と。その時はアサヒの言うことを理解しきれなくて、流してしまったけれど。ずっと気になっていた。
「圭は、ぼくを拾ってくれた時から、ぼくを知ってたの?」
「違えよ」圭はすぐに否定した。「お前がこの部屋で起きて、初めて喋った時も何とも思わなかった。ただ、だんだん話すうちに、何となく、な」
「じゃあ、だんだん分かってから、アサヒに相談したの?」
「……なんだ、俺があいつに告げ口したとでも言いてえのか」
「ち、違う。違うよ圭、そうじゃない」
「じゃあアレか? 知ってたのに何で教えてくれなかったのか、とかそういう話か? 悪いが俺は別にお前の、」
圭がピタッと動きを止める。ゆっくりと片手で顔を覆う。奥歯を噛みしめて、苦しそうに吐き出す。
「……すまん、言い過ぎた」
ぼくは慌てて首を振る。「ううん、ごめんなさいは、ぼくだから。変なこと、聞いて、」
「違う。謝んな。お前のせいじゃねえんだよ。……馬鹿みてえ。俺は、こんなこと、言いてえわけじゃ」
「…………圭?」
圭はしばらく何も言わなかった。ぼくの目を見て、息を大きく、大きく吸って。
意を決したように瞳に光を込めて、口を開いた。
「────────俺は、」
〈おぉー、ここがあの『ケータ』の部屋かぁ!〉
圭の声とは違う、場違いな声が響いた。
〈うわ暗っ! あ、でも意外と綺麗じゃん。もっとゴミ屋敷っぽいの想像してたのに〉
弾むような、でもどこかからかうような、軽くて明るい男の声。
どこから聞こえるのか一瞬分からなかった。でも部屋を見渡して、耳を澄まして、気付いた。
圭のパソコンの画面に、いつの間にか通話用ウィンドウが表示されていた。
〈あ、気付いたぁ? 気付いてくれたぁ? てか女の子いるじゃん。キャーエッチィ!!〉
「……オイ、誰だてめえ、俺は、通話なんて、」
圭も動揺したように、画面を凝視している。画面にはウィンドウしか表示がないのに、それでも声の男は、まるでこっちが見えているかのようで。
────────まるで、ニタァ、と笑うような声で。
〈『ケータ』、見ぃつけた〉