K汰 - Fess up
〈…………なに〉
かなり長い間があって、スマホの向こう側から掠れた女のヒトの声が届いた。覇気のない、力の抜けたような。
でもそんな様子を気にも留めず、圭は食い気味に言った。
「んだよアサヒ、あんたがすぐ電話に出ねえなんざ珍しい」
〈……あのねぇ圭くん〉
圭の言葉に引っかかったのか、アサヒの声に少し苛立ちのようなものが混ざる。鼻が詰まっているのか、語尾もくぐもっていて苦しそうだ。〈こんなに延々と鳴らされたらはっきり言って迷惑。……悪いけど、今ちょっと、話す気分じゃ、〉
「そうか。分かった」と圭。「ならサビだけ流すぞ」
〈……は?〉
「イントロは飛ばす。ちょい待て」
〈ねぇ話聞いてた? いま私、話す気分じゃないって〉
「言ったな。なら聞くだけなら出来んだろ」
〈君ねぇ……ッ!!〉
アサヒの声に含まれる苛立ちが強くなる。
〈そんな状況じゃないのは君が一番よく分かってんでしょ!? えぇそうよ、思い出したわよ私も、今朝、全部ッ!! あの子のこと、全部、思い出して……ッ、それなのに何でそんないつも通りみたいに……ッ!!〉
そこまで言ったアサヒが唐突に言葉を切った。音声を、こちら側の空気を察したのか、ぽつりと声をこぼす。
〈…………そこに、いるのね。アナタも〉
ぼくはそっと頷く。それから、頷くだけじゃ伝わらないことに気付いて、なんとか「うん」と口を開く。
ぼくも電話の向こうのアサヒの姿を想像する。きっと苦いものを飲み下そうとするような、そんな顔をしているんだろう。でもそれは、きっとぼくの為だ。
だから言葉を返す。アサヒが何か言う前に、心の底からの言葉で。
「……ありがとうアサヒ。ぼくのこと、気にしてくれて」
電話の向こうのアサヒが、喉を詰まらせる。その様子が手に取るように分かる。
アサヒも『唄川メグ』の顛末を思い出した。だからこそ苦しんでいる。ぼくが苦しんでいないか、そのことが心配で苦しんでいる。ぼくのことを本当に想ってくれているのが言葉の端々から、何よりその声から伝わってくる。そのことに、たまらなく救われている自分がいる。
〈……アナタは〉
アサヒが声を絞り出す。
〈アナタは叫んでいい。怒っていい。……いいえ、怒るべきなのよ〉
「うん」
〈じゃないと、こんなの……。こんなのって〉
「うん」
〈怒るべき時には怒らなきゃ。嫌だ、って。理不尽だ、って。……そうじゃないと〉
「うん……。たぶん、アサヒの言う通り」
そう、アサヒの言う通り。もしかすると、ぼくは怒っていいんだろう。嫌だって、理不尽だって叫んでいいんだろう。こんな状況も、こんな評価も、こんな世界も、ぼくに対する全てがぼくを許さない。ぼくの原罪は"生まれたこと"であり、それはぼくの死でしか贖えない。それこそ理不尽で、ぼくはそのことに対して何か叫ぶ権利があるんだろう。
でも。そう、"でも"なんだ。
「でも、だからこそ聴いて欲しいんだ、アサヒに。この──圭との曲を」
〈……"圭くんとの"?〉
「んだよ」と圭が口を挟む。「俺がいちゃ不満か?」
〈そういう意味じゃなくて……。え、新曲作ってるの? 今?〉
「だからそう言ってんだろ。そんで、何でもいいから感想くれ」
「うん」と、ぼくも頷く。「アサヒに聴いて欲しい。アサヒじゃなきゃダメなんだ」
〈……それは、どうして〉
圭とぼくは一瞬顔を見合わせる。それからゆっくりと頷き合って、口を揃えて、アサヒに伝える。
「こいつと意見が合わねえから」「圭と意見が合わないから」
〈……………………………………………………はい?〉
「────それで?」
腕組みをしたアサヒがぼくらを見下ろす。心なしか片方だけ吊り上がった口角がピクピクしているような気がする。……いや、たぶん気のせいじゃない。
「さっき言ってたことをもう一度言ってくれる?」
部屋のど真ん中で仁王立ちするアサヒ。そんなアサヒの目の前に並んで、固いフローリングの上で正座をするぼくら。
「だ、だからな、朝からこいつと曲作ってたんだが、意見が合わねえから、他の奴の意見を、と」
明らかに声が震えている圭。でもぼくも他人のことは言えなかった。圭の隣で、アサヒの顔を見上げられないまま、ひたすら何度も頷くことしかできない。
そんなぼくらの前で、アサヒがふふっと微笑む。でも全然目が笑っていない。
「"他の意見を"と? 思って? それで?」
「……そ、それで、あんたに電話、して」
「何時に?」
「…………」
「何時に?」
アサヒの周囲が一気に氷点下へ。ぼくらは身動き一つできないまま、ただひたすらに傅く。
「いま夜中の23時よね? 私が電話をもらってここに来るまで15分くらいだから、圭くん達が電話をしてきたのもほぼ同じ時間よね? 今朝起きてから食事も摂らずに今の今までぶっ続けで作業してたなんてまさか言わないと思うから、こんなド深夜まで一体何をしていたのか、私にも分かるように、はっきりと、言えるもんなら言ってみてもらえるかしら?」
もちろん何も言い返せないぼくら。徹頭徹尾、図星である。
それなのに「……あの距離を15分とか、暴走族かよ……」などと圭が不満を漏らすから、アサヒの圧はもはや極寒レベルまで落ち込む。
「言いたいことがあるならデカい声出せって言ってんのよ???」
ドスの効いたアサヒの声で縮み上がるぼくら。アサヒの足元の床がミシミシ言っている気がするのは幻聴だろうか。幻聴かもしれない。そうだと思いたい。
そう、今朝一緒に起きたぼくらはすぐさま楽曲制作を始めた。と言っても、圭はすでに音源を完成させていた。どうやら以前遊園地で打ち明けてくれた時には、もうほとんど出来上がっていたらしい。ぼくは圭から貰ったヘッドホンと一緒に、そこからざっと1時間は「K汰」の音源に耽った。
圭の音源には仮歌が入っていなかった。ほとんど完成された伴奏と、その中で控えめに流れるメロディ、その画面下で歌詞が同時進行で表示されるだけ。圭は「"カラオケ"と似たようなもんだろ」と言っていたけど、それよりもぼくは圭の──「K汰」の音楽のクセを、十分過ぎるほど知っていた。
『唄川メグ』だった頃の記憶の影響も少なからずあるけれど。一番は、ミヤトと練習していた時期に「K汰」の音楽をあらかた触れていたからだ。たくさんの楽曲に触れた方がいい、とアドバイスを受けた時、真っ先に触れたいと思ったのが「K汰」の曲だった。
ぼくを支えた曲。ぼくのそばにあった曲。
そんな、文字通りの四六時中「K汰」の音感に触れていたぼくにとって、仮歌のない音源はむしろ好都合だった。「K汰」の曲にひたすら溺れていられる。音の波に、広がる反響に、ヘッドホンを通じて耳に溢れる空間にどこまでも耽っていられる。そしてどの歌詞を、どの位置で、どのアクセントで歌うのか。手に取るように分かった。「ココにこの歌詞がこの強弱で嵌まると気持ち良い」というのが自然と理解できた。歌詞を覚えるのに20分、残りの40分で「K汰」の感覚を身体に馴染ませていった。
……でも、そこからが長かった。圭のこだわり方は、ぼくの想像を遥かに上回っていたのだ。
ぼくが試しに、と歌った声を聴くや否や、圭はすぐさまあらゆる箇所を修正した。カ行の発音が違う、「i」音ははっきり発音し過ぎてはダメ、ブレスをもっと混ぜて、ここは混ぜないで。違う、違う、そうじゃない。
そんな細かい指示を、声録りでもない段階から微調整(ぼくからすれば「微々々々調整」だ)されて、辟易しない方がおかしい。
しかも圭はぼくの歌声だけじゃなく、自分の音源そのものに対しても恐ろしいほど細かい修正を施していった。ぼくへ指示する間に閃くのか、ふいに動きを止めたと思ったら、次の瞬間には自分の思考の世界に入り、ぼくを置き去りに音源修正を始める。ぼくにとっては何より、元の音源を修正される方が大変だった。歌う側のぼくからすれば、土台から何から根こそぎ変えられて、立っているのもままならないような感覚だった。歌い方や表現のニュアンスまでが全取っ変えされたのも一度や二度じゃなかった。
結果、最初はただの「意見の出し合い」で終わっていたぼくと圭の会話は、いつしか「意見のぶつかり合い」に発展し、最終的には「意見のバトルマッチ」に変わった。アサヒに電話したのも、売り言葉に買い言葉だったぼくと圭が、白熱した議論そのままに「いっそ第三者の意見を聞こう」「いいぜやってやろうじゃねえか」の流れになったのが原因だった。まさか、その議論の間に世界が夜中になっているとも知らずに。
────そして、現在に至る。
あの電話の後、アサヒから一方的に電話を切られた時のぼくらの様子は語るまでもない。焦りと恐怖で汗をダラダラ流しながら、自分達の過ちを自覚し、けれど明確な逃げ場もなく(むしろ逃げた方が怖い気がする)、狭い家の中でオロオロし続けるしかなかった。そしてアサヒは、アサヒ家からここまで30分以上かかる距離を、わずか15分足らずで到着してみせた。
そうだ。それまでのドタバタで忘れかけていたんだ。
アサヒは怒らせてはいけない、ということを……。
「曲作りに熱中するのがダメとは言ってないのよ? 私も他人のこと言えないもの。でもね、私の目には、台所のシンクが汚れてるようには見えない。ゴミ箱に新しいものも入ってない。ましてや冷蔵庫の中身も減ってない。なけなしのペットボトルが数本転がってるだけ……」
そこでようやく、ハァ、とアサヒが溜め息をついた。それまでの言外の圧が少しだけ弱まったような気がする。
「食事を忘れるほど入れ込む、なんて聞こえはいいけど。そんな生活はダメよ。ちゃんと人間らしい生活をしなさい。いい?」
「「……」」
「目を見て。返事」
「「ハ、ハイ……」」
軋む首を何とか上げて、アサヒの目を見て返事をする。すると、
次の瞬間、アサヒの瞳の奥が揺らめいた。水面のようにふわりと揺れたそれは、静かな涙となって頬を伝った。そのままぼくは、跪いたアサヒの腕の中へ抱かれる。痛いほどの温かさに包まれる。
「…………前にも言ったでしょう。アナタが無事なら、それで良いの」
「…………うん」
「アナタは十分抱え込んだの。もっと、自分を大事にしなさい」
「うん。ごめんなさい、アサヒ」
ぎゅっと回した腕。そのあたたかさ。
アサヒは全てを言葉にしない。ぼくのことも敢えては確認しない。それでも伝わる、痛いほどの感情が、直に流れ込んでくる気がして。言葉にしないからこその優しさが散りばめられていて。そんな言葉にならないあたたかさは、少し圭に似ている気がした。
微かに洟をすすりながら手を離したアサヒが、目元を軽く押さえながら圭に「ほら」と言った。
「さっさと音源聴かせて」
「……いいのか?」おそるおそる尋ねる圭。
「良いも何も、その為に電話してきたんでしょう。どうせ私が聴かなきゃ、気が気じゃなくて食事も満足にしないでしょ君達。小言はそのあとよ」
「小言は要らねえんだけど」
「ナマ言ってねえでさっさとしろって言ってんのよそれで無くてもこちとらさっきまで精神削って絵ぇ描いて終わらない自己修正と自己否定のフルコースでもういっそアタシともども東京湾に沈めて、」
「……オーケー俺が悪かった。悪かったから死んだ目ェやめろください」
「……ア、アサヒ、曲、曲聴いて、ね?」