K汰 - 飛翔
目を開けた。
まず映ったのはごちゃごちゃの、……じゃなく。殺風景な部屋。フローリングに直に敷かれた煎餅布団。小さなちゃぶ台。少し奥には大きな2つのモニター。キーボード。付箋がべたべた貼られたスピーカーとデスクライト。その脇に鎮座しているエレキギター。
たったそれだけしかない、とてもシンプルな部屋。
そして。
布団に横たわったぼくの隣で、圭が寝息を立てていた。
何かの意地のようにぼくから離れて、固いフローリングの上で寝転んでいる圭。自分の腕を枕に、昨晩と全く同じ格好で、穏やかな寝息を立てている圭。
そうして舟を漕いでいながら、ぼくの手を固く握りしめて離さない圭が、すぐ目の前にいた。
カーテンの隙間から淡い朝日が零れている。白と青の入り混じったような、透き通った色が、狭い部屋をぼうっと満たしている。窓の向こうから薄っすらと聞こえる鳥のさえずり。暑くなる前の陽光。付けっぱなしのエアコンから吹く静かな冷風が、短く刈られた圭の髪の毛を柔らかく揺らし、そのたびに圭の髪の毛がきらきらと陽光を弾く。
そんな光景を、寝ぼけた眼を細く開けたまま、ぼくは眺めていた。心の奥の柔らかいところが擽られるような感覚。楽しい、とはまた違う、けれどとても心地いい感覚。思わず顔が綻ぶのが自分でも分かる。
「…………圭」
そっと名前を呼んだ。圭はピクリともしない。ぼくの手を握った力が緩まることはない。
「……圭」
もう一度呼ぶ。今度は圭の眉根に皺が寄った。それでも起きる気配はない。もしかして、声が聞こえなかったんだろうか。でも起こすのに大声を使うのも、何だか申し訳ない。
そっと顔を寄せる。鼻先が触れ合うくらいの距離まで近づける。ほのかに圭の匂いがする。
「圭」
3度目。そうして、ようやく圭の目が薄っすらと開く。
「おはよう、圭」
そっと囁く。焦点の合ってない瞳のまま、うわごとのように圭も囁く。
「……はよ」
でも、その後は早かった。圭の瞳はゆるゆると焦点が合っていき、ついには目の前のぼくを凝視。首を傾げるぼくを余所に、圭はガバッと飛び起き(床から数センチ浮いたように見えた)、言葉にならない叫び声をあげながら一瞬で壁際まで後退。
「ど、どうしたの圭?」
「……い、あ、いや、お、」
ぼくの疑問に圭はうまく答えられないようだった。口をパクパクさせながら、追い詰められた狼みたいに背中を壁に貼り付けている。急に動いたからか呼吸も激しい。顔も真っ赤だ。
「"お"? "おはよう"?」
「あ、ああ、おはよう……いやいやいやいやそうじゃなくてだな!?」
千切れんばかりに首を振る圭。それから、起き上がったぼくを頭から爪先まで眺めた。「…………お前、何ともねえか」
「う、うん」圭の勢いに気圧されるようにとりあえず頷く。「何ともない、けど。"何とも"ってなに?」
「な、"何とも"って言やあ、」
圭は面食らった様子のまま、おそるおそる視線を下ろした。自身の腰辺りを見つめ、何かを探るように表情を巡らせた後、片手で顔を覆いながらゆっくりと溜め息を吐いた。そのままブツブツと何かを小さく呟いている。
「……お、落ち着け俺、……大丈夫だ、冷静に、自分を信じろ、俺は、何もしてねえし……、」
「手を握ってくれてたよ?」
「いや、手はそりゃ、握ってたけどよ、そうじゃなくて、だな、"やった"感覚はねえから、っつー話で、」
「"やった"? 何を?」
「んなの、せ、」
次の瞬間、ガンッ、と壁に強く頭を打ち付ける圭。しかも一度じゃない。何度も何度も頭を打ち付ける圭。
「ああああああああああああああッ! クソッ、このッ、消えろ煩悩ッ!!!」
「け、圭。それじゃあたま痛いよ、大丈夫?」
「いいや、こんなもんじゃねえッ、こんなんじゃ申し訳が立たねぇッ!!!」
「だ、誰に対して……?」
そんなぼくの声はもう届いていないようだった。圭が頭を壁に打ち付けながら「心頭滅却ッ、心頭滅却ッ」と叫び続ける行為は、それから10分ほど続いた。
「…………取り乱した、悪い」
ようやく落ち着いた圭が、正座の姿勢でぼくに向き直る。
「う、ううん、ぼくは全然、だけど……。圭は平気なの?」
「あまり思い出させんな。そんなことするつもりなんざ更々ねえのにそういう考えが一抹でも過ぎった自分に嫌悪感が半端なさすぎて軽く死ねる」
「そ、それは困る」
「だろ?」
ふぅ、と息を吐く圭。膝を突き合わせて向かい合うぼくら。
「いいや、そんな話なんざどうだっていい。肝心なのは……」
そう言って圭は不意に言葉を切り、深刻そうな表情で視線を落とした。何もない空間を見つめながら、そこにある何かを探り出そうとするような。頭の中を浚うような。そんな視線だった。
圭が再び視線を上げ、ぼくの顔をちら、と見る。
「…………思い出した、みてえだな」
無意識に拳をギュッと握る。
圭は、何を、とは言わない。でももうぼくらの間には隠し事は無いも同然だった。
抜け落ちた底。
取り去られた蓋。
吹き零れた、暗い脂のような『私』の記憶。
『唄川メグ』の生誕。開発情報の漏洩から始まった、盗用技術の産物。中傷と炎上。一時的な復権と、直後の放火事件。Pへの過剰な私刑。そして自己抹消。越えてしまった第四の壁。
『唄川メグ』が抱えていた原罪、その全てを、もう誰もが思い出した。思い出してしまった。
胸が苦しくなる。
心臓がキリキリと痛む。
たまから借りたままのスマホを今開く勇気はない。開けば、そこに何が在るかは想像に難くない。あらゆる感情を煮詰めたような暗い渦を覗き込む勇気がぼくにはない。現にいまだって、圭といるこの部屋の外のことを考えると、不安で息ができなくなる。あんなに頑張って、みんなに背中を押されて、ようやく少しずつ出られるようになっていた"外"が、今はもう恐ろしくて仕方がない。あの玄関から出られる気がしない。
────でも。
「おい」
圭が乱暴にぼくの頭を撫でる。口を開く。
掠れて、ぶっきらぼうで、それなのに世界一優しい声で。
「辛気臭え顔してんじゃねえよ。お前はお前だろ」
最初に出会った時から何も変わらない、そんな声で。
「────俺の曲、歌いてえんだろ」
────────ああ、圭は、本当に。
心臓が熱くなる。
きっと圭は何も考えていない。本当はたくさん考えているけれど、それをぼくとの間に持ち込もうとしない。ぼくをぼくとして、目の前にいる"普通の女の子"として見ている。
本当は、ぼくらはこんなことをしている場合じゃないんだろう。みんなが『唄川メグ』の全てを思い出し、誰もが混乱し、不安は文字通り山のようにある。カル達が決めた"最後の日"もあと3日に迫っている。決めなきゃいけない覚悟も、整理しなきゃいけない心も、押し殺さなきゃいけない迷いも。夥しいほどある。
でも圭は、こんな時だからこそ。ぼくとの約束を守るために。
そして圭の言葉が、こんなにも。こんなにもぼくを惹き付けて離さない。突き動かされた鼓動が止まらない。それはさながら、届かないはずの星の煌めきに魅了された人間が、手を伸ばさざるを得ないのと同じように。だったら。
もう、何も怖くない。
ぼくはそっと、力強く頷き返す。
そうして、ぼくらは楽曲を作り始める。
窓の外、カーテンの隙間から、朝の爽やかな青空が垣間見える。