K汰 - 夜を待つ
「君の最期と僕の最初が"8月31日"だなんて────最高の皮肉だとは思わないかい?」
にやりと微笑んだカルは、その隙を突いて今度こそ踵を返した。なびく長髪は、夜の街を背景に一瞬黒い炎のように揺らめいて、そのままカルは夜闇に溶けるように消えた。
カルが消えて少しの間、誰も言葉を発さなかった。みんなそれぞれ考えなきゃいけないことがあって、思惑があって、それはぼくも同じだった。一度にたくさんのことが起こり過ぎて、何から考えればいいか分からなかった。
圧倒的なカル。カルの用意した保険。それを可能にした五重奏のメンバーの異能。重い代償。そして、カルが無理やり決めた"最期の日"──8月31日。
その日が何を意味するか、ぼくは知っている。
──ぼくはもう記憶を取り戻したんだから。
「ねぇ、みんな」
最初に沈黙を破ったのはノアだった。
「とりあえず場所を変えようよ。このままだと、ヒトがたくさん来ちゃうし」
それに、とノアがイツキへ視線を送る。「ミヤトくんがまだ屋上にいるんじゃないかな?」
「……そ、そうですよね! ミ、ミヤトと合流、合流……、えっと、どどどどうやって上まで!?」
「いや、その必要はねーよ」
その時ちょうどミヤトが"羊"に運ばれてやってきた。「ごめんな、遅くなって」
「ミヤトっ!!」と駆け寄るイツキ。「良かった……、何かあったかと思って心配したじゃん!」
「ちょい待て、さっきまでおれも"羊"使って参戦してたじゃねーか……。一瞬も油断できねーのに複数を同時操作とか、神経すり減り過ぎて頭焼き切れるかと思ったっつーの」
そう言いつつ、後頭部をポリポリと掻くミヤト。
「それよりノアちゃんの言う通り、そろそろマジで離れてくれ。もう野次馬を引き留めておけねーから"羊"も解除した。すぐそこまでヒトが来て……、って、ちょっ、アンタ!?」
突然うろたえるミヤト。その視線を追うと、なんとトリが自力で立ち上がっていた。鈍い赤色が滲む額を手で押さえながら、疲れた身体を引きずるように、フラフラと立ち去ろうと歩き始める。
「おい」圭が鋭い声をトリの背中にかける。「なに独りだけ勝手にずらかろうとしてんだよ」
トリは振り返ることのないまま立ち止まり、口を開いた。
「用があるのはおまえ達の方だっただろう。履き違えるな」
「用があんだから勝手にずらかんな、っつってんのが分かんねえか?」
トリがこれ見よがしに溜め息を吐く。「オレはおまえ達に"腐った理論"とやらを語り、結果おまえ達はオレを"ぶちのめし"た。おまえ達の願いは叶ったはずだが」
「あんたなぁ、」
再び唸り声を上げそうになる圭。一触即発の空気。
けれど。
「……いや、いい」
そう静かに言ったのも、また圭だった。
「あんたがどう思おうが関係ねえ。勝手に野垂れ死んじまっても知ったこっちゃねえ。……が、1つ言っとくぞ」
圭の掠れた声が、騒々しくなりつつある夜を揺らす。諦めたような、それでいて相手のことを心の底から認めるような、そんな声で。
「あんたの考えを否定はしねえよ。才能のねえ人間の人生が辛い、なんてのもある意味正しいんだろう。だからあんたは、こいつの才能を否定すんだろうがな。俺たちが見てんのは、最初ッからこいつの才能じゃねえんだよ」
圭がぼくの隣に並び、そっと肩を抱く。
「────俺たちが望んでんのは、こいつの未来なんだよ」
肩に置かれた圭の手のぬくもりが、ぬるい夏の夜の中でも心地よく伝わってくる。
「こいつがこの先、馬鹿みてえに笑って過ごせることを俺たちは望んでんだ。……こいつの歌声を望む気持ちを否定する気はねえ。だが歌うか歌わねえかはこいつが決めることであって、俺たちが勝手に押し付けるもんじゃねえ。"才能"なんつう言葉で型にはめて、傷付く権利すら取り上げるのは、結局こいつの未来を潰してんのと変わらねえ。こいつの歌を評価することはあっても、こいつの未来を縛り付けるつもりなんざ更々ねえんだよ」
トリは何も言わない。ぼくらに背中を向けたまま、表情ひとつ見せない。でもトリが再び歩き去ろうとする気配もない。静かに、黙ったまま、そこに立っている。
ぼくは思わず俯いてしまった。でも、哀しいからじゃない。
胸がいっぱいになったから。圭の言葉、そのひとつひとつに、ぶっきらぼうな言葉に、一度では抱えきれないほどのあたたかさが詰まっていて。そう感じられて。胸がいっぱいになったから。
だから。
「…………ねぇ、トリ」
だから声を掛けた。圭のあたたかさに、胸の一番奥が心地よく揺れ動いて、その動きに背中を押されるように。
トリがようやくぼくらを振り返る。土ぼこりと鈍い赤色で汚れた頬が痛々しい。
「────ありがとう」
トリが訝しむ。でもぼくは構わず続ける。
「トリは間違ってない。トリの言う通りだ。ぼくには"才能"がない。……ぼくはきっと、あのまま"死んでいた"方が良かった」
ぼくの言葉に、マキハルやイツキが何か言おうと口を開きかける。そんな2人にぼくは視線で、大丈夫、と答える。
「そのことに気付けて、良かった。だからありがとう、トリ。気付かせてくれて」
「……開き直ったつもりか」
トリが冷めた視線でぼくを睨む。「謝罪を求めているのなら生憎だ。オレは間違ったことを言ったとは微塵も思っていない。才能のない奴は生きていたって意味がない。幸せな未来が訪れるなどありえない」
喉の奥がぎゅっと締まる。だけど。
「おおかた、既に記憶を取り戻しているのだろう。ならば理解できるはずだ。自分に才能がないことも、自分自身に何の価値も無いことも」
息が詰まる。だけど。
……だけど。
「────開き直ってない」
静かに首を振るぼく。
「だって事実だ。それにトリが教えてくれたのは、ぼくを気にかけてくれたから、でしょ」
「何?」
眉根を寄せるトリ。その視線をまっすぐ受け止める。
「すぐそばに"才能のあるヒト"がいたのに、そのヒトは居なくなってしまって。ぼくだけ……、"才能のない自分"だけ取り残されて。だから思った。思うしかなかった」
「トリも思ったんでしょ。────あのまま死んでいた方が良かった、って」
トリは顔色ひとつ変えなかった。けれどその瞳の奥によぎった光には、言葉にできない寂しさがあった。
トリの異能の代償について、カルは【死亡不全】と言った。そのままの意味でなら【死なない】。だけどさっきマキハルとの会話の中で、トリは「客観的な代償はない」と言った。その言葉がずっと引っ掛かっていた。
死なない。それはきっと他のヒトから見れば代償なんかじゃない。けれどトリにとっては違う。死なないことが代償になり得る。
自分に才能はない。それなのに才能あるヒトは居なくなって、ぼくだけが置き去りにされる。
そのことが辛い。胸が苦しい。引き裂かれそうなほどに、痛くてたまらない。
きっと、トリは"死なない"んじゃない。
"死ねない"。それこそがトリの──℃-moreの代償。
「だからトリはぼくに教えてくれた。『おまえもそうだろ』って。ぼくに気付かせてくれた。ぼくが本当に傷つく前に。……ぼくがまた本気で、死んでいた方が良かった、って思う前に」
思い返せばトリはずっとぼくに言っていた。まるで言い聞かせるように何度も、何度も。
早く折れてくれ、と願うように。何度も。
才能がないこと。置き去りにされること。そんな未来を永遠に歩んでいかなきゃいけないこと。その辛さを知っているからこそ。その辛さをぼくに見たからこそ。
何度も。何度も。ちょっとだけ、……ううん、かなり言葉はキツかったけど。
「トリの言葉は正しい。圭と同じように、ぼくもそう思った。納得できた。だから、ありがとうなんだ。……でも」
でも。
そうだ。"でも"なんだ。
それでもぼくは。
「でもねトリ。ぼくは、ぼくのやりたいことをする」
揺らがないトリの瞳。その瞳に必死に向き合う。たとえ届かなくても。
「歌の才能がなくても。もし仮に圭たちがぼくの歌を褒めてくれなくても。誰ひとり、ぼくの歌を許してくれなくても。ぼくはやりたい。才能がないことは、ぼくが歌わない理由にはならない」
トリは表情ひとつ変えないまま呟く。
「度し難い。おまえは何も分かっていない。話にならん」
「そうかもしれない。ぼくはまだトリみたいに、たくさんは知らない。辛いことも味わってない。これから先、才能がないことで苦しくなるかもしれない。それでも、もう知ったんだ。"歌うこと"が"楽しいこと"だって知ったんだ。もう知らなかった頃には戻れないんだ。……それに、教えてもらったんだ」
そう言ってぼくはマキハルを振り返る。わし? と首を傾げながら自分を指差すマキハルに、ぼくは力強く頷き返す。
「『ぼくが何者かは能力によって決まるんじゃない。どんな選択をするかなんだ』って」
あ、とマキハルが小さく声を上げた。そのままあのニカッとした笑顔を返してくれる。
あの日。ぼくがアサヒの家のリビングで、ただ静かに終わりを待っていた時。マキハルが教えてくれた、彼の"座右の銘"。
ぼくが、自分で選んだ未来。
「才能がなくても、ぼくは選ぶ。自分で未来を選ぶ。意味がなくても、幸せじゃなくても。同じ辛さなら、誰かに決められるんじゃなくて、自分で選んだ未来がいい。……次にまた"死んだ方が良い"って自分に言うのは、その後でいいんだ」
ぼくの言葉に、トリはすぐには口を開かなかった。
少しして、トリはゆっくりと口を開き、「勝手にしろ」と言った。
「オレは『メグ』の声を必要としただけだ。最初から『メグ』そのものに興味など無い」
「……うん」
「オレとおまえは相容れん。オレがいくら言おうと理解しない奴がこの先どうなろうと、オレの知ったことではない」
「うん。それでも行くよ、"この先"に。とっても怖いけど、行ってくる。……それでも、もしぼくが挫けたら。また"死んでいた方が良かった"って思うことになったら……。その時は、『オレが言った通りじゃないか』って、笑ってくれると嬉しい」
嘘だ。ぼくは少しだけ嘘をついた。
本当は笑ってほしくなんかない。他のヒトに笑われたくなんかない。だって想像するだけで、たくさんのヒトに見られて笑われて、そんな未来を想像するだけで、心の隅に鈍い金属でも押し込まれたみたいに苦しくなる。指先が、ぼくの言葉に反して冷たくなる。
だから、ぼくは笑った。はにかんだ。誤魔化すように、隠すように。
それでも口にした言葉だけは嘘にしないために。
「────だって、ぼくには才能なんて無いんだから」
そんなぼくを見てトリの顔に一瞬、見たこともないような表情がよぎった。
でもぼくがその意味を読み取る間もなくトリは再び表情を消し、呆れたようにフン、と鼻を鳴らした。でもその呆れに、最初ほどの冷たさはなかった。そのまま振り返りもせず歩き去っていく。
その背中に圭が思い出したように「おい」と声を掛ける。
「……最後にもう1つこれだけは言っておく。俺は別に才能がねえから音楽やめたわけじゃねえ。最初っから才能の有る無しで音楽やってねえんだよ。……ダセえ面引っ提げて、そのくせ好き勝手にここまで生きてんのは、あんたも同じなんじゃねえの」
落ち着いた淡々とした圭の声が、騒がしくなり始めた夜にそっと霧散していく。
声を掛けられたトリはそれでも振り返ることはなく、その背中は近くの路地裏へと消えて行った。
圭の言葉がトリに届いたかは分からない。