K汰 - 粗忽長屋
「アナタの声、声優の『汐野日影』の声とまったく同じなの」
そう、アサヒが言った。
もちろんすぐには理解できなかった。
言葉の意味は分かる。アサヒが伝えようとしてくれていることも分かる。でも理解が出来ない。頭が理解しようとしない。
「──────ごめん、なさい」
そう口に出すのが精いっぱいだった。「ごめんアサヒ。よく、分からなくて」
アサヒは少しだけ目を伏せた。それからゆっくりと、ぼくを落ち着かせるように言葉を選んでいく。
「私こそごめんなさい、急にこんなこと言われても困るわよね。正直私も、最初に圭くんから聞いた時は信じてなかったもの」
「圭が?」
圭を見やると、圭は一瞬気まずそうに視線をそらした。「大したことは言ってねえよ、俺はあんまりアニメ見ねえし、声優とかも詳しくねえからな。ただ『どっかで聞いたことがある気がする』って言っただけだ」
「私はその反対で、アニメをよく見るの。人の動きや骨格の参考にね。自然と声優さんの声も耳に残るようになったわ。だから圭くんも私に訊いてきたんでしょうけど、半分冗談だと思ってたのよ。……最初にアナタの声を聴くまでは」
思い出す。ついこの前、圭と一緒に初めてアサヒと通話したときのこと。ぼくが声をかけた瞬間、確かにアサヒは返答に詰まっていた。ちょっとびっくりしちゃった、とあの時は言っていたけど、誤魔化していたんだろうか。
「本当に驚いたわ。もちろん声のトーンは本人より低いし、話し方も全然違う。それでも画面越しに分かるほどだったし。ここに来て、実際に目の前でアナタと話して確信した。アナタの声は『汐野日影』そのものよ」
頭の中が静かに騒いでいる。分からない。疑問ばかりが頭の中を埋め尽くしていて、思考がまとまらない。
アサヒはそっと首を振った。「まずあり得ないことよ。言い換えれば、同じ人間が2人いる、ってことだもの」
隣でずっと聞いていた圭が、ぼくを指さしながら口を開いた。
「……一応聞くが、こいつが『記憶を失くした汐野日影本人』って可能性はねえのか」
「無いわ」アサヒはきっぱりと否定した。「それを確かめるために、今日来たんだもの」
「どういう意味だ?」
圭の言葉を聞いたアサヒは、ちゃぶ台に置いていた自分のスマホを手に取り、画面上の赤いアプリをタップした。数秒後、画面に表示される幾つかの画像。それぞれに添えられたタイトル。隅っこに記載された秒数。
動画投稿サイト。
アサヒがそのうち一つをタップした。再生される動画。微かに聞こえる声が、アサヒの操作に合わせて大きくなる。
────そして、その声は一瞬で分かった。
〈えー、そりゃ無いッスよ!〉
砕けた語尾。快活な声。画面上できらきらと笑う、女の人。
〈いやホント、マジでこの為に来たんスけど、あたし! それ言っちゃあ立場無くないッスか!?〉
アサヒの言う通り。声のトーンは女の人の方が高い、話し方もぼくとは似ても似つかない。でも、それは紛れもなく。
画面の向こう、楽しそうに笑う女の人の唇に、ぼくの声があった。
アサヒがつぶやく。
「今ちょうど、アプリゲームのリアルイベントをやっているの。これはそのライブ中継。見ての通り、汐野さんがゲストとして登壇してる以上、少なくともこの子は汐野さん本人じゃない」
アサヒの説明は、途中から頭に入ってこなかった。画面から目が離せなかった。
画面の向こうの彼女が口を開くたび、笑うたび、ぼくの声が聞こえる。顔も体格も、見る限り年齢もぼくとは違う。話し方も、感情の在り方も、何もかもが違う。けれどどうしようもなく分かる。自分のことだから分かってしまう。静まり返った部屋に場違いなほど、彼女の笑い声が響く。
どうして。
ぼくがいる。彼女がいる。別々に存在しているのに、二つとない声が二つある。あり得ないことが目の前にある。
頭の隅で言葉がちらつく。おかしい。おかしい。いや、そうか。ぼくの方だ。
おかしいのは、ぼくの方なんだ。
「────ぼく、」
次の瞬間、ぎゅっと抱きしめられた。アサヒがぼくの首の後ろに腕を回して、優しく、あたたかく、ぼくを抱きしめてくれていた。
「アサヒ……?」
「あら、アナタあったかいわね。それに可愛い。さすが私が見出した逸材ね。……だからそんな顔しないの」
「でも」
「でも、も何もないわよ」
アサヒは呆れたようにぼくの耳元でささやく。「私自身、これが何を意味するのか分からないの。このことはきっとアナタを辿る鍵になるけれど、でもそれだけよ。アナタはここにただ1人。それ以上でもそれ以下でもないの」
何度も何度も、諭すようにささやくアサヒ。圭も、アサヒの肩越しに優しい目を向けてくれている。
胸の奥にあったあたたかさが、段々と指先にまで広がって、身体中がぽかぽかする。
これから先、ぼく自身を探すうち、何度も迷って揺れてしまうだろうけど。
「……ありがとうアサヒ。あと圭も」
「あとって何だよ。最初っから居たのは俺だぞ」
「あら圭くんったらヤキモチ」
「言ってろ」
ふふっ、と笑いながらぼくから顔を離すアサヒ。「そうと決まれば、最後の買い出しに行きますか」
「ハァ? これ以上服はいらねえぞ?」げんなりする圭。
「何言ってんのよ。私たち三人とも、朝からまだアイスしか食べてないのよ? 食材の買い出しに決まってるじゃない」
「俺が汗水垂らして金払ったハーゲンダッツで腹は膨れねえってか!?」
「そりゃそうでしょ……、人間を何だと思ってるのよ……。それにずっと気になってたんだけど、まさか圭くんこの子と居るのに布団1枚しかないの?」
「も、元々一人暮らしなんだから、仕方ねえだろ……」
「物的証拠に」
「ならねえよ冤罪やめろ」
「そうよねぇ、圭くんまだど、」
「おま、それ以上言ったら……!」
「"それ以上言ったら"? あ゛?」
「その圧やめろってマジで!!」
顔を伏せながらわなわなと震える圭。ぼくにはまだ実感は伴わないけど、これが圭の言ってた「男女が一緒の家に居るのはマズい」ってことなんだろうか。横でアサヒが溜め息をついている。
「とにかく、布団が一式しかないのは事実なのね。車は出してあげるから、食材の後にホームセンターにも行くわよ」
「……俺、カネないんだが」
「じゃあ出世払いで。あ、アナタは留守番してていいからね。今日は祝日だし人多いだろうから、無理しないで」
財布の中身を冷や汗とともに確認する圭の横で、ぼくは頷く。いまは圭の布団を使わせてもらってるし、ぼくの分が手に入れば、圭も自分の布団でゆっくりできるかもしれない。それに。
眠る場所がちゃんとあるこの部屋が、何だか段々ぼくの居場所として定まってくる気がして。少しわくわくした。
窓の外にはぎらぎらした太陽。苦しそうな蝉の声。でも空だけは真っ青で。
圭とアサヒの言い合う声も、いまは心地よかった。