序奏
目を開けた。
まず映ったのはごちゃごちゃの部屋だ。カップラーメンの容器やお菓子の袋が床に散らばっていた。
部屋は暗くてよく見えない。カーテンが閉め切られているのか、遠くの方に一筋の光が見えるだけ。
その真ん中で、横になっていた。
横向きに映るそんな暗い部屋の様子を、何の感情もなくしばらく眺めたあと少しだけ身体を起こした。身体の下に敷かれたしわしわの煎餅布団。腰辺りにかけられた色あせたジャケットがどこか情けない。でもこの布団の周りだけは食べ物のごみが避けられているようで、部屋の中で唯一綺麗にされている場所のようだった。
そんな荒れた部屋の奥に、煌々と光っている場所があった。
大きな二つのモニター。青く光るキーボード。付箋がべたべた貼られたスピーカー。
その脇に鎮座している、一本のエレキギター。
こちらの物音に気付いたのか、それらの前に陣取っていた人がこちらを振り向いた。
「……起きたか」
その声に頷いて見せる。声を出そうとして、喉が嗄れていることに気付いた。少し咳き込んでしまう。
「何か飲むか? 水しかねえけど」
もう一度頷く。
男、のようだった。髪は長いみたいだし、部屋が変わらず薄暗くて顔が判別できないが、その男も声が低く嗄れている。ただその嗄れ方は、喋る機会が極端に少ないからのように思えた。
目の前にコップが差し出される。ふちに唇を付けると水の匂いが鼻を満たして、急に渇きに襲われる。夢中で飲み干し、また噎せた。
「ゆっくり飲めよ」
男の呆れたような声。でもどこか親しみのこもったような声。
自然と口が開いた。
「……あ、りが、と」
男が目を見開いた。暗い部屋でその目が、一瞬子供のように煌めいた。
「おまえ、けっこう良い声してんのな」
「いいこえ?」
「ああ。声変わり前なのか? 芯があるのに柔らけえ、良い声だ」
いやセクハラか、と男はどもりながら再びモニター前に腰を下ろした。パソコンのキーボードをかたかた鳴らし始める。
「それでお前、名前は? 熱中症ならちゃんと病院行けよ」
「ねっちゅうしょう?」
「ぶっ倒れてたろ、すぐそこで。こんな暑い日にアスファルトに仰向けとかよっぽどだろ。下手すりゃ人間焼肉だぞ」
男の言葉に首を傾げっぱなしでいると、無音を感じたのか男がモニターから目を離した。
「おいおい、どうした。暑さでバグったか? 記憶が無いわけじゃねえだろ?」
視線を落とす。じぶんの両手が映る。薄暗い部屋にぼうっと浮かび上がる二つの白い手のひら。その二つをじっと、じっと見つめる。
記憶。記憶。記憶――――。
「きおく、って、だれの?」
男の顔に疑問が浮かぶのが分かった。そして疑問の表情は、真顔、呆れ、そして笑顔に変わった。
「なに惚けてんだよ、ぼくちゃん。お前以外誰がいるんだよ。冗談だろ! …………冗談だろ?」
ぼくはそっと首を振った。男のこめかみからすうっと汗が流れた。
部屋の外からは蝉の声が聞こえていた。