七里歩──5
二つの音が原因で、ぼくは目を覚ました。
一つは可愛い顔に似合わない、杵築さんが発する豪快ないびき。
もう一つは、青空の発する悲痛なまでの寝言だった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」
その言葉ばかりを繰り返している彼女は、酷い寝汗で身体を濡らし、瞳から僅かだが涙をこぼしている。うなされているのは一目瞭然だった。
見ていられなかったぼくは、青空の肩をゆすりながら、彼女の名前を何度も呼んだ。
やがて、彼女は目を覚ました。
「……歩、くん…………?」
普段の青空からは考えられないオドオドした頼りない声色に、心配の念が助長される。
「凄いうなされてたけど……もしかして、あのときの夢……?」
「えぇ。うるさくてごめんなさいね。今でも時々、思い出しちゃうの」
スクリーンに目をやる──映画は既に終わっていた。
「まさか、観た映画のせい? 他のにすれば良かったかな」
「……きっと違うわ。姉さんの映画と、姉さん個人は別物だしね」
青空の姉、袖沼雨空も、ぼくや青空と同じで昔から大の映画好きで、学生時代から自主映画を作っており、そして、社会人になってからはプロの脚本家としてデビューしていた。
ぼくらは雨姉が作る物語が大好きで、それは今でも変わらない。
けれど、彼女の人柄は今と昔で丸っきり変わってしまっていた。
彼女が脚本家としてデビューしてから、最初に帰省したとき、それは始まったらしい。正確には社会人になった段階で、勤務先がブラック企業だったこともあり様子はおかしかったようだが、それがはっきりと顕在化したのはやはりデビュー後だという。
人が変わったように冷然とした態度で青空に当たり、彼女がまだ自主映画作りをしていることを知るや否や、『子どもの遊び』だとばかりに非難され、創作がしたいという意思まで否定された。
当然、青空はショックを受けた。当然だ。憧れの姉に自分自身を否定されたのだから。
でも、映画を作るのを辞めなかった。
どうでも良い外野からとやかく言われただけのぼくとは違って。
「歩くん」
「何?」
「楽しんでくれてる? 映画作り」
向けられたのは直球の質問。それはある意味では愚問と言えた。
「そりゃ、ね。……楽しくなかったら、ここまで続けてないし」
ぼくは本心から答える。二年分、腹の底で塞き止められていたそれが、我慢できず溢れ出すように……自分でも驚くほど開けっ広げにそう回答していた。
「うん、そうだね。やっぱり、創作って楽しいんだよね。二年間、ずっと目をそらしてきたけど……こんなに楽しいこと、そう簡単に嫌いになれるはずないよね」
そんなぼくの言葉を受けて、青空はとても満足そうに微笑んでくれた。彼女が嬉しそうにしていると、ぼくも嬉しい。
そうして彼女は、今度はどこか期待を込めたような笑顔で、次の句を継いだ。
「脚本も、書きたくなってたりしない?」
単刀直入に核心を突かれる──一瞬怯んだが、もうここまで来たら白状するしかないと思い直す。
「ぶっちゃけ……する。ウズウズしてる」
「本当っ?」
彼女の弾むような声色に、しかし後ろめたさが背筋を昇ってきた。
「うん。でも、まだダメそう……実はこの前、自分のPCで久しぶりにワープロソフト開いたんだ。でも、手が震えて何も書けなかった」
数日前の、自身の醜態を思い出す──一文字も打てなくて、長時間放置されたPCはスリープモードに移行した。そして消灯した画面には、世にも情けない自分の顔が映っていた。
「そう……」
残念そうな相槌。青空を失望させたくはなかったが、嘘をつくわけにもいかない。悔しさが胸を突く。
「ごめんね」
「別に、謝ることなんてないのよ」
「……でも、君ばかり頑張らせてる」
「そんなことないでしょ。みんなそれぞれ、役割があるんだから」
「そういうことじゃなくてさ……君はあの雨姉から否定されて、それでもまだ映画を作り続けてる。でもぼくは、創作になんて何も興味がなさそうな、どうでも良いクラスメイト共から馬鹿にされただけで書くのを辞めちゃったんだ。……情けないよなぁ」
ここまで正直にこの話題について語ったのは初めてのことなのに、不思議と自然に言葉が出てくる。一方で、自身の情けない本心を前に、胸中にはじんわりと自己嫌悪が渦巻いていた。
「……わたしだって、何度も思ったのよ」
そんな中、それまでと違った声音でその台詞は挿入された。
「え?」
「創作、続けるかどうしようか」
青空は少しだけ言いにくそうに言葉を継ぎ足した。その内容は、意外といえば意外で、妥当といえば妥当とも思えることだった。
「でも散々悩んで、悩んで、悩み続けて、その結果、続けることにしたの。思考のボタンをほんの少しかけ違えていたら、わたしもあなたみたいに創作を辞めていかもしれない」
「そんな……へ理屈だよ」
「それに、まるで終わったことみたいに話しているけれど……あなたは、まだ悩み続けてる途中なんでしょ?」
「…………」
ぼくは、少し考えて…………頷いた。
「じゃあ、まだ結論はまだ出てないも同じじゃない。これから先、また書けるようになるかもしれない。……ううん、きっとまた書けるようになるわよ。歩くんなら大丈夫」
彼女は、ぼくを元気付けるように、しっかりとした口調で言ってくれる。
彼女が大丈夫と言うからには、きっと大丈夫なのだろう。
「……ありがとう」
「わたしね、歩くんの書く脚本、大好きなの。姉さんの作品と同じくらいに。……これ、本当よ?」
彼女が本当と言うからには、きっと本当なんだろう。
「うん。……ありがとう」
「だから、期待してるからね。いつかあなたの新作が読めることを……歩先生」
「何だか照れくさいなぁ。……また、黒歴史を重ねるだけかもしれないけど……」
「良いじゃない。黒歴史だって、一生懸命やればきっと立派な思い出になるわよ」
そう言って、青空は無邪気に笑った。
ぼくは、彼女のような人が、創作に携わっているのを間近で見られて、とても幸せ者だと思った。
「ぼくもさ、結構好きなんだ。君の撮る映画」
今まで思っていたことを、改めて口に出してみる。すると青空は再び、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。嬉しいわ」
「それと、君の書く脚本もね」
一転、付け加えたその台詞に、案の定青空は眉を潜め、疑うような視線を向けてくる。
「あら、また世辞?」
「お世辞じゃないよ。本当に好きなんだ」
もう、君に対して何も誤魔化したりなんかしない。今話しているのはぼくの、ありのままの本心なんだ。
そんな気持ちが通じたのか、少し間を置いた後、彼女は表情を微笑みに戻してくれた。
「……そうなの? じゃあ、……ありがとうね」
断っておくと、青空の書く脚本はちっとも面白くなんてない。
でも、ぼくは好きだ。
大好きだ。