七里歩──2
もう二年も前の出来事だ。
ぼくはその日、教室に入ると同時に心臓が止まるかと思った。
視界に入ったのは、自分の机の周辺でクスクスと笑っているクラスメートの男子数人。何かの紙を回し読みしている。
間違いない。
あれは、ぼくの書いた──
「なぁ、これお前の机の下に落ちてたんだけど……」
「何だこれ? 小説? 意味わかんねぇ」
「いつも、休み時間に一人で何書いてんのかと思えば……」
「……気持ち悪っ」
あれ以降、心を無理矢理、裏返しにされたような気分だった。
何を見ても、それが本当のものと思えない。鏡に映る自分すら、誰なのかよく分からない。自分が分からない。
もっとも重要な位置を閉めていたものが空席になった影響で、価値観が混乱したのだ。
つい数瞬前まで素晴らしいと確信していた自分の物語が、酷くくすんだものに思えるようになった。
その後、クラスでは数日間脚本のことをネタにされたが、時間が経つと皆忘れてしまったようだった。
そんな周囲の反応も相まって、ぼくが書いていたのは、本当に何でもない、下らない、路上に打ち捨てられた少し変わったゴミ程度のものだったんだな、と思った。
糞ったれのゴミ屑野郎。
ぼくは書くのを辞めた。
***
久しぶりに嫌な夢を見てしまった。今朝の目覚めは最悪だった。
きっと数年振りに映画制作などというものに関わってしまったことが原因と思われる。
……だが、今回、別にぼくが脚本を書いたわけじゃないのだ。あんな夢気にすることはない。
切り替えていこう──そう思った。
***
クランクインの翌日──映画部部室のドアを開けると、青空と杵築さんの二人は並んでフロアソファに座り、うなだれて撃沈していた。
「えぇぇ…………」
「どんずまりだわ……」
「もうおしまいです……」
各々絶望を口にする二人。
「いや早いでしょ!? 昨日始まったばっかだよね!?」
ぼくがそう、当然の反論を告げるも、
「いないのよ……役者が」
青空は、地獄の底から絞り出したような声で告げた。
「え?」
「脚本の都合上、どうしてももう一人、女性の役者が必要なのに……頼める人が一人もいないわ」
「いや、それは……てっきりアオがカメラマンを交代して、自分で演じるものかと……」
「わたしもかつてはそのつもりだったわ。でも……昨日の醜態を見たでしょう?」
「あ……」
昨日の、彼女の大根未満の演技(?)を思い出す──酷いなんてものじゃなかった。
「気付いたの。わたし、役者無理」
「え、じゃあ、早くも行き詰まりってこと!? 本当に行き当たりばったりじゃん! 他に宛はないわけ!?」
「こんなこと頼める友達わたしにはいないわ」
「わたしにもいないです……」
「ぼ、ぼくもいない……なんて悲しい空間なんだ……」
「我が部はもうおしまいだわ……」
どんよりとどす黒い影に沈んでいきそうな空気感に包まれ、ぼくもモヤモヤとした気持ちになる。
困ったなぁ。
ぼくだって、友達がいない……ということはないけど、映画制作を手伝ってくれそうな人なんていない。
休日だけやって間に合うようなスケジュールじゃないし。高校生の平日は、部活なり学内ゼミなり塾なり予備校なり、結構忙しいものだ。
と、そこまで考えたところで、ふいに青空が顔を上げ、こちらをまっすぐ見つめているのに気づいた。
「な、何か?」
「……何で気づかなかったのかしら。方法ならあるじゃない」
そして、数十分後。ぼくらは袖沼家にいた。
「似合うじゃない、歩くん。制服は姉さんのお古だけど、サイズもぴったり」
「七里せんぱい、すごく可愛い! 本当に女の子みたいです!!」
ぼくは、友達の姉の制服を着せられ、女性用ウィックを被せられた挙げ句に後輩からうっすらとメイクまで施されて……人生初、女装をさせられていた。
「いや何でこうなる!?」
「せんぱいが細くて顔立ちも綺麗だからですよ」
「あ、ありがとう……いや、そういうことじゃなくて! 何でぼく女装してんの!?」
「仕方ないじゃない。役者の頭数が足りない以上、一人二役という最終手段に出るしか……」
「いや一人二役ってとこまでは分かるけどさ! ぼくが女装する必要なくない!? 杵築さんが二役演じれば済む話じゃん!」
「異性で顔が同じより、同性で顔が同じ方が目立つじゃない」
「そ、そうかもしれないけど、でもだからって……!」
「まあまあまあまあ。もう良いじゃないですか」
そんな風に宥めるように言う杵築さんだがお前ぶっちぎりで加害者側だろうが。
「そうよそうよ。女装しちゃったものは仕方がないのだし」
もう一方の青空も反省の色が見られないどころか見事に開き直っていやがる。
「ふ、二人とも……もしかして、単にぼくを女装させてみたかった、とかじゃないよね……?」
「「……………………」」
二人揃って目をそらしやがった。
「ひどい……あんまりだ…………」
「まあまあ。やっちゃったもんはしょうがないじゃないですか」
「そうよ。やっちゃったもんはしょうがないわ。やっちゃったんだから」
「受け入れましょうよ。やっちゃったもんはしょうがない、はい、しょうがない」
「それやっちゃった側の人たちが言う台詞ではないよね!?」
さて、ぼくらはその後、再び学内に戻った。
電車での移動中、女装姿に奇異の目を向けられるかと思いきや、そんなことはなかった。
意外にも、周囲の目を欺けているらしいのだ。
「凄いわね……もしかしてこれ、何かで一儲けできないかしら? いや別に変なことじゃなくて……」
「確かに。この完成度をこれっきりにしておくのは勿体ないですよね……その、健全な方向でここは一つ、」
などと女子二人が下らないことを相談している間に学校についた。
そしてそこからは、丸っきり状況が変わってしまった。
見た目はごまかせても、声は中々難しい。
女の姿をして、男の声で映画の台詞を張り上げるぼくを、周囲の目は無視してくれなかった。撮影場所が中庭ということもあり、たちまち野次馬の列ができた。
しかし、そんなことで撮影を中止してくれる青空監督じゃない。容赦なくリテイクも要求してくる。
ぼくは半ば泣きそうになりながら、役を演じ続けた。
状況に対する不満と怒りなどのマイナスエネルギーを演技にぶつけることができたのか、リテイクの数は昨日より遥かに少なく撮影を終えることができた。皮肉なことに。
撮影終了後、中庭の隅で撃沈していると、青空がぼくたちに飲み物を買ってきてくれた。
「お疲れ様」
差し出されたのは、四ツ矢サイダー──夏の定番。
現在の季節は六月だが、そう言えば今日は真夏日並みの猛暑だったことに思い至る。
緊張や疲労だけでなく、気温によって全身が汗だくになっていたことに、そのときようやく気づいた。
鼻づまりが解消されたように、急に夏の匂いを近くで感じた。
ぼくはアオから四ツ矢サイダーを引ったくると、一気に喉に流し込んだ。
「せんぱい、本当に可愛かったですよ! 素敵でした!!」
「今日の演技は中々良かったんじゃないかしら。昨日の大根ぶりが嘘みたい」
などと好き勝手に宣っている二人を無視して、ぼくはペットボトルの飲み口から自分の口を離すと、二人に呼び掛けた。
「アオ、杵築さん」
すると、ぼくの声色を汲んでか、二人の表情が真剣そうなものに変わった。
「……ここまで恥を晒したんだ。ぼくは今後も、全力を尽くすことを宣言する。だから、絶対、作品を完成させよう」
二人が頷く。
「完成しませんでした、はなしだ。絶対エンドロールまで作り上げて、コンペでも入選しよう。雨姉が残したこの部を、失くさないためにも、頑張ろう────!」
オー! と二つの掛け声が重なって、サイダーの泡のように浮き上がり……初夏の空で弾けた。