七里歩──6
限りなく怒声に近い悲鳴とでも言おうか。
そのような混濁とした絶叫が轟いたことにより、ぼくと杵築さんはおそらく同時に飛び起きた。
一瞬顔を見合わせ、二人揃って駆け出す。
その間に、聞こえてくる音声は二人の人間が言い争うものに変わっていた。
部屋を出ると、廊下の先で袖沼姉妹が揉み合っている光景が目に飛び込んでくる。
いや正確には……青空が、この場にいるはずのない雨姉に一方的に掴み掛かっているのだ。
ぼくと杵築さんは状況が飲み込めぬまま、取り敢えず二人がかりで青空を雨姉から引き離した。彼女はほとんど半泣き状態で、震える手ですぐ横にある自分の部屋の半開きになった扉を指差した。
「杵築さん、ちょっと……アオのこと頼むね」
ぼくは一旦、青空を杵築さんに任せ、部屋の扉を完全に開き、電気を点けてみた。
すると。
そこには。
ぼくらの作品が入っているノートPCとカメラが、どちらも見るからに破損した状態で落ちていた。さらに付近にはバックアップ用のUSBメモリが散乱し、それらもガラクタと化している。
頭を殴られたような衝撃の後、強い目眩に襲われた。
息を飲む音が聞こえた──自分のものか杵築さんのものか判断がつかない。
体内で不快な熱が発生し、行き場を失ったそれが質量を伴って、どんどん身体を重くしていくような心地がする。
「何で、こんな……」
状況の理解が追い付かない。
一方、ぼくらが困惑しているのにも構わず、袖沼姉妹は言い争いを再開したようだった。
「どうしていつもいつも、わたしに突っかかってくるの!? 姉さんには迷惑かけてないじゃない!!」
「目障りなのよ!! こっちは仕事だってのに、子どもが面白半分に、人の飯の種で遊んでるのを見る大人が、どんな気持ちだと思うの!?」
「知らないわよそんなの!! 別に姉さんの前で撮影してるわけじゃないんだから気にしなきゃ良いじゃない!!」
「気になるのよ! 脳裏にあなたたちの間抜けな撮影風景がこびりついて!! どうしてあんなヘラヘラしてられるのよ!? お話作りも映画制作もおままごとじゃないのよ!?」
「分かってるわよそんなの! わたしたち、姉さんが思ってるよりもずっと頑張ってるわよ!!」
「嘘よ! 言っとくけど、アンタたちの作った映画なんて、誰からも相手にされないわよ!? 所詮自己満足なのよ! どれだけ楽しく作ったって、作品の価値を決めるのは観客なんだから!! 無意味なのよ!!」
「どうしてそんなこと言うの!? 姉さん、昔はそんな人じゃなかった……何でそんな風になっちゃったの!?」
「うるさい、妹の癖に口答えしないで!! 皆してわたしのこと、バカにして!! バカにして!! バカにして!! バカにして!! バカにして!! バカにして!! バカに────」
これを、雨姉がやったというのだろうか。
信じられない……いや、信じたくなかった。
だが、二人の会話を聞いた今、客観的に考えてそれしかあり得ないだろう。
汚い言葉が吐き出され、部屋に響き渡る。その主は身近な人間なのだ。
雨姉が変わってしまったのを嘆かわしく思いながらも、一方でぼくは今の彼女が自分と似ている気がしてならなかった。
だからだろうか──修羅場のような空気感に怯えながらも、自分の感情にすぐに気付いたのは。
心の中に、喪失感と挫折感の予兆があった。
この状況が進行していけばいずれ……かつて脚本を書くのを諦めたときの、あの感覚に近いものが、押し寄せてくるような気がする。
もう二度とあんな想いはしたくない──何かを考えるより前に、そう、強く思った。
言いたいことがある。言わなきゃいけない──今目の前にいる雨姉と、かつての自分自身に対して。
ぼくは今、何かの瀬戸際に直面しているのだ。
これ以上、逃げてばかりもいられない。
ここで逃げたら、きっと一生後悔する。 一つ、大きく深呼吸して。ぼくは一歩、前に踏み出した。挑むように。
「雨姉は、何で脚本を書いているんですか? 自分が作りたいと思うからじゃないんですか?」
慎重に、けれど堂々とした態度を意識して、最初の取っ掛かりとなる質問をぶつける。雨姉は、ぼくから言葉を向けられたのが意外だったのか一瞬怯むような表情をした後に、言葉を返した。
「もちろん、そうよ。でも、それたけじゃ……書きたいとか、楽しいとか、そういうのだけじゃダメじゃない」
「何がダメなんです?」
「自己満足に過ぎないからよ。誰にも認めてもらえないんじゃ、やってても意味がないの」
彼女の返答はまるで、瀕死の人間がこぼす嘆きのようだった。
「わたしは、社会に出てから自分がなんの役にもたたないんだって思い知った。このまま生きてたんじゃ、何者にもなれずに死ぬんだって。そんなの嫌だと思った。……何か頑張らないとダメだと思った。やりたいこと、脚本しかなかった。だからそれだけをひたすら頑張ったの。なのに、それさえも認めてもらえないんじゃ、わたし、生きていけないわ……!」
「ぼくは、雨姉の書く脚本、好きですよ。昔のは、特にね」
「そんなの、今となってはどうでも良いわ! 身内から持て囃されるだけじゃ、ダメなのよ!!」
かつて憧れていた人物に頭を激しく振りながら否定され、胸に鋭い痛みが走った。だが、それでもぼくは負けじと食い下がる。
きっと、青空の痛みはこんなものじゃない。
「そうでしょうか? 評価されないからダメ、というのは少し短絡的じゃありませんか? ぼくは、創作物の主役はある意味に置いて作り手なんじゃないかと──あなたの妹を見て、そう思うようになりましたけど」
「どういうことよ?」
「本来、作者というのはもっと自由に創作をしても良いんじゃないか、という話ですよ」
「それは、あなたたちアマチュアの理屈でしょう!?」
語気は荒いものの、ぼくが発言を重ねる度、雨空の瞳には迷いのような色が濃くなっていく──気がした。
「プロかアマチュアかは関係ありません。作品と作者は別物なんですから。雨姉の作品が批判されても、それは雨姉自身が批判されたことにはならないでしょう?」
「素人が知ったようなことを……! 良い!? あらゆる創作は、観客ありきなのよ!! そんなことも分からないの!?」
「まあ、そうでしょうね。それは認めます。確かに、作品を受容するのは観客です。作品を楽しむのも観客です。作品を評価して、価値を決めるのも観客かもしれません。でも……作者にだって、あくまで作り手として、作品を作ることを通して楽しむ権利があるでしょう。そしてその結果、何を得たか、何を失ったのか……決めるのは観客じゃなく、作者自身のはずだ。そこに他者からの評価は関係ない。自分が何者かを決められるのは、自分でしかないんじゃないですか?」
ぼくの言葉を受けた雨姉は、悲憤に満ちていた顔をさらに歪めて黙り込むと、床にしゃがみこんで、静かに嗚咽を漏らすようになった。
それを見て、自分から割って入っておいて何だが、いたたまれない気持ちになる。
「すみません、偉そうなことばかり言って。今の全部、アオを見て学んだことなんです。ぼくが彼女の在り方を、言語に翻訳しただけというか……
ぼくも、人の目を気にしてばかりだ。たった一度バカにされただけで、書くのが怖くなって、二年以上何も形にできなくなって……失敗から逃げてた。ぼくはまさに、創作者失格だ」
話しながら、再び一歩前に踏み出す。
「でも、それも今日で終わりにしたい。創作者失格のままで終わりたくない。だから、ぼくは……書くよ。何がなんでも、脚本を一本、書き上げる」
「それって、別の作品を取り直すってこと!? 今からなんて……期限に間に合わないわ……!」
それまで俯いていた青空が顔を上げ、叫ぶように言う。否定的な口調とは裏腹に、こちらに向けられた視線にはすがるようなニュアンスが感じられる。『期待』と言い換えても良いかもしれない。
ぼくは、それに答えたかった。
「実はずっと形にできないまま温めてた構想があるんだ。ほとんど同じ場面で進行するワンシチュエーションホラー……sawみたいなやつ。ああいうのなら、前作より遥かに短い時間で撮れるんじゃないかな?」
提案するように、その場に居る全員に向けて問いかけてみる。大して間を置かずに返答があった。
「やりましょう! このまま引き下がるなんて、アオせんぱいらしくないじゃないですか!!」
杵築さんだ。
「キズナちゃん……」
「何としてもコンペで入選して、映画部を不滅のものにしてやりましょうよ!!」
彼女には人を奮い立たせる才能があるのかもしれない。
青空は両手で拳を作って意気込んでいる杵築さんに微笑み掛けると、その手を取った。
そして次に、ぼくの方へと目を向ける。
「……歩くんは、できると思うの?」
「きっと、できる。ぼくはアオと杵築さんを信じてる。だから、君たちもぼくを信じてほしい」
できるだけ自信のある声で言い放つ──二人は、頷いてくれた
「ありがとう。……じゃあ、もう一つ良いかな?」
付け足すように問うと、二人は不思議そうに、目でその先を促した。
「雨姉にも、協力してもらおう」
一瞬の間を挟んで、その場に居る誰もが驚いていた。最も目を丸くしていたのは雨姉本人だったかもしれない。
「良いスタッフは、一人でも多く居た方がいい。数年振りに書く脚本にはきっと粗があるだろうから、雨姉にもぜひ、一緒に考えてもらいたいんだ」
「そんな……こんなことしたわたしと、これ以上関わるつもり?」
「こんなことしたからこそ……そういう形で責任を取ってくれても良いんじゃないですか?」
「……………………」
ぼくの問いの後、しばらく誰も口を開かなかった。質量を感じさせるほどの重厚な沈黙が空間に行き渡り……数秒後、青空の言葉が場を解凍させた。
「……歩くんの言うとおり、姉さんには罪を犯した責任があるわ。もしそれから逃げるというのなら、わたしはあなたと縁を切る」
それは追い討ちとして充分な機能を果たしたらしい。
やがて雨姉は、困惑しながら、渋々といったようにだが、頷いてくれた。
「じゃあ……決まりだ。大いに楽しみながら作りましょうね」
「そんな……今更楽しむだなんて……」
「大丈夫。アオと一緒に映画を作っていると、嫌でも楽しくなるはずです。彼女は、最高の映画監督ですから」
ぼくがそう言うと、青空は照れたように目を逸らした。
珍しい反応だな、と思った。