【鏖殺の聖女】 月明かりの下、聖女と魔女
思うのです。何故、私は人の感情が理解できないのだろうと……。
どれほどの人と触れ合い、どれほどの街並みを眺めても、私は当たり前が判らないのです。私は心の底からの善意で以て行動しています。石を投げられようとも、そこに神の御意思があると信じれば、私は耐えられます。
耐えられるのです。
耐えて、耐えて……耐えても尚、私は感情を理解できません。
感情とは何なのでしょう。
なぜ人は笑顔を浮かべることが出来るのでしょうか。なぜ人は涙を流せるのでしょうか。なぜ人は辛い気持ちを感じることが出来るのでしょうか。なぜ人は……人と私は何が違うのでしょうか。
私には名前があります。それは当たり前のことです。人は誰しも、名前を持っています。
私には性別があります。この世で性別が存在しない人間はいません。
私には信仰心があります。神による神罰があるので、人は心のどこかに信仰心を持ちます。
なので、私は私を人間だと思っています。しかし、人は私のことを悪く言うのです。悪魔、魔女、化け物、魔物……きりがありません。私を同じ人だと認めようとしないのです。
何が違うのでしょう。何が間違っているのでしょうか。私にはそれが判りません。
聖典に記された慈愛の女神のように、世のため人のため私は努力しています。なのに、人は私を悪し様に罵ののしるのです。
毎日毎日努力しています。まだまだ至らぬと自覚しながら、私は努力を重ねています。
だからこそ思うのです。何故、私は人の感情が理解できないのだろうと。
だからこそ笑うのです。もっと親しみやすくなれるように。
だからこそ喜怒哀楽を表現するのです。もっともっと人々の世に馴染めるよう。
だからこそ救うのです。少しでも誰かの役に立つために。
蚕かいこ蛾がのような儚い純白のドレスに身を包み、少々無骨で、けれど丁寧に手入れをしたブーツを履き、慈愛を司る豊穣神様の信徒である証を提げ、手て櫛ぐしで髪を整えて、私は旅をしています。
悪しき者に負けないよう、少しでも人々のためになると信じて、私は歩むのです。
――たとえ、死人が斃たおれる荒野であっても、カラカラに乾いた砂漠であっても、魔物が跋扈ばっこする沼地であっても、私は歩みを止めません。
なぜなら、私は聖女だからです。
神によって定められ、世のため人のために尽くすのが聖女だからです。
私欲を捨て、その神の御意思に従うのが聖女だからです。
ですので、私はどんな悪路であっても諦めません。めげません。立ち止まりません。
偉大な神の……豊穣神様の信徒として、私が歩みを止めることは決して無いのです。
――『聖教会聖女/聖人事典』ファイエット最期の日記より抜粋。
*
世界は人が思うより、平凡である。あらゆる要因であらゆる人間が死に伏せる。それは動物も、魔物も変わらない。全て神のお膝元の出来事なればこそ。
「騙しやがったなテメェ!」
「金貨一枚って書いてあんだろうが! 文字も読めないのかお前は!」
「なぁにが金貨一枚だ! こりゃ、一枚分にも満たねぇグォンダイム金貨じゃねぇか! ジグムント金貨を出せや!」
グォンダイム金貨……混ぜ物が多く、ジグムント金貨の半分の値しか付かない金貨だ。そのため、通常は鋳つぶして別の硬貨の材料に回される。
怒っている男は、どうやら賭け事で得た金貨がグォンダイム金貨だったことに腹を立てているようだ。そのことで賭け事を開催していた商人と揉めている。放っておけば取っ組み合いにでもなりそうだ。
「だーかーらー! 俺は一言もジグムント金貨だなんて言ってないだろ! ただ金貨一枚って書いただけだ!」
「だったらグォンダイム金貨って書いときゃ良いだろうが! こんなもん詐欺だ詐欺!」
「銀貨一枚で参加できるんだからいいだろ! むしろこっちは損してんだよ!」
言い争いはだんだんとエスカレートする。客の男はテーブルの板をバンバンと叩き、商人も商人で強く叩く。どちらの言い分も正しいが、間違ってもいる。
客の男はジグムント金貨が得られると思い参加したが、しかし実際に得たのはグォンダイム金貨であり騙されたと感じている。対して商人は、銀貨一枚で賭け事を行い、用意した賞金はグォンダイム金貨。確かに損をしている。
だが、そんな正論で止まることは無い。一度言いがかりを付けた以上、そう簡単に引き下がれないのが人間だ。内心、それが正しいと分かってはいても、口に出した言葉は引っ込められない。割れた卵が戻らないように、破れた布が元通りにならないように……。
――二人が拳を握りだし、それを振りかざそうとした瞬間、待ったを掛けた者がいる。
「初めまして、ファイエットと申します。もしよければ、仲裁しましょうか?」
現れたのは一人の女性。否、聖女であった。
まるで蚕蛾のような儚さを持ち合わせた純白の衣服は、ゆったりとしたドレスのようにも見える。古い時代の様式を引き継いだ、聖教会の高位神官の正装だ。着用者が自ら祈りを捧げて素材を浄化するため、汚れにくいほど信心深い者の証とされている。
首からは信仰対象である豊穣神の証が提げられており、履いている靴は実用性重視のブーツだ。ともすれば破戒僧にも捉えられかねないが、彼女はれっきとした神官職である。
「あ……あぁ……」
風になびく銀髪は、まるでシルクのようにキラキラと光を反射する。輝くエメラルドグリーンの瞳は海のよう。汚れ一つ無いきめ細やかな肌は彫像と見間違うほどであり、まさに、女神の如き美貌と形容できる容姿である。
もしかしたら天の遣いかもしれない……二人の心を過ぎったのは、その美貌に見とれた男の、ごくごく一般的な感想であった。
「では、差し支えなければ経緯を説明していただけますか?」
ファイエットがそう訊くと、二人は揃ってコイツが悪いと念を置いてから説明を始める。
*
客の男の証言:俺はヤットウで金を貰ってる傭兵なんだがな? 懐に余裕が出来たんで、少し市場でも冷やかそうと思ってたんだ。したら、兜を割ったら金貨一枚って看板を見かけて、腕試しにちょうどいいやって参加したんだよ。結果は見ての通り、得意の剣術で一刀両断さ。……けど、賞金として渡されたのがグォンダイム金貨なんだよ。ジグムント金貨じゃなくて。あんたも知ってるだろ? グォンダイム金貨がジグムント金貨の半値しか値が付かないって。だから文句言ってんだよ。ジグムント金貨に変えるか、最初から看板にグォンダイム金貨って書いとけってよお。
商人の証言:見ての通り俺は貧乏商人だよ。こうやって小さな賭博でちまちま稼がなきゃやってられねえのさ。今回だって、今までと同じようにやってる。でだ、俺は一言もジグムント金貨だなんて言ってねえし、看板にだって嘘は書いてねえ。グォンダイム金貨だろうがジグムント金貨だろうが、金貨は金貨だろ。な? 何も嘘は言ってないだろ?
*
「……なるほど。ご説明ありがとうございます。つまり、貴方は騙されたと思っていて、貴方は騙していないと思っているわけですね?」
「「ああそうだ!」」
ファイエットが要約すると、二人は声を揃えた。騒動を見守っている野次馬が、実はこいつら仲いいんじゃねえのかと思うほど息ぴったりに。
ファイエットは口元に手をやり考え込む。どうすればこの二人が納得できるか考えるのだ。
そして、悩みに悩み抜き、一つの答えを導いた。
「そうですね……では、その金貨を半分に割りましょう。貴方は銀貨一枚を支払って、銀貨二十五枚を手に入れた。貴方は銀貨二十四枚の損失ですが、これまでの売り上げがあれば十分に賄えますね?」
二人がその答えを聞いて納得する……前にファイエットはグォンダイム金貨を取り上げ真っ二つに割った。少々強引ではあるが、これで二人は納得するしかなくなった。
元々、心の中では自分の言い分が正しいと思っていたわけではないので、二人は少し複雑な気持ちを抱いたが、「まあ、この人が言うなら……」と自分を納得させる。
神官の発言力は世界一なのだ。
「では私はこれで」
ファイエットは笑顔を浮かべてその場を去った。
豊穣神の信徒たる証を揺らして、ファイエットは人混みを避けるように歩く。人目を避けるように、何気ない足取りで路地裏へ……そして、つい先程まで浮かべていた笑みを消した。
「…………豊穣神様、教えてください。なぜあの方達は怒っていたのでしょう。喧嘩していたのでしょう。私には判りません」
銀で作られた証を両手で握り、彼女は無表情でそう問うた。その問いに返答できる者なぞいないが、それでも答えを求めて彼女は問う。
――神は明確な答えをお教えにならない。だからこそ、人は自らの道を悩み迷いながら進むのです。聖教会の神官ならば最初に教わることだ。聖女であろうと、神官であることには変わりない。しかし彼女は祈りの折に神へと問う。
問う。自分が何者なのか。なぜこうも歪んでいるのか。
「……」
神からの返答はただ一つ。
『汝、善くあろうとする思いのままに生きよ』
何十、何百、何千と繰り返された返答。曖昧にして寛容な答え。
ファイエットはその一言一句同じ答えに、心からの敬意と感謝を込めて「御心のままに」と答える。
両手を解き、祈りの姿勢を止め、彼女は路地裏を抜ける。その足取りは何ら変わりないものの、その顔には偽りの感情が張り付いている。
「(私がどれほど醜く穢らわしい存在でも、神は罰を与えずにただ生きよと仰る。嗚呼、それこそが私を悩ませるのです。私を苦しめるのです。ですが、だからこそ私は私で在れるのです)」
笑顔の裏で彼女はそう考える。それはある意味では戒めのようなもの。自らを律する信仰の楔。
ファイエットは、心の底から聖女であった。
――この街は砂漠にほど近く、荒野のように荒れた土地ながら栄えている。それは物流の中継地点、都と都を繋ぐ命綱だからだ。しかし、街の名前はこの際どうだっていい。ただ、国にとっての要所であると知っていればいいのだ。
そんな街にファイエットは居る。巡礼とは違う旅の途中……引き寄せられるように立ち寄ったのだ。
「――そんな者達が……」
「ええそうなのよ。聖女様、気を付けてくださいね」
「はい、勿論。この身は豊穣神様に捧げたもの……悪神信仰の者共には屈しません」
街の人によると、近頃はどうやら、怪しい集団が至る所で散見され始めたらしい。神官服と言われて思いつく普遍的な衣服を真っ黒に染めた、いかにもな集団が。
ファイエットはそれを聞いて悪神信仰の神官を思い出す。聖教会が奉る善神とは正反対の、世に悪逆を為す悪神を崇め奉る者達だ。聖教会では彼らを、異端ではないが――悪神であろうと神は神であり、立場や志は違えど同じ神職である――敵として認定している。
「ご安心を。私は聖女の役割を与えられた者……必ず打ち倒して見せましょう」
敵である悪神信仰の神官に対して、聖教会はその力をここぞとばかりに振るう。それは聖女であるファイエットも例外ではない。怪しい集団が悪神信仰の神官だとしたら、ファイエットは迷うことなくその力を翳かざすだろう。心からの善意と慈しみを以て苛烈に……悪辣に殺すだろう。
果たして、会敵するのは時間の問題であった。街中に居る以上衝突は避けようもなく、ならば見敵必殺――能動的に探すほかあるまい。
そして夜も更け、世界が真っ暗闇のヴェールにて覆われる頃。冷たい風が肌を突き刺す感覚に襲われながらも、ファイエットは独り、大通りで佇んでいた。
一応、寒冷対策として外套を被ってはいるが、ビュウビュウ吹く風の前でバタバタと靡くだけで全く仕事をしない。
「月が綺麗ですね……月女神様が微笑んでいるようです」
ふと、ファイエットは思ったことを口に出してみた。
月女神は夜の空に浮かぶ月に住んでおり、人々が夜の暗闇で困らないよう月光で大地を優しく包み込む。また、朝日を苦手とする者共らに一時の安らぎも与えるという……。
ファイエットの頭上に浮かぶ月は満杯に満たされており、彼女はそれを月女神の微笑みに喩たとえたのだ。
そして、その何気ない呟きに、拍手を送る者がいる。
「こんばんは。そして、初めまして……聖教会の聖女様」
「ええ、初めまして。暗黒教団の魔女様」
暗がりから現れたのは、ファイエットと同年代か、少し年上の女性だった。ファイエットとは正反対の色彩に染められた神官服を纏い、黄金で作られた不死神を象徴するアクセサリーを身に付けている。
魔女は暗黒教団に於ける聖女のようなものだ。信仰対象である神から奇跡を授かり、その意思に従って動く者。
「良ければどうぞ?」
彼女はファイエットに一つのコップを差し出した。
「いえ、お構いなく」
そして、ファイエットはそれを丁重に断った。
行き場を失った飲み物は彼女の手の中で彷徨さまよい、やがて彼女の胃の中へ消える。コップは投げ捨てられた。
「……ふぅん? 見たところ、とても強い寵愛を受けているようね」
「それは貴方もですよね」
「ええ。この身は不死神様に捧げているもの……」
彼女はファイエットの周囲を、石畳をコツコツ鳴らして見定めるように旋回する。その視線はファイエットの全身をくまなく観察しており、一周すると見事なカーテシーを披露した。
「改めて……私は暗黒教団所属、不死神様に仕える魔女グレイ。その首、狩らせていただいても?」
「私は聖教会所属、豊穣神様に仕える聖女ファイエット。それと、お断りしますね」
お互いの名乗りが終わると、その場には静謐が訪れた。束の間の静謐を邪魔するのは変わらず吹き続ける夜風だけである。
そして、グレイはギラギラした笑みを浮かべると、即座に祈りを開始する。それは通常の祈りとは違う、討つべき敵を相手にしたときにのみ使われる祈りだ。聖教会も暗黒教団も、お互いがお互いを敵と認定しているため、彼ら彼女らは相対すると必ず殺し合いになる。
……それが、神の御意思だから。
「“我が身が崇め奉る至高にして不死なる神よ、御身の敬虔けいけんなる使徒に不浄なる穢れを刈り取る大鎌を――」
「“我が身が崇め奉る慈愛と豊穣を司りし神よ、御身の敬虔なる使徒に安定と公平の象徴たる天秤を――」
「「――与え賜たまえ”!」」
奇しくも、彼女らは同じ祈りを用いた。自らが信仰する神の象徴となる武器を手元に召喚する高位の奇跡だ。
グレイに与えられたのは、限りある生ではなく永遠の生を是とする不死神の大鎌。
ファイエットに与えられたのは、平穏を何よりも尊ぶ豊穣神の天秤。
武器と武器がぶつかり合い、派手に音を鳴らし火花を散らす。ここから先は知恵と膂力がものを言う舞台である。
「さすが聖女様……でも!」
舞うように大鎌が振るわれる。一撃、二撃、三撃と絶え間なく。ファイエットはそれを冷静に見定め、防御と回避に専念した。
「……とても使い心地が良さそうですね」
「でしょう? この奇跡が与えられた時の歓喜と言ったら、それはもう……!」
攻防の最中に交わされる会話は、物騒ではあるものの、神に仕える信徒ならではの他愛ない話だ。宿で、もしくは人の行き交う市場で交わされていても何らおかしくない。
つまり、一種の雑談のようなものなのだ。
「(歓喜ですか……私は何も感じなかったのですが、なぜこの人は歓喜を感じたのでしょう)」
しかし、その会話の裏でファイエットは、やはり歪んだ人格故の悩みを抱えていた。
武器を持って相対するグレイが、ファイエットにとっては何の意味も持たない出来事に歓喜を感じることの出来る彼女が、心の底から羨ましいと思うほどに。
この一瞬ではあるが、ファイエットにはグレイが輝いて見えた。
「ところで、街の人が怪しい集団がいると噂しているのです。心当たりはありますか?」
そういえば、と昼間の出来事を思い出したファイエットがグレイに訊く。
「私達のことでしょうね。……ああ、暗黒教団のことよ?」
「はい、それは分かっています」
「……少しくらい笑ってもいいのよ?」
「…………ああ、今のは笑う場面でしたか」
ほんの僅かな疑問がグレイの心中に浮かぶ。しかし、それはすぐに霧散した。
守りばかりであったファイエットが攻めに転じたのだ。
ビュンッ! と天秤がグレイの頭上を掠める。空ぶったと判断したファイエットは、一瞬で逆手に持ち替えて突きを繰り出す。
「ふふ……見た目に似合わず剛力なのね」
砕かれた石畳を見てグレイが言う。
「でも、剛力なのは貴方だけではないのよ!」
グレイは両脚に力を込めると、石畳の上を縦横無尽に駆け巡る。方向転換する際に石畳が砕けている。途轍もない脚力だ。
舞うような攻撃は更に激しさを増して、ファイエットへと襲い掛かる。
ファイエットの両腕には一撃防ぐ毎に強い負担が掛かる。ビリビリと痺れにも襲われ、受け続けるのは得策ではないと判断した彼女はわざと吹き飛ばされた。
「ふっ!」
が、グレンはその脚力ですぐさま接近し、大鎌を横薙ぎに振るう。
その瞬間を視界の端で捉えたファイエットは、長杖に似た形状である天秤の石突きを石畳に突き刺し、それを軸にしてグルリと回った。
「がふ……っ!」
「……っ、無傷とはいきませんか」
ファイエットとグレイの攻撃はすれ違い様に行われた。振るわれた大鎌を乗り越えるように躱したファイエットがグレイの顔面を蹴り飛ばしたのだ。しかし、完全に躱しきれなかったらしく、ファイエットの片脚には大きな斬り傷が残される。
そして、蹴り飛ばされたグレイは石畳の上を転がるハメになった。
「“慈悲深き豊穣神様の癒しを此処に”」
「――“不死神様のご加護を此処に”……。お互い、治癒の奇跡は与えられていたようね。貴方はあと何回使えるのかしら?」
「四回ぐらいでしょうか。数えたことがないので」
「そう……私は一日に七回までよ」
傷を癒した二人は構えを取る。
神官が使える奇跡は一日毎に回数が決められており、この奇跡なら何回まで……という風にそれを授けた神から教えられる。グレイに授けられた治癒の奇跡は、かなり多い方である。
そして当然ながら、治癒以外にも神官は様々な奇跡を授かる。戦神信仰の神官ならば味方を鼓舞する奇跡を、知恵神信仰の神官ならば物事を色褪せることなく覚えていられる奇跡を。
「ねえ、どうせなら色々お話ししましょう? ここで出会ったのも何かの縁……異国の諺には、一期一会というものがあるそうよ」
「すみませんが、異国の文化には疎いので……」
「あらそう……。っと、酷い場所ばかり狙うのね」
眼球目掛けて突き出された石突きを躱したグレイは、大鎌を石畳に勢いよく振り下ろし砕いた。その衝撃で宙に浮かんだ瓦礫を次々と手際よく蹴り飛ばす。
「貴方も人のこと言えないと思いますよ」
土埃で悪くなった視界の中、死角から襲い掛かるグレイの姿を確認したファイエットはそう告げる。
「あら?」
グレイの腹に回し蹴りを食らわせたファイエットは、一秒にも満たない時間で追撃に移る。
「――残念、それは偽物よ」
「……! ――うぐっ!」
しかし、それは奇跡を用いて作った偽物らしく、ファイエットが追撃を始めた頃には土塊に戻りかけていた。無防備となったファイエットの背中に、グレイは大鎌を突き刺す。
大鎌の刃はファイエットの背中から腹へと貫通し、グレイが振り抜くと臓物や鮮血と一緒に脇腹から外へ出る。
大量の血が溢れ出し、ファイエットはともすれば即死の重傷を負った。
「“慈悲、深き……豊穣神様の……癒し、を、此処に”……!」
ファイエットは負った傷をすぐに治癒する。しかし、治癒は傷を塞ぐだけで、失われた血が戻るわけではない。
臓物の場合は塞ぐ=再生となるが、血液は失っても再生されない。なぜなら、臓物のように一部分だけ無くなった、とはならないからだ。血液は液体……一個、二個、と数えることが不可能な流体に欠けるという概念は通用しない。そのため欠けたものを治す治癒の奇跡は、血液には適応されないのだ。
「勝負あり、かしら」
「……いえ、まだ戦えます。“乾いた大地に潤いを与え賜え”」
ふらふらとした足で立ち上がったファイエットは、自分の胸に手を当てて祈りを捧げた。乞う奇跡は、一切の汚れが存在しない水を生み出す、浄水の奇跡。
本来ならただ綺麗な水を望んだ量だけ生み出す奇跡だが、彼女は自身の体を大地に、血液を大地の潤いに喩えることで、水ではなく血液を体内に生み出すことに成功した。抜け道を利用するのはあまり良い使い方とは言えないが、彼女が信仰する豊穣神は寛容である。
それぐらいなら、まあ……いいでしょう……と、半ば諦めているかもしれないが。……不治とは、治せないからこそ不治なのだ。
「へえ、変わった使い方をするのね。私も、不死神様に頼んで試してみようかしら」
グレイはどうやら、その使い方に興味を持ったようである。
「でも、それは後回し。今は心躍る戦いを……続けましょ?」
「……心は躍りませんよ?」
「…………」
ファイエットの素朴な疑問に思わず真顔になるグレイ。一体、どう返せばいいのやらと困っている様子だ。
逡巡した後、グレイは気を取り直して大鎌を構える。
暴力は全てを解決する……! みたいな野蛮極まる思考の持ち主ではないが、あれこれ考えるより殴って蹴っての方が性に合っているのだ。戦闘民族ではないし、そういったことを得意とする部族の血が混ざっている訳でもない。ただ、戦いの中でこそ分かるものがあると、彼女は祈りの際に告げられたのだ。
神の言葉に異を唱える信徒はいない。善神だろうが悪神だろうが神は神であり、その神が告げたのならきっと正しいのだと信じるのが信徒だ。
「面倒なあれこれは戦いの中で話しましょう」
自分に言い聞かせるようにグレイは言うと、その大鎌を勢いよく振るった。刃は空気を斬り裂き、衝撃波となってファイエットに襲い掛かる。
これまでとは違う攻撃だ。奇跡による攻撃ではない。
「これは……魔術?」
「ええそうよ。と言っても、少しかじった程度だけれどね」
「色々と、隠し球を持っているようですね」
「持っていて損はないわよ? 特に、こういった便利なモノは……」
グレイが指を鳴らす。彼女の持つ大鎌に濃密な魔力が集い、淀んだ黒を形成する。
「応用が利くもの」
「――!」
瞬間、淀んだ黒が放たれる。夜の暗闇と同系色のため視認しづらく、しかも魔術に疎いファイエットでもこれは拙いと認識できるほど強力な力が込められている。
淀んだ黒は濃密な死を纏っている。察するに、あの大鎌で刈り取ってきた穢れを流用しているのだろう。ファイエットはそう考えて、逃げの途中で奇跡を使うことにした。
「“慈悲深き豊穣神よ、悪意ある者の侵入を拒み賜え”」
選んだ奇跡は聖壁の奇跡。一日にたった二回しか使えない奇跡だが、その効果は折り紙付きだ。術者に害をもたらす一切を……物体も概念も何もかもを遮断する。
「足を止めてはダメよ」
しかし、その効果は一方向にしか及ばない。
武器の上から殴りつけられ、ファイエットは大きく位置をずらされた。淀んだ黒は奇跡で遮断した際に消え失せているが、同じような魔術が来ないとは限らない。ファイエットは今まで以上に警戒しなければならなくなった。
「……ねえ、貴方はどうして戦うのかしら?」
すると、グレイが突然そんなことを訊いた。ファイエットが一瞬呆気にとられると、彼女は続けて自分の心境を語り出す。
「私はね、暗黒教団と聖教会が敵対しているから戦っているわけじゃないの。私が信仰する不死神様のためもあるけど、一番の理由はよりよい世界のために戦っているの。どれだけ酷な道のりでも、私はこれが最善だと思っているから戦うのよ。それは信仰だし、変えようのない在り方でもある。……趣味の一面があるのは否定しないけどね。でも、貴方にはそういった諸々全てが感じられない。一体、何のために戦っているの?」
彼女の疑問は的を射ていた。
表面上はグレイと互角に戦っているファイエットだが、その内側にはグレイのような想いは一ミリたりとも存在していなかった。信仰心こそあるものの、それはファイエットの価値観に基づいたものだ。決して人々のそれと同じにはならない。
戦う理由も、信仰している豊穣神が善神であり、暗黒教団が崇める神々が悪神であるから。信仰している神と敵対しているから、それに倣って敵対しているだけのこと。
そこにファイエット個人の想いや感情は介在していない。
「……私は――」
「無理に答えなくていいわよ。答えなんて求めていないもの」
ファイエットはそんな自分を言葉にしようとしたが、グレイはその答えを望まなかった。
「だって、壊れた人間は自分のどこがどう壊れているかなんて……どれだけの理屈を並べても理解できないでしょう?」
「…………そうですね」
グレイの言葉に一理あると考えたファイエットは、それを肯定した。
「ですが、それに何か問題があるのでしょうか。私は私の信仰を貫くだけです」
「まあ、そうなるわよね……なら、戦いましょうか。結局のところ、この世界は勝者にしか微笑まないのだし」
二人は改めて距離を取る。
片や秩序陣営に属しながら本質が歪んでいる聖女。片や混沌陣営に属しながら本質は真っ直ぐな魔女。表面上は似ているが、その本質は正反対である。
だが、ほんの少し……僅かでも境遇が異なれば、二人の立ち位置は逆になっていたかもしれない。もしかしたら、ファイエットが悪神を信仰していたかもしれないし、グレイが善神を信仰していたかもしれない。
しかし、それは有り得ない可能性。有り得ない未来。
ファイエットは善神たる豊穣神を信仰し、グレイは悪神たる不死神を信仰している。そこに『もしも』が介在する余地なぞ無いのだ。
「――はあっ!」
初動は同時。お互いに攻撃の構えだ。ファイエットもグレイも大地を駆ける。否、大地を駆る。
余人からすれば途轍もない速度で縦横無尽に駆け刃を交わす二人なれど、彼女らからすれば自らではなく世界の方が駆け回っているに過ぎない。それはまさに、大地を駆るとしか表現できない感覚だ。
目の前の相手のみに全ての神経を使う没入感。
何をする、何をされた、どうしたい、どうされた……斬り合う度に引き延ばされた世界の中で、彼女達は最善手を探す。時には悪手を逆手に取り、搦め手も用い、奇跡をふんだんに使用して没頭する。
二人の間に、もはや言葉は必要無い。
あらゆる言葉が、表現が、感情が、戦闘の中で交わされるからだ。
「(これが私よ。私の在り方よ。同じ神官として、少しはリスペクトしてもいいのよ?)」
「(……それは私には関係の無いことでしょう)」
「(残念ね。でも、もっと周りを見なさいな。心を向けなさい……今だけは、年長者として悩みを聞いてあげるから)」
「(鬱陶しいですね……貴方に聞いてもらう必要なんてありませんよ)」
「(そう言わずに)」
ガキンッ! と一際大きな金属音が鳴った。二人の手元から武器が弾かれ、無手になる。
体術を使うのもいいが、相手に武器を握られると厄介だ……。刹那の間にそう判断した二人は、瞬時に武器を拾おうと動いた。
二つの武器は偶然にも、同じ場所に落ちている。
「「……っ」」
自らの武器を拾い、相手に突きつけ……二人は膠着状態に陥った。お互いに相手の首元へ武器をあてがっているのだ。迂闊には動けない。
「――仕切り直しね!」
グレイに土埃を掛けられ、ファイエットは思わず後退る。その隙にグレイは距離を取った。
……互角である。実力が拮抗しているため、どの攻撃も決め手に欠けてしまう。ならばと魔術を使おうにも、グレイのソレは数が少なく、また対処もしやすい部類のため布石にすらならない。
対して、ファイエットは能動的に殺しに掛かる術をあまり持ち合わせておらず、しかし防ぎ躱すことに関して言えばかなりの腕だ。
どちらも長所が相手の長所で潰されている。このまま続けても朝を迎えてしまうだろう。
しかし攻防は止まらない。止める理由が無い。
「ふふっ、貴方防御は得意みたいだけど、攻撃は隙が多いわね」
グレイからすれば大振りなファイエットの攻撃は、カウンターを叩き込むには十分すぎる隙を晒していた。捻り込むような突きをしゃがみ込むことで回避すると、グレイは彼女の足を払った。
体勢を崩したファイエットは地面に倒れたが、すぐさま横に転がることで追撃をすんでの所で躱す。だが、立ち上がったところに追撃が加えられる。グレイは手に持つ大鎌を投げつけることでファイエットの体勢をまたもや崩し、がら空きとなった胴に回し蹴りを食らわせた。
「ぉぐ……っ!」
派手な音を立てて吹き飛ばされる。建物の壁を貫通し、ファイエットは骨が幾つか折れていることに気が付く。
これだけの衝撃を食らえば、たとえ肉体が強化されていても相応の怪我はするものである。
「“慈悲深き豊穣神様の癒しを此処に”……さて、ここはどこでしょうか」
小声で奇跡を唱え、周囲を見渡す。瓦礫ばかりの暗闇では、目が慣れていてもすぐには把握できない。どうやらどこかの建物の中だということだけはすぐに分かった。
「神官様……でしょうか……?」
住んでいた人間がいたからだ。騒動で目が覚めたようで、暗がりの奥からファイエットに訊ねた。
ファイエットはそれに答えると、彼は少ししわがれた声で安堵の溜息をついた。
「よかった……突然大きな音がして家が崩れたものですから……」
良くないものが侵入してきたのではないかと怯えていたようで、彼はよっこらせと瓦礫を避けてファイエットの近くへやってきた。
「一体何が……?」
「ご心配なく。聖教会と暗黒教団の諍いですので」
「ああ……そうですか……」
聖教会と暗黒教団の仲が悪いのは周知の事実のため、彼はそれを聞いて納得するのだった。
二つの勢力が争っているとはいえ、どちらも神に仕える者。そう易々と市井の民には危害を加えないため、多くの者はそっとその場から離れるだけで無事に済む。彼もそう考え、邪魔をしてはいけないと終わるまで離れているとファイエットに告げた。
「――少しお待ちを。もしや、怪我をされているのでは?」
去り際に訊ねられた男は、驚いた様子で振り返る。
「……持病のようなものです。もう治らないと医者にも言われています」
「苦しいのでは?」
「ええ、まあ……ですが、もう長生きは出来ないと知ってからは気が楽になりまして……。心配は要りませ――」
鈍い音が鳴る。
「……これで楽になりましたか?」
男は首を異様な方向に捻じ折られた状態で斃れた。その顔には疑問と驚愕が入り交じった表情が浮かんでおり、なぜ殺されたのか理解できない様子であった。
しかし、その理由は至極単純である。これは、ファイエットによる救い……苦しみからの救済なのだ。
「あら、殺してしまったの。酷いことをするのね」
「酷い……ですか? 私はただ、苦しまないようにして差し上げただけですが」
瓦礫をどけて屋内に入ってきたグレイの言葉に、ファイエットは純粋な気持ちで救っただけだと答えた。それはグレイにとっても予想外の返答であり、彼女がどうしようもなく壊れてしまっていることを理解させられた。
「ところで、まだ続けるのですか?」
「……いいえ、撤退するわ。もうすぐ朝になってしまうし、聖騎士もこの街に向かってきているようだしね。あと、不死神様がこれ以上は無意味だと仰られたから」
「そうですか」
興味なさそうに言葉を返したファイエットは武器を消し去った。グレイの大鎌も既に消えており、戦いを続ける意思はたしかに無いようである。
建物を出ると、そこは先程まで戦っていた大通りとは別の、路地に隣接した空き地だった。大通りには暗黒教団の神官が複数名いる。グレイの仲間だろうか。
「じゃあ、また機会があればどこかで」
最後にそう言い残すと、グレイは神官を連れて街から撤退していった。地平線の向こうから昇り始めている太陽から逃げるように、見事な身体能力を駆使して荒野へと消えていく。
後に残されたファイエットは深く息を吐くと、衣服に付いた埃を払った。
「……聖騎士が来ているらしいですね。なら、任せても大丈夫でしょうか……?」
背後の瓦礫塗れの建物を一瞥し、ファイエットも街から離れることにした。元々長居するつもりが無いとはいえ早すぎる出立だ。
必需品は昼間の内に購入していたため、荷物を預けている宿を引き払えばすぐにでも街を出ることは出来る。少し考え、先程自分が殺した男の遺体を表に引っ張り清拭の奇跡を掛けてから、ファイエットは宿を引き払うことにした。
「あとは手続きを済ませるだけですね。次はどこに向かいましょうか……」
宿を引き払い、ファイエットは地図を広げて目的地を探す。そして、どうせなら……と砂漠の方角へ向かうことにした。道具はあるため問題もなく、ファイエットは早速そちらの方角へ足を進める。
「……あ、朝食を食べるのを忘れてしまいました」
街を出てから暫くして。朝食を食べ損ねたことに気付いたファイエットは仕方ないと早めの昼食を摂ることにした。
*
「――ジグルド、身元は判明したか?」
「すぐに。こっちに纏めましたんでどうぞっす」
都と都を繋ぐ命綱である街中で、真っ白で華奢な鎧に身を包んだ成人男性が厳戒態勢のまま路地付近を巡回していた。その鎧には聖教会の印が刻まれており、腰に吊された剣にも同様の印がある。
ジグルドと呼ばれた男は、遺体の身元を詳細に書き連ねた羊皮紙を隊長に手渡す。
彼らは聖教会に所属する聖騎士だ。武の鍛錬を積んだ信徒の中から選ばれた、特に戦闘能力が高いエリートである。
「それにしても、暗黒教団の連中でもこんなことするっすかね? 生贄ならともかく、そんな様子も無いですし」
「それは……ふむ。ならば誰がやったと?」
「え? あー…………」
遺体を検分していた男は、少し言いよどんだ。口に出していいか分からなかったからだ。しかし、訊かれたならば答えなければならない。規律と信仰に従うのが聖騎士である。
「……多分、ファイエット様っすね」
大きく溜息をついてから、ジグルドは下手人の名を口に出した。それを聞いた隊長は、眉間を指で押さえて唸る。
「捕らえるっすか?」
「……捕らえてどうする。あの方は豊穣神様が選んだ聖女だぞ。捕らえたとしても、我々にあの方を処断する権限は無い」
「ですよねー……はぁ」
二人は揃って溜息をつく。ファイエットは悪い意味で聖教会内部で有名な聖女だ。だが、どれだけの悪名がある聖女/聖人だろうと、処断できるのはそれを選んだ神々のみである。
二人は後始末が面倒になったと思いながら、遺体の埋葬の準備を始めるのであった。