「おさわりOKならそれ、別ジャンルのお店になりますよ」
ある日の夜。
菜摘はベランダの椅子に腰掛けて煙草を吸っていた。先日、春斗が買ってきてくれた簡素なパイプ椅子だ。こうすれば少しは目立たないだろう。そんな心遣いによるものだろう。
時計の針は0時を回っている。春斗は早番から帰ってきた後、職場の飲み会に出かけていた。3時間ほど前に「二次会に行くから先に寝てていい」といったメッセージが届き、それから音沙汰なし。盛り上がっているのだろう。
時刻が時刻なので、周辺の灯りは消えているところが多い。静かな夜だ。幹線道路のほうからバイクのコールが聞こえてきたのは無かったことにする。
ここに来て一ヶ月ほど。春斗はなんだかんだ言って良くしてくれている。向けられがちな下心も、彼からはあまり感じない。それは彼の性格によるものか、はたまた彼のお眼鏡に適っていないのか。後者だとすると、いい気はしない。
煙草を消して、携帯灰皿に入れる。部屋の中に戻ってみると、鍵が開く音がした。どうやら帰ってきたようだ。玄関に向かう。
「お帰りなさいませ、貴方様」
春斗の足どりはふらふらとしている。だいぶ酔っているようだ。
「なんだよ、起きてたのか」
彼の息からは強い酒精の匂いがした。
「うわっ、酒臭っ」
「酔~っちゃ~ったよ~」
「何が酔~っちゃ~ったよ~、ですか」
完全に出来上がっている。肩を貸してやって、リビングへ。
「ああ、これ土産な~」
春斗の手にしているコンビニ袋には、高級なカップアイスが入っていた。バニラ味と抹茶味だ。
「ありがとうございます。だいぶお楽しみだったみたいですね」
「おー。楽しかったわ。だいぶ飲んじゃったよ」
「どちらに行かれてたんです?」
「駅前の水着バー」
「またいやらしいところに……」
「やらしくねーよ。店のねーちゃんが水着着てるだけの飲み屋だって。ガールズバーと変わらん変わらん」
「十分いやらしいですよ」
「おさわりNGだしな」
「おさわりOKならそれ、別ジャンルのお店になりますよ」
「別ジャンルなら、メイドバーでもやるか」
「わたくしが従業員ですか? まぁ、水割りを作るのは上手いですが」
以前働いていたところでは晩酌に付き合わされていたので、水割りはしょっちゅう作らされていた。これでトークスキルや愛嬌があればよいのだが、それは自分から最も離れているところだ。
「いいことを聞いた。今度作ってもらおう」
「手数料をいただきますよ」
春斗がカップアイスをテーブルの上に置く。
「俺は抹茶味をもらうわ」
「えぇ……。わたくしも抹茶味がいいですのに」
別にどっちだっていいのだが、少し意地悪をしてみることにした。
「マジかよ。まぁいいか。メイドへの土産だしな」
文句を言ってくると思ったのだが、ずいぶんと物分かりがいい。午前様なことを気にしているのだろうか。
「ありがとうございます。いただきます」
抹茶アイスを食べる。さすがは高級アイス。口当たりがまろやかだ。
しばらくの間、二人でアイスを食べる。すると、春斗がおもむろに口を開いた。
「なぁ、野良メイドってさ、急にいなくなることとかある訳?」
「どうしたんですか、おもむろに」
春斗は少し恥ずかしそうにしながら、言葉を続けた。
「いやな、メイドには凄く助かってんだよ。交替勤務しながら家事するの、地味にしんどいからな。それをやってくれて、ほんと助かる」
「……何かやらかしたんですか?」
急に感謝されてもリアクションに困る。
「いやいや。やらかしてないから。メイドがいてくれて助かってるって話なだけだよ。こういう時でもないとお礼を言えないからな」
「別にお礼でしたらいつ言っていただいても構いませんが……。ひょっとして、酔ってらっしゃいます?」
「酔~っちゃ~ったよ~」
「お好きですねそれ」
まぁ、礼を言われて気を悪くすることもない。ちょっとだけアイスが美味しく感じられた。
「凄く助かってるからさ、野良猫みたいにふらっといなくなられたら嫌っていうか。いや、ここが嫌になったらいつでも出て行ってくれていいけど、それでも一言くれよな」
聞いている側もなんだか恥ずかしくなってきた。それは春斗も同じようで、空になったカップアイスの容器を捨てるべく立ち上がる。
が、そこは酔っ払いの悲しさ。足がもつれたのか、菜摘のほうに倒れてきた。膝枕のような形になる。
「うわっ、悪い」
「……はぁ、これだから酔っ払いは」
倒れてきた春斗の背中を軽く叩いてやる。彼は動く気配を見せない。困ったものだ。
「……貴方様」
せっかくだから、春斗の疑問に回答してやろう。
「わたくし、ここは嫌ではありませんよ。貴方様には良くしていただいていますから。確かに嫌になったら出て行きますが、それは当分先のことだと思います」
春斗からの返事はない。ひょっとして。
「……寝落ちですか。これだから酔っ払いは……」
春斗は寝息を立てていた。言ってみて損した。まぁ、聞かれていても恥ずかしかったが。
「まぁ……しばらくサービスしてあげますか」
菜摘はそのままの体勢で、春斗の頭をそっと撫でた。
起きてみたら、昨日の服のままだった。ベッドには寝ていた。気に入っているTシャツだったのに、ヨレヨレだ。
だいぶ気持ち悪い。枕元に目をやってみると、ミネラルウォーターのペットボトルが置いてあった。菜摘が気を利かせてくれたのだろうか。開封して一口。二日酔いの体に水が染み渡る。温度こそ温いが非常に美味く感じた。
帰ってきたまでの記憶はあるが、そこからどうやって寝たかがわからない。記憶を無くしたのは久々だ。リビングにふらふらと向かう。
「あら、酔っ払いが起きてきました」
「あー、おはようさん」
時計は十時半を示していた。結構長いこと寝ていたようだ。
「お茶漬けでもしますか?」
「あー、助かる」
「まったく、世話が焼けますね」
菜摘はキッチンまでお湯を沸かしに向かう。テレビではローカル情報番組が流れていた。水を飲みながら眺める。
「俺、帰ってから寝るまでの記憶がないんだが」
「覚えてらっしゃらないんですか。あんなことしたのに」
「ま、待て。俺は何かやらかしたのか?」
「出るところに出たら前科がつきますね。いくらメイド相手とはいえ」
顔から血の気が引くのを感じた。酔った勢いでナニかしたのだろうか。いくらご無沙汰とはいえ、あくまでメイドでしかない菜摘に手を出したとなれば、それは危ない。非常に危ない。
「冗談ですよ。わたくしに何かしたのでしたら、酔っ払いは服を脱がれていると思いますが」
「……確かにな。っていうか酔っ払い呼ばわりやめてくれ。まったく、怖いこと言うなよ……」
「本当に覚えてらっしゃらないんですか?」
菜摘がお茶漬けを持ってきた。礼を言って、一口。
美味い。空腹に染みるったらない。
「おー。アイス買って帰ったのは覚えてるんだが、バニラと抹茶、どっち食ったかすら覚えてない」
「わたくしが抹茶をいただきましたよ」
「マジか。俺、抹茶アイス好きなのにな」
「酔~っちゃ~ったよ~って仰られてましたよ」
「うわ、酔っちゃったよ出てたか」
「それ、レアなセリフなんですか?」
だいぶ酔ったときにしか言わないセリフを口にしていたようだ。記憶を無くすぐらいだから、おかしくはないか。
「……記憶を無くされていたのなら、勿体ないですね」
「なんだよそれ……。何があったんだよ」
「それは……ヒミツです、ご主人様☆」
菜摘は人差し指を立てながらウィンクした。キャラじゃない。
「うわっなっちゃんが出てきた」
「うわってなんですか、うわって」
お茶漬けを食べ終える。水と食べ物とでだいぶ楽になった。自分ひとりならここまでしなかっただろう。メイドがいてくれてこそだ。
「なぁ、メイド」
「どうしました?」
菜摘が首をかしげる。ここで礼を言うのはどうだろうか。恥ずかしいし、なんだか違う気もする。
「……昼飯、何にするよ」
「今お茶漬けを召し上がられましたのに。気分としてはうどんですかね」
「じゃあ後で行くか」
礼を言うのは、また違う機会にしよう。
贅沢言わないから酔った次の日の朝に梨をむいてくれるメイドさんが欲しい。