「では原点に戻りましょう。お帰りなさいませ、ご主人様」
遅番は22時に終わる。後班への申し送りを済ませ、作業日誌を書いて、着替えてから自転車に。会社から自宅までは自転車で30分。帰ってくるのはいつも23時を過ぎてしまう。
春斗が住んでいるアパートのベランダに人影が見える。手すりにもたれている。おおかた、煙草でも吸っているのだろう。部屋は203号室だろうか。
春斗の部屋だ。となると、煙草を吸っているのは。
その人影は、春斗を見つけたのか、気さくに片手をあげた。春斗はため息をつきながら、自転車を駐輪場に停める。
部屋の扉を開けると、そこにはメイドがいた。
「お帰りなさいませ、貴方様」
押しかけてきた野良メイド、秋月菜摘。手元には携帯灰皿。予想通り、煙草を吸っていたのは彼女のようだ。
「だからなぁ、ベランダで煙草吸うなよ。『メイドがタバコ吸ってるwww』ってSNSに上げられたらどうすんだよ」
「いいじゃないですか。バズりますよ」
「俺と関わりないところでバズられても困るだけだよ」
「ではわたくしはどこで煙草を吸えばよろしいのでしょう? 軒先でしょうか?」
「それはそれでご近所さんに変な噂が立ちそうだな……。いいよ、ベランダで」
変な噂なら、もう立っているかもしれない。メイドが部屋に出入りしているのは確実に見られているだろうから。
「っていうか、なんだよあの仕草。街中で知り合いと出会ったおっさんみたいなリアクション」
「よっ、貴方様」
「貴方様の前につける言葉じゃねぇよそれ」
携帯と財布の入ったボディバッグを置いて、シャワーを浴びに行く。
シャワーを浴びて、部屋着に着替える。一息ついた。
「貴方様、お食事の準備ができていますよ」
「マジか。気が利くな」
菜摘が出してきたのは、先日買い置きしていたカップラーメンだった。
「お湯を入れてから1分ほどが経っております」
「うん、まぁ、準備は準備だけど」
メイドが出してくる食事ではないと思うのだが、深夜なのでこんなものでいいか。
「こちら、お召し上がりになられる前にお入れくださいませ」
カップラーメンの蓋の上には後入れスープが乗っている。
「せめて付属物は全部入れてから出して」
「貴方様のシャワーがあと2分長ければ、後入れスープを入れていたかもしれません」
「そいつは残念だ」
麺は固めが好みなので、1分後にラーメンを食べる。特売品とは思えない美味さだ。
「うまいな、このラーメン」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてるのはラーメンのメーカーだよ」
「わたくしも貢献していますよ」
「どこにだ」
「適切なお湯の温度とか」
「それはケトルの仕事だ」
「適切なお湯の量とか」
「それはメーカーの仕事だ」
ラーメンを食べた後、水を飲んで一息つく。とりあえずテレビを点けて、適当なバラエティ番組に合わせる。
「メイドは晩飯、どうしたんだ?」
「同じラーメンをいただきました。卵を入れると美味しかったですよ」
「自分だけいいのを食べやがって」
ラーメンを食べ終える。菜摘が残っていたスープを台所に流し、割り箸を捨てた。
それからは特に会話もなく、二人ともスマートフォンを触る。
すると、バラエティ番組にメイド喫茶のメイドが映った。
「お。メイドのお仲間だぞ」
「あれはビジネスメイドですよ。誇り高き野良メイドとは別の生き物です」
「まぁビジネスだろうけど。っていうか野良メイドは誇り高いのかよ」
メイド喫茶特有の、媚び媚びな仕草と声。確かに菜摘とは別の生き物のようだ。
「ああいう子は家に帰ったら煙草吸いながらレモンサワー飲んでますよ」
「お前じゃねぇかそれ」
メイド喫茶のメイドなんか、そういうものなのだろうけど。
「そういえば、メイドは『ご主人様』って言わないな」
「言ってほしいのですか?」
「そういうわけじゃないけど。なんで『貴方様』なんだろうと思ってな」
メイドにしては変わった呼び方だと思う。
「このメイドが星の数ほどいる世の中、埋もれないためにはキャラ付けをと思いまして」
「いい心がけだが、呼び方が普通でもだいぶキャラ立ってると思うぞ」
押しかけメイドで煙草を吸って私服はジャージ。メイドっぽくはないと思う。
「あら、褒めてくださいました。では何か、別の呼び方を考えてみましょうか」
「別に大喜利しなくても貴方様なら貴方様でいいんだけどな」
「親分と呼ばせてくれやせんか」
「メイドじゃなくて子分じゃねぇか」
「兄貴と呼ばせてくだせぇ」
「弟。いや舎弟」
「殿と呼ばせてくだされ」
「メイド侍とかキャラ付けが迷子だよ」
菜摘に突っ込むのもだいぶ慣れてきた。菜摘のボケに突っ込んでいると、彼女は結構機嫌を良くしてくれる。悪い気はしない。
「では原点に戻りましょう。お帰りなさいませ、ご主人様」
原点に戻ったと思ったら、一瞬、耳を疑うほどの、物凄いアニメ声がした。目つきの悪い菜摘には似合わない声。
「どこから出たんだその声」
「ここですよ、ご主人様~」
媚びた仕草で、喉を指さす菜摘。似合わないうえに、なんだかイラっとさせてくれる。彼女のSNS上のキャラはこういう感じなのだろう。
「見習いメイドなっちゃんはそういうキャラなんだな……」
「なっちゃんは死にました」
菜摘の声が戻った。先程までの媚び媚びなメイドとは落差が大きい。
「それはどうして。そこそこフォロワーいたんじゃないのか?」
「灰皿が写って、煙草バレからの炎上しましたので」
「しょうもない炎上だな……」
「炎上は冗談ですよ。ただ単に飽きました」
「まぁ、今炎上されて住所特定されると困るしな。飽きてくれてよかった」
「では明日から投稿を再開しましょう」
「どうしてそうなる」
そんな中身のない、他愛のない会話をしながら、夜は更けていくのだった。
煙草吸うメイドさんは好きです。