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「……昨日のことは、忘れてください」

 早番シフトの最終日。時刻は15時前で、定時が近い。昼休憩が終わってからの2時間、視線は時計と行ったり来たりしていた。

『残業予定はございませんでしたよね。でしたら早く帰ってきてくださいね。約束ですよ』

 昨日、寝る前に菜摘から言われたことだ。そして、昼休憩のタイミングでもメッセージが入ってきていた。彼女が念押ししてくる理由はなんとなくわかる。

 なぜなら、今日は春斗の誕生日だからだ。菜摘は何も言わなかったが、何かしらの準備をしているのはわかっていた。聞くのも野暮なので、そのままにしているが。

「春さん、ご安全に。お誕生日おめでとうございます」

 後班との交代時間が来た。後輩が運転室に入ってくると同時に誕生日を祝ってくる。

「ああ、ありがとさん」

「これ、誕プレっす」

 後輩が渡してきたのは缶コーヒーだ。遠慮なく受け取っておく。

「なんだ、たてちゃんの誕生日か。おめでとう」

 後輩に続いて後班の班長も入ってきた。後班は三人班なのだが、どうやら一人休みのようだ。

「ありがとうございます。まぁ、この年になれば特別嬉しいわけでもないすけど」

「俺からの誕生日プレゼントは……そうだな、ウチは一人休みだから、食交を頼もうか」

「勘弁してくださいよ。誕生日ぐらい定時でいいでしょ」

「冗談だよ、冗談」

 後班の班長が申し送り帳を開いたとき。

 設備から凄い音がした。


 春斗は死んだ目で帰宅した。時刻はすでに21時前。交替間際に数年に一度レベルのトラブルが起き、その処置がひと段落したのが20時頃。後班の食事休憩のタイミングで夜勤者が早出してきてくれたので、彼らと交替する形で春斗達も帰宅の目途が立ったのだった。後班の班長は気を利かせて「誕生日だから帰っていい」と言ってくれたのだが、このトラブルはさすがに見過ごせなかった。

 帰る前に携帯電話を確認すると、菜摘からのメッセージと電話着信が何件も入っていた。会社から出る前に、今から帰る、と返信したのだが、それへの返信は無し。なんだか嫌な予感がする。

 部屋の照明は点いている。悪いと思いながらも、おそるおそる玄関を開ける。

「……ただいま」

 部屋の中は静かだった。リビングには菜摘が背を向けて座っている。

 連絡無しに遅くなってしまった。まずは謝ろう。

「……ごめん」

 謝罪を言いきらないうちに、菜摘はこちらに向き直る。顔が赤い。眼も赤い。

 彼女は立ち上がると、こちらの胸倉を掴んできた。酒の臭いがする。菜摘とは何度か晩酌をしているが、ここまで顔を赤くしたのを見るのは初めてだ。どうやらかなり飲んでいたらしい。現に、テーブルには空き缶が何本も並んでいる。

「遅いッ!!!」

「それは本当に悪かった! ごめんなさい!!」

 約束を破ったのはこちらなのだ。言い訳のしようがない。

「どうせ突発でしょうけど! それならそれで! 一言くださいよ! 心配……したんですよ!」

 トラブル発生直後、打ち合わせで席を外していた班長と管理職が駆け付け、現場確認とミーティング。そしてトラブル処置。休憩は水分補給程度。メッセージを打つ暇どころか、携帯を持つ時間すらもなかった。

 だが、それは言い訳だ。

「早く帰るって約束したのに、全然連絡なくて……。貴方様は約束を破る人でもないのに……。何かあったのかなって、怪我でもされたのかなって……!!」

 菜摘は感情が昂っているのか、声が震えている。彼女がここまで感情的になっているのも初めてだ。本当に悪いことをした気になる。

「……何を言っても言い訳になるよ。いらない心配かけさせて、ごめん。言うこと聞くから、落ち着いてくれ」

「……なんでも?」

 そこまでは言っていないが、大差はない。頷きで返答する。

「……じゃあ」

 少しの沈黙の後、菜摘が口を開いた。

「……好き、って、言ってください」

 考えもしなかった反応に面食らう。

「……へ?」

「いいから!!」

 菜摘の顔は真剣だ。冗談を言っている顔ではない。先程のこともあるし、応えるしかあるまい。

「……好きだよ」

「……もう一回」

「好きだ」

「えへ……えへへ……」

 菜摘の顔がほころぶ。見たことのない表情。思わずどきりとする。

「もう一回、言ってください」

「好きだよ。大好きだ」

 不思議と違和感はなかった。嫌な気持ちもなかった。自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出てくる。

「名前も、呼んでください」

「……菜摘、菜摘のことが、好きだよ」

「えへへ……。私も、ですよ」

 菜摘はとろけたような顔で、こちらの胸に顔を埋めてきた。

「おい、風呂入ってないから臭いって」

 汗と油の混じった臭い。自分でもわかる。

「働いた臭いです。……えへへ……」

 菜摘は嬉しそうに甘えてくる。酒の力とはいえ、彼女がこんな姿を見せるとは。

「今ので……許してあげます。お疲れ様、です……」

 酔いが回ってきたのか、菜摘の声は眠たそうだ。彼女の背中を撫でてやる。

 菜摘の腕から力が抜けたのがわかった。どうやら寝てしまったようだ。ゆっくりと、リビングに寝かせる。ひとまずはシャワーを浴びよう。


 シャワーを浴びた後、テーブルを見てみると書き置きが置いてあった。

『キッチンにお食事を準備しています。わたくしは先に食べました』

 キッチンに向かってみると、皿の上に唐揚げが載っていた。皿にかかったラップには付箋が貼ってある。

『冷蔵庫にサラダと、鍋にスープがあります。ケーキも用意しています』

 唐揚げとスープを温め、米をよそう。寝息を立てている菜摘の横で食事をとる。

 美味しい。

 だが、それよりも。今の気持ちは。

 食器を流しに持って行き、洗いながら、菜摘への気持ちを整理する。

 今の言葉、そこに嘘はあったのだろうか。言われるがままだったのだろうか。

 ……いや。

 寝息を立てている菜摘に布団を掛け、寝室に向かうのだった。


 疲れもあって早く寝たためか、翌朝はいつもよりも早く目が覚めた。寝室を出て、リビングに向かう。そこには、菜摘が背中を見せて座っていた。

「おはようさん」

 声をかけるも、菜摘は振り返らない。昨日のことを引きずっているのかもしれない。

「改めて……昨日はごめんな」

「……その」

 菜摘は背を向けたまま口を開く。

「昨日のこと……覚えていらっしゃいますか?」

 昨日のこと。謝ったあとの、菜摘の姿。

「ああ。覚えてるよ」

 見たことのない、とろけたような笑顔。

「……昨日のことは、忘れてください」

 菜摘がこちらに向き直る。頬は紅く、膨らんでいる。

「忘れてって、何をだ?」

「とぼけないでください。わたくし、その……変なことを、言ってしまいましたので……」

「変なこと? 変なことだったのか、昨日のは?」

「う、そ、その……」

 菜摘の前に座って、目を合わせる。

「俺は、変なことを言ったつもりはないよ。正気だった。正気で言った。菜摘のことが好きだ、ってな」

 菜摘は顔を真っ赤にしながらうつむいた。今までの彼女からは想像もつかない姿。

「……」

「……」

 少しの間、沈黙が場を包む。

「……実は」

 菜摘が顔を上げた。

「野良メイド、やめようって思っていたんです。それを言おうと、思ってて」

 菜摘の言葉を待つ。

「誕生日プレゼントに、メイドを差し上げます、と、言おうと」

 菜摘は伏し目がちだった目を上げた。

「改めて、言います。誕生日プレゼントは……メイド、です」

「ああ、遠慮なく受け取るよ。……ありがとう」

 こうして、一人の野良メイドは、ただのメイドとなったのだった。

贅沢言わないから酔った勢いで迫られた翌日に「昨日のことは忘れてください」と言われたい。


完結しました。↑が書きたかっただけ。オチに悩んだ。

キャラの苗字はとある地方の小学校の名前から、下の名前は春夏秋冬から。一人だけ例外がいます。

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― 新着の感想 ―
全体的には淡々と、でも二人の間に信頼関係とかできているのは感じられて、最後の展開も若干急な印象はありながら受け入れられました。野良じゃなくなったメイドさんの幸せをお祈りします。 菜摘の過去の主人とか、…
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