「わたくし、野良メイドの秋月菜摘と申します」
早く帰るべきだった。
彼は風呂で寝落ちしかけていたが、どうにか意識を取り戻し、風呂上がりに髪を乾かしていた。暗めの茶髪。長さは短い。中肉中背で、少し人相が悪い以外は特徴の薄い男だ。
立石春斗。工場勤務。いわゆるブルーカラー。今日は夜勤開けである。今の時刻は12時。7時に仕事が終わったのに、帰ってきたのはついさっきだ。
後班と交代した後、すぐに帰ればよかったものの、現場に残って後班の後輩と喋っていたら、いつしか上司への愚痴大会となり、つい長々と話し込んでしまった。1時間ほどして、春斗が帰り支度を始めたときに、作動油液面低下の警報が鳴り、ラインが止まった。目の前でラインが止まった以上、知らん顔して帰るわけにはいかず、原因の特定と応急修理を手伝っていたらこんな時間に。後班の班長からはジュース代を、後輩からは食事をおごる約束を取り付けたが、割に合わない。いくら今日は休みとはいえ、さすがに疲れた。
身体から油の臭いはしない。身体を3回ほど洗った甲斐があった。春斗は冷蔵庫から500ml缶と350ml缶のレモンサワーを取り出し、寝る前の晩酌と洒落込む。グラスに氷を入れて、つまみのポテトチップスも準備。
すると、玄関のチャイムが鳴った。通販、頼んでたっけ。眠さと疲れで注意力が散漫になっていたせいか、ろくに確認せずに扉を開ける。アポなしの訪問者なんか、ろくな奴じゃないというのに。
扉を開けた先には、マスクを着けたメイドがいた。
「……」
「……」
そっと扉を閉める。
なんだ今の。
頭が混乱しているが、もう一度扉を開ける。そこにはやはり、マスクを着けたメイドがいた。黒髪のショートヘアに、黒くて露出の少ない、ありふれたメイド服を着ている。手元には小さな鞄。三白眼気味で、目つきはあまり良くない。不細工か不細工じゃないかだと不細工じゃないが、可愛いか可愛くないかだと可愛くない。絶妙な外見である。
そっと扉を閉めようとしたら、メイドが体をねじ込んでくる。
「おい待て、何してんだ!?」
「お話だけ……お話だけでも。メイドとお話できるチャンスですよ」
「メイドが押し売りとかどんな時代だよ! それに、メイドと話す夢はない!」
「こんな真っ昼間に玄関先でメイドと言い争いとか、ご近所さんに変な噂が立ちますよ」
「それもそうだが……」
やはり、疲れと眠気で判断力が鈍っているらしい。春斗がドアノブを掴んでいる力が緩んだ瞬間、メイドは玄関に滑り込んできた。
「……立ち話ですか?」
「……怖い人とか後ろにいないよな?」
「失礼な。わたくし、一匹狼ですし、丸腰です。お店の人ではございません」
メイドは丸腰アピールなのか、スカートの裾をぱたぱたと動かす。そして、鞄を開けて見せた。中身は着替えのようだ。
メイドは靴を脱ぎ始めている。上がり込む気満々である。
春斗はため息をつきつつ、メイドを部屋に通した―ここは1LDKのアパートである―。夜勤をしていたので片付ける間もなく、少々散らかっているが、構わないだろう。招かざる客なわけだし。
メイドとちゃぶ台を挟んで座る。普通に生きていたら遭遇しないような光景だ。
「改めまして、わたくし、野良メイドの秋月菜摘と申します」
「秋なのか夏なのか」
「その夏じゃありません。菜っ葉を摘むと書きます」
「ああそっちか。それで、秋月さんは何の用なんだ?」
「はい。わたくし、野良メイドを生業としております」
聞いたことのない単語が出てきた。
「なんだよ、野良メイドって」
「日本には様々な問題がございます。住環境の変化。少子高齢化。格差の拡大。産業の空洞化。草食系男子の増加。食糧自給率の低下。相次ぐ孤独死。貿易摩擦。これらの問題により、野良メイドは増える一方なのです」
最初のうちはともかく、後半はメイドと関連のなさそうな事象の羅列だ。
「なんか関係のありそうな問題じゃなかったけどなぁ」
「野良メイド以外にも問題は多発しております」
「だから野良メイドってなんなんだ」
「例えば、野良お姉さん」
「俺の話を聞いてくれ」
「夜更かしをしていると、『勉強お疲れ様』と、夜食におにぎりとお味噌汁を持ってきてくれます。おにぎりの具は昆布です」
「優しいな。いい夜食だ」
「追いかけると消えます」
「妖怪か何かか」
「野良妹」
「いや、野良メイドは」
「夜中に『一緒におトイレついてきて』と、恥ずかしそうにしながら部屋に入ってきます」
「どんな妹像なんだよ」
「追いかけると消えます」
「妖怪じゃねぇか」
「野良幼馴染」
「それ、全然馴染んでないだろ」
「遅刻しないように、毎朝起こしに来てくれます。昔は一緒に登校していましたが、最近は恥ずかしがって別々に登校します。学校だとあんまり絡みがありません」
「そんな幼馴染は物語の中にしか存在しねぇぞ」
「追いかけると消えます」
「妖怪じゃねぇか」
「野良ママ」
「ママが野良は良くないぞ」
「お話コース、お手伝いコース、甘えんぼコースがあります。60分18000円から。ホテル代込み」
「風俗じゃねぇか」
「そこで、野良メイドは無料なんですよ」
「それはありがたいな」
「追いかけると消えます」
「妖怪じゃねぇか」
もうええわ。そう言いそうになるのをぐっとこらえる。乗ってしまえば菜摘の思うつぼだ。
「……あなた、なかなかノリがいいですね」
「夜勤明けテンションだよ……」
なんだかどっと疲れた。酔ってしまったほうが楽な気がするので、レモンサワーの500ml缶を開ける。ストロングなやつである。
「あ、注ぎますよ」
菜摘はこちらの答えを聞かずに、レモンサワーをグラスに注いだ。
「なんかこう……現実味ねぇな……」
マスクを着けたメイドがレモンサワーを注いでいる。あまりにも非日常的な光景だ。
すると、菜摘は腰を上げ、右手を振りかぶった。夢かどうかを確認するために引っぱたこうというのだろうか。思わず身構える。
菜摘はそのまま、ぺち、と、春斗の頬に手をそっと当てた。
「……何のつもりだ?」
「夢かどうかを確認して頂こうと」
「いや、全然痛くないから」
「出会って10分程度で頬を引っぱたくのはコンプライアンス的にどうかと。わたくしも暴力女呼ばわりされたくありませんし」
「出会って3分程度で部屋に上がり込むのもコンプライアンス的にどうかと思うけどな……」
「ひょっとして、女の子に頬を引っぱたかれるご趣味が?」
「ない」
はずである。自覚はない。とりあえずレモンサワーを飲む。
「さて、野良メイド。それは、主人を求めてさまよい歩く悲しい生き物なのです」
菜摘の声のトーンが落ちる。その雰囲気で、春斗の背筋も自然と伸びた。
「前の主人はいい人でした。ですが、彼女ができたとたんに、わたくしを捨てたのです」
「……そりゃ、彼女いるのに部屋にメイドがいたらまずいよな」
「わたくしのように可憐な少女と一緒だと、間違いを起こしかねないということはわかります」
「あー、もう一度言ってくれ」
可憐な少女は自分から可憐とか言わない。
「わたくしのように可憐な少女と一緒だと、間違いを起こしかねないということはわかります」
「……あー、もう一度言ってくれ」
可憐な少女は自分から可憐とか言わない。
「わたくしのように可憐な少女と一緒だと、間違いを起こしかねないということはわかります」
「…………あー、もう一度言ってくれ」
可憐な少女は自分から可憐とか言わない。
「わたくしのような可憐な少女と一緒だと、間違いを起こしかねないということはわかります」
「……俺の負けだ」
無限ループは怖い。菜摘は可憐な少女。そういうことにしておこう。
「ですが、仮にも同じ釜のご飯をつついた仲ですよ。彼女ができたからもういらない、と、まるで古雑誌みたいに捨てるのはどうかと思いますよ!」
菜摘はストロングじゃないレモンサワーの350ml缶を開け、一気に飲み干す。可憐な少女がやることではない。
「……そいつは御愁傷様だ。確かにポイと放り捨てるのは良くない。せめて次の働き先の斡旋をすべきだよな」
「わたくしはそれで野良メイドとなったのです。そして、新たな主人を求めておりましたら、あなたに出会いました」
「出会ったっていうか、押し売りだけどな」
「先程、死んだ表情で自転車をこがれている姿を見て、これはメイドを欲している。癒しを求めている。そう思った次第でございます」
ついさっきのことだ。どうやら隙を見せてしまったらしい。別にメイドや癒しを求めていた訳ではないが、一人暮らしが長く、人恋しくなっていたことは事実だ。
「なんでしたらメイドっぽいこともしましょうか? はい、あーん」
菜摘はポテトチップスをつまんで、こちらに差し出してくる。
「……メイドカフェかよ」
「あら、いりませんか?」
「遠慮しとく」
手を振って返答。菜摘はそのままポテトチップスを食べた。
「……照れました?」
否定はしない。無視してレモンサワーを飲む。グラスが空になったのを見た菜摘は、レモンサワーを注いだ。グラスの7分ほどで缶の中身はなくなった。それもすぐに飲み干す。さすがに眠くなってきた。
「……まぁ、野良メイドを続けるかどうか、人生について考える時期なんだろ」
「それはここで、ですか?」
「俺はもう寝るから、起きるまでの間、な」
眠くなってきたし、ここはこれで話を収めよう。菜摘の境遇も不憫ではある。1日程度は世話してもいいだろう。一応、貴重品は全てベッドの横の鍵のかかる引き出しに入れている。財布にもたいした金額は入っていないし、寝室に置いておけば大丈夫か。
寝落ちしているときに見た夢、というのもありえるし。
「一つお聞きしますが、メイドがいて面倒なことにはなりませんか?」
「あー、そこは大丈夫だ。皆まで言わないでくれ」
「そうですか。わたくしは察しが良いので、これ以上は触れません」
察しがいいとか、自分で言う台詞ではないが。
「じゃあ、寝るわ」
「はい。おやすみなさいませ、貴方様」
春斗は寝室に入ってドアを閉めると、ベッドに倒れ込んだ。
睡魔はすぐにやってきた。