忘れられない眼
その日の帰り、社内は不気味なほど無音だった。
空調の音も、電気の音も、息をひそめるかのように静まり返っている。30分程前に社員は全員バタバタと帰っていった。金曜のアフター、何の予定も入っていなかった彼女は残った少しばかりの仕事を請け負ったのだった。
誰かがじっとこちらを伺っている。何故か、そんな気がした。
窓の方に目をやる。まだ19時前だ。空は厚い雲に覆われどんよりとしているがまだ暗くはない。向こうに見えるいつもと変わらぬ風景に、少しほっとする。
落ち着かない。
仕事を終えると、耐えきれないというふうに勢いよく立ち上がった。デスクの上を素早く片付けると、いつもなら忘れ物はないか確認するがその日はデスクの上に一瞬目を走らせただけだった。
セキュリティーカードをかざすと、静かな廊下を早足で歩いてロッカーへ行き、荷物を掴む。
気のせいよ――。
自分にそう言い聞かせ、エレベーターはいくらか落ち着いて待った。
会社を出ると、彼女はずっと目を伏せて歩く。まるで、誰とも目を合わせないように。視界に何も入らないように。
鴉が飛び立つーー。彼女の頭上では鴉が数羽、鳴いていた。
暗く、厚い雲が上空を覆っている。
彼女は梅雨が明けたのかさえ知らない。だが、空を眺め雨は降らないだろうと踏んでいた。
露出した肌を撫でていく風が気持ち悪い。耳に入る音が気持ち悪い。視界に入るものが気持ち悪い。
気がつくと、先程まで煩く鳴いていた蟬が、ピタリと鳴くのをやめた。世界の音が一瞬、消失する。
彼女は歩を早める。呼吸が早くなって、鼓動が早くなるのが分かる。少しの時間、瞼を落とすと、長く息を吐く。動悸が収まらない。
気持ちが悪い。
まだ、見られている気がした。
後ろから誰かがついてきている気がする。
違う。これはきっと自分の足音だ。そう言い聞かせる。
目の前で踏切の警報音が、けたたましく鳴り、遮断機のトラ色の棒が下がる。既に日は落ち、夜になっていた。
早く駅の中に入りたかった。
しばらく経って電車が通り過ぎる。湿気を含んだ風圧が、体を重く包みこむ。
駅のホームには、人がまばらにしかいなかった。今日は皆帰るのが早いのかもしれない。
電車が来るまで、20分以上ある。会社を出る前は尿意があったことをふと思い出し、トイレに行くことにした。
トイレは汚くも、綺麗でもなかった。用を足し、手を洗うと息を吐き出し、安堵したように鏡を見て髪の毛を整える。蛍光灯のせいか、自分の顔が青白く見えていつもの自分の顔ではない気がした。
水を流す音がする。
気がつかなかったが、誰かが入っていたらしい。ドアが閉まっている。顔を合わせないよう、そそくさとトイレを後にした。
柱を背にし、ホームで電車を待つ。
……ドンッ……
何かがぶつかるような鈍い音がした。
何の音?
彼女は辺りを見渡すが、音の正体は不明だ。
スマホを取り出し、メッセージのチェックを始める。
……どんっ……どんっ……どんっ……
先程から音がやまない。耳に残る音が不快で、暑いというのにも関わらず腕には鳥肌が立っていた。なんだか、近くから音がしている気がする。
確認するメールがなくなり、意味もなく広告メールを眺める。が、気を紛らわすことが出来るものではなかった。
左側の視界の端に誰かが立つ。
……どんっ……どんっ……
――は?
顔を上げた。
視界の端で、誰かが線路に飛び込んで行った気がしたのだ。恐ろしくて確認出来ない……。しかし、本当に飛び込んだのであれば電車が来る前であれば助けられるかもしれない。
ホームで電車を待っている人達を見る。誰も騒いでおらず、気がついていないようだった。
気のせいか?……いや、でも確かに――
もし近くにいる自分しか気がついていないのであれば、自分が助けるべきだ。
恐る恐る線路を覗き込もうと、1歩、2歩、踏み出す。真下まで見えない。もう1歩、2歩……。
線路の全貌を見渡すと、ほっと胸をなで降ろした。
気のせいだった。
線路には誰も落ちていなかった。
元々立っていた場所に戻ろうと、後ろを振り向くと、女の顔が飛び込んできた。
……どんっ……
背後で鈍い音がする。
彼女は体を傾け、後ずさりするとよろけてその場に尻餅をついた。
……どんっ……どんっ……どんっ……
金縛りなのだろうか。彼女は目を見開いて、指1本でさえ動かすことが出来ずに、目の前で起こっていることをただ見つめていた。
その鈍い音は、目の前で女が何度も何度も線路に飛び込んでいる音だったのだ――。
電車が通ることを告げるメロディが流れ、ホームで止まらない特急電車が入って来た。
女はまた、線路に飛び込んだ。
……ドンッ……メキッ……カラカラカラ――
電車は異常を察知して緊急停止を始めた。ホームはざわざわし始める。電車はほとんどホームを出てから停車し、人々は誰かが飛び込んだと思い込んで線路を覗き込み集まり始めた。
彼女ははじかれたように立ち上がると、その喧騒に紛れ駅から走って逃げ出す。すぐにタクシーを捕まえ、自宅の地名を告げた。
彼女は未だに、肩まである無造作な髪型に白い顔をした女と――眼が合ってしまったことを忘れられないのだと言う。その女の眼は生気が無く、とても黒かったそうだ。