20.わたくしは、何かを間違ったのかもしれない。
絵に描いたような王子様。それが、初めて彼に会った時に受けた印象だった。とは言っても、物心つく前に一度、会ったことがあるらしいけれど。優しく美しく、聡明な王子様。このダズィル王国の未来を担うに相応しい、次代の国王。まだ成人前のために立太子はしていないが、王子は彼一人であり、周囲の反応も良く、すでに王太子であると認識されている。キースリール・ダズィルとは、そんな人物だ。
夜会や舞踏会など、顔を合わせる度にリーリアもまた挨拶を交わし、その人柄にこの国の将来は安泰だと思ったものだ。もちろん、今もそう思っている。
だが、しかし。
……何というか、少し、変わった方なのよね……。
ツォルン公爵家の玄関ホール。聖石の管理のために聖殿へと出かけているクラキオに代わり、来訪者を迎えるためにそこを訪れたリーリアは、今まさに開かれた扉の向こうに現れた彼を見て、深く礼をしながらそんなことを思った。
かつかつと広いホールに響く足音。キースリールの他に、彼の従者や護衛などもいるのだろう、複数の気配。「ようこそいらっしゃいました」と声をかけたリーリアは、足音が止まった後も返ってくる言葉がないことに、やはりか、という思いが強くなる。おそるおそる、失礼にならない程度に顔だけを僅かに上げて。
「キースリール殿下」と、思わず小さく呟いた。僅かに抗議めいた色の混じった声音で。
「あの、わたくしに祈りを捧げるのはやめてくださいませ……」
リーリアの視線の先では、目を閉じ、胸に手を当てたキースリールが深々と頭を下げている光景があった。ざわついているのは、リーリアの背後に控えている、ツォルン公爵邸の使用人たちのみ。キースリールの傍に控えている者たちにしても、リーリアの侍女たちにしても、いつものことだとそれを見守るばかりである。
キースリールはリーリアの言葉にやっとのことでその紫色の目を開くと、頭を上げ、「ごきげんよう、アイル嬢」と、当たり前の挨拶に切り替えた。
「すまない。君の姿を見ると、どうしても……。ああ、皆、顔を上げてくれ。君が動き、その美しい顔に笑みを浮かべ、私を見ていることこそ至高の喜び。祈りを捧げ、その声を聞いて初めて、私は私の存在を認められた気になる。どうか諦めて、受け入れてほしい」
切々と訴えかけてくるキースリールに、頬が引きつりそうになるのを必死に耐えながら、礼の形を解く。
毎回こうなのだ。彼はリーリアの姿を目にすると、この世界を創り出したとされる二柱の最高神、大地の神アルドと時の神ワクトを崇めるように、祈りを捧げる。そうすることが当たり前とでもいうように。
わたくしは覚えていないけれど、殿下がわたくしと初めて会った時、殿下は涙を流されたとかなんとか……。それからは毎回こうして祈りの礼を取られるのよね……。
リーリアの存在が社交界に出てすぐに話題になったのも、社交界デビューしたその日に、彼が人目も気にせずに祈りの礼を取ったからである。だからせめて、人目のあるところではやめてくれるよう言っているのだが。
全く功を奏していないどころか、近頃はリーリアの諦めの方が勝ってきている始末である。
「殿下、このような場でお話もなんですから、客間の方へどうぞ」
彼の言葉に答えようがなく、リーリアはそそくさと客間へと誘導する。「ありがとう、アイル嬢」と、これでもかという程に嬉しそうな笑みを向けられたが、愛想笑いを返すことしか出来なかった。
狐の月といえば九番目の月であり、秋も半ばに差し掛かろうかというところ。ツォルン公爵邸の客間は日当たりの良い位置にあり、まだ昼前だというのにぽかぽかと暖かいが、窓を開けたらひやりとした風が吹き込むことだろう。
応接用の長椅子に向かい合って腰かけ、運ばれてきた紅茶に手を伸ばすキースリールの姿はやはり、優美で優雅。クラキオとはまた違った種類の麗しさである。
「ここでの暮らしはどうだ? アイル嬢。心穏やかに過ごせているか?」
「ご心配頂き、ありがとうございます。殿下。クラキオ様やこの屋敷の皆様の心遣いにより、つつがなく過ごさせて頂いておりますわ」
問いかけに、すらすらと思ったままをリーリアは答えた。何の含みもない返答。一瞬、キースリールの形の良い眉が跳ねた気がしたが、気のせいだろうか。瞬きの間に、「それは良かった」と言って、彼はその口許に上品な笑みを浮かべた。
「ツォルン公爵の屋敷だからな。彼ならば、君に無体を働くこともないだろう。その点だけは安心している」
よく知る人物を語るように、キースリールはそう言ってまた紅茶を口にする。この国の第一王子とこの地方を治める魔公である。何かしらの交流もあるのだろうと思い、リーリアは「そうですわね」とだけ応えた。
「ところで、殿下。こちらへは、どのようなご用件で?」
あまりにも急な訪問だったため、自分に関わる何らかの問題でも起きたのだろうかと思い、リーリアは問いかける。それこそ、今現在自分が置かれている、『花嫁』の立場として、何かあったのだろうか、と。
真面目な表情で見つめるリーリアに対し、キースリールはふわりと笑った。
「君の現状の視察と、少し聞いてみたかった事、頼み事があって来た。私が生まれてから、初めての『花嫁』だからな。本当はもう少し早い段階で様子見に来たかったのだが、時間が取れず、急な訪問になってしまった」
「申し訳ない」と続けてキースリールは苦笑いを浮かべる。首を横に振り、「お気になさらないでくださいませ」と告げれば、彼はほっとしたように息を吐き「そう言ってくれると助かる」と呟いていた。
「現状の視察との事ですが、どういたしましょうか? 本日は月初めでまだ聖石が揃っておりませんため、わたくしの仕事をお見せする事も出来ませんし……」
「そうだったな。……では、そちらはまた次回訪問させてもらうとして、今日のところは、私の質問に答えてくれるか? 大した疑問じゃないんだが、どうしても聞いてみたくてな」
訊ねてくるキースリールに、リーリアは「わたくしに分かる事であれば、なんなりと」と言葉を返す。
彼はこくりと頷き、「では聞こう」と口を開いた。
「式典で行われた聖力調査の時の事だが、……何故、聖杯に聖力が流れるのを、途中で止めた?」
「…………え?」
ぴたりと、リーリアは動きを止めた。今彼は、何と言った。
……何で、それを。
「お、お言葉の意味が分かりかねるのですが……」
淑女の笑みを消さぬまま、そう答える。キースリールはその細い顎に指を添えると、「ふむ、そうだな」と呟いた。
「正確に言おう。聖力調査式典の際、君の時だけ聖杯の水の増え方がおかしかった。一気に聖杯の淵まで水が満ち、しかしその後はぴくりともしない。通常ならば、聖力が聖杯に流れ込むと同時に、徐々に増えていくはず。他の聖女たちもそうだっただろう。だから、思ったんだ。……君は、意図的に聖力を止めたのではないか、と」
「……………」
じっと、紫色の目がこちらを覗う。リーリアの挙動におかしなところがないかと、探るように。
緊張感に視線さえも動かすことが出来ぬまま、リーリアは必死に考えた。彼の言っていることは筋道が通っていて、誤魔化しようがなくて。
しかしこの問いに是と答えた時、自分はどうなるのだろう。やはり、彼の婚約者となるのだろうか。ここから、このツォルン公爵家から、クラキオの元から立ち去ることになるのだろうか。それだけは避けたかった。まだ、もう少し。
言葉を失うリーリアに、キースリールははっと目を瞠った後、焦ったような顔になる。申し訳なさそうに眉を下げ、「ああ、すまないアイル嬢」と、彼は口早に言った。
「君を困らせたいわけじゃないんだ。ただ、気になっただけだから。一瞬であれだけの聖力を示すことが出来た君だ。あのまま聖力を聖杯に注ぎ込めば、これまで見たこともない程の聖力を秘めていると証明されたんじゃないかと私は考えている。……そうなると、困ることでもあったのか? それとも、ただ反射的に聖力を注ぐことをやめてしまったのか?」
「良ければ、教えてくれないだろうか」と言うキースリールは、先程とは打って変わって、まるでこちらの機嫌を覗うような視線をこちらに向けていて。
怯えた子犬のようなその仕種に知らずくすりと笑ってしまっていた。彼は一国の王子であり、自分は一介の貴族令嬢でしかない。そのように気を遣う必要もないのに。どのように誤魔化すべきかと焦る気持ちが、少しだけ落ち着いた気がした。
そうね……。話を合わせるためにも、クラキオ様に言った話をするのが一番かしら。
今この場にはいないが、もしキースリールとクラキオが顔を合わせ、自分の話題にならないとも限らないから。別々の嘘をつくのは明らかに悪手である。
さて、どのように話をすれば良いかと考えながら、リーリアは口を開いた。
「殿下の仰る通りですわ。わたくしはあの時、意図的に聖杯から手を放して、聖力が流れ込むのを止めました。あのまま聖力を注いでしまえば、わたくしの中に聖力の強さが示されてしまって……、わたくしの存在を、王族の方々が放っておいてはくれないだろうと思ったのですわ」
「まあ、そうだろうな。君ほどの聖力があれば、父上が放っておくはずがない。どうにかして、その聖力を王家に取り込もうとするはず。……つまり、私との婚姻が一番早いと」
すらすらと言うキースリールに、やはり彼もそう思うのかと頷いた。だからこそ、大丈夫だと思った。クラキオが誤解し、自分がそれに乗じてついた嘘を、彼に話しても。
「わたくし、好きな方がおりますの」
胸に手を当て、俯き加減に瞼を伏せて、リーリアはそう呟いた。
「ですが、もし聖力の強さが認められ、殿下との婚約がまとまってしまえば、わたくしは彼と結ばれることが出来なくなる……。だから……」
聖力を注ぐのをやめたのですわ、と続けようとして顔を上げたリーリアは、ぴたりとその動きを止めた。キースリールが、真っ直ぐにこちらを見ていたから。驚愕に、その紫色の瞳をこれでもかと開いて。
「…………ア様に、好きな、方が……?」
「え……?」
呆然と呟かれた言葉に、ぱちりと瞬きをする。そこまで驚かれるようなことだろうかと思ったから。
確かにまだ社交界デビューしたばかりだし、好きな相手が出来るにしては早すぎるのかもしれないけれど……。
クラキオが納得してくれたから、特に思案することなく言ったわけだが。確かに、侯爵家の令嬢ともあろうものが、好きな相手がいる、というのもおかしな話かもしれない。貴族の令嬢と言うのは、いずれ自らを育んでくれた家のために、親の決めた相手と結婚するのが当然なのだから。
何と夢見がちな娘かと、呆れられてしまっただろうか。そう思い、「キースリール殿下?」と、何も言わない彼に声をかける。
はっと、彼は目を見開き、軽く首を横に振った。「失礼。取り乱した」と、呟いた。
「その、つまり、好きな者がいるから、私と婚約したくなくて、聖力が強いことを示さなかった、ということ、か?」
「そうなりますわね」
頷きながら答えれば、キースリールは長椅子の背もたれに背をゆっくりと預け、その綺麗な顔を両手で覆った。まるで何かを嘆くようなその姿に、しかし彼らしくない無作法な様子に、「殿下……?」と思わず声をかける。返事が返って来ず、彼の背後に控えていた護衛の騎士と、戸惑いながら視線を合わせて。
「……誰だ」と、唐突にキースリールが両手の隙間から呟いた。
「君の好きだというその男は、誰だ」
「キースリール殿下……? 急に、どうされ……」
「誰だと、聞いている」
いつもの優しい彼の声音とは違う、低く冷たい声。ゆっくりと姿勢を戻し、顔を覆っていた両手を膝の上に戻した彼の目は、真っ直ぐにリーリアを見ていた。問い詰めるように、鋭い色を宿しながら。
「君を誘惑したその男は誰だ。どこにいる。ナルティレイル伯爵家か。あの家の子息が君に色目を使っていたな。それともサイルネス侯爵か。あの男はまだ若く、結婚もしていなかったな」
つらつらと、キースリールが告げる名前は、以前リーリアに声をかけて来た青年たちだった。話が盛り上がり、珍しく長く話をしていた者たち。なぜ彼らと話をしていたことを知っているのだろうと驚きを覚えた時だった。「それとも」と、彼は静かに続けた。
「ツォルン公爵か」
その名を呟いた彼は、先程までの冷たい表情を消し去り、悲しそうな、悔しそうな顔をしていた。
何でそんな顔をするのだろう。彼は。何で。
そんなに、泣きそうな顔をするの。
あまりに苦しそうなその表情に、やはり嘘など告げるべきではなかったのではないかと思い始めた時だった。
がちゃりと、部屋の扉が開いたのは。
コンテスト応募用のお話を慌てて書いてたら、こっちの方が締切早かったというオチ。
少し間空きましてすみません。
今月中にもう少し更新頑張らねば。




