19.わたくしは、あまりに急だと思うの。
狐の月に入って、一日目。昨日まで屋敷にあったはずの聖石は次々に運び出され、作業室の中は随分閑散としていた。
それぞれの地域に必要な数の聖石を荷馬車に積み込み、クラキオの部下である魔族たちが護衛として周囲を囲んでから、目的地へと向かうらしい。ツォルン公爵邸はダズィル王国のほぼ中心部にある王都にあるため、王都の魔物たちが聖石を受け取るのは本日であろうが、東西南北それぞれの端の地域まで聖石が届くには、十日程かかるということだった。
午前の早い内は、そういった配布用の聖石に関することで潰れてしまう。そして新たに集められた聖石は、配布用の聖石が完全に屋敷から姿を消した後に届けられる手筈となっていた。万が一にも、加工済みの聖石の中に未加工の聖石が紛れ込まないようにとの配慮である。
そういうわけで、今のところ仕事のないリーリアは、自らが造り出し、溜め込んでいた聖石を作業台に並べていた。数にして、一袋分の八十個。緑の聖石一個分である。
聖石が届いてからはいつも通り仕事をしないといけないから、決して無理はしないようにしないと……。
また皆に心配をかけてしまってはいけないから。
思いながら、しかし本日リーリアは、とても機嫌が良かった。金の薔薇と名高い花のかんばせが笑みの形に綻んでいる。完全にとはいかないが、ここ一月以上頭を悩ませていた問題が一つ、解決出来そうなのだから。
クラキオ様の魔力の枯渇をどうやって防げば良いのかってずっと考えていたけれど……。あの色付きの聖石を渡しておけば、魔力が減ったと思ったら口にしてくださると思うから、完全に枯渇してしまうということにはならないはず。
つまり、魔力の枯渇が原因で暴走する、という事象が解決されたも同じことなのである。
もちろん、クラキオが元々身に蓄えている魔力の量を考えれば、完璧に魔力が戻るということはないだろうから、油断は出来ないわけだが。まだ溶け合わせることの出来る数の限界に達したとは思えないので、更に実験を続けていこうとリーリアは考えていた。
最初は十で、次は二十、その次は四十で、八十。きりが良い上に、ある程度の規則性があるみたいなのよね……。どうしてその数なのかも、色なのかも分からないけれど。
数の理由は分からないが、倍数に達した時に色が変わっているのは間違いようがないだろう。おそらく次に色が変わるのは百六十個目ではないだろうかと考えながら、リーリアは作業台に並べていた聖石を二つ、つまみ上げた。そしてそれを、ものの数秒で溶け合わせてしまう。
赤を一つ、橙を一つ、黄を一つ、そして緑を一つ。昨日の内に計百五十個の聖石を溶け合わせていたため、この作業も随分と慣れたものだった。
すぐに実験に入りたいところだけれど、まずは昨日、クラキオ様に頼まれたことを終わらせないと。そのためにこの実験を始めたんだから。
昨日の夕方、クラキオに言われた通り仮眠を取った後に、リーリアは一日ぶりに夕食の席についた。いつもならば、自分の側には沢山の料理が並べられており、クラキオの前にはメイン料理一品と大量の聖石が置かれていたのだが。
リーリアの元で四十個分の聖石を口にしていたクラキオは、すでに一日分の聖石を食べ終えていたようで、彼の前にも、リーリアと同じ料理が並んでいたのである。思わず、満面の笑みを浮かべてしまっていた。食卓に料理が並ぶという当たり前の光景に、あんなに感動するとはリーリア自身も思わなかった。
そんなリーリアを見て、『俺よりも、君の方が嬉しそうだね』と、クラキオは面白そうに笑っていて。『クラキオ様は嬉しくないのですか?』と問いかければ、彼は少し首を傾げて、『そうだね……』と少し考えるような表情で呟いていた。
『俺からすると、嬉しいというよりは不思議な感覚、かな。生まれた時から、あの量の聖石を口にするのが当たり前だったから。口に運ぶのが億劫ではあったけれど、味や食感は慣れたものだし。……こうして皆が食べている料理をきちんと食べれるのが、すごくおかしな気分なんだ』
困ったように笑いながら、彼は『食べようか』と続けていた。
後でナールに聞いた話だが、クラキオは今まで、メインの料理にすら手を付けないこともあったそうで。昨夜は初めて料理を全て完食しており、料理長が泣いて喜んでいたという。まさかそんな人にまで喜ばれるとは思わなかったが、嬉しい限りだ。
そしてそんな夕食の際に、彼に頼まれたのだ。『もちろん、無理にとは言わないけど』と前置きをして。
『少量でも構わないから、あの赤い聖石を毎日作ってもらうことって出来るかな? 橙とか黄とか、贅沢は言わない。さっきも言ったけれど、忙しい時間の合間に聖石を口に運ぶのが億劫でね。何しろ数が多いから。今でさえ花嫁として仕事をこなしてくれている君に、こんなことを頼むのは筋が違うとは思うんだけど……』
『一つ二つでも構わないから、お願いできないかな?』と言う彼は、申し訳なさそうにその形の良い眉を下げていて。
こちらの方が申し訳なくなるような表情に、そんなに恐縮しなくてもと、僅かに慌てながら頷いたのだった。
……そもそも、そのつもりで実験を始めたのだし、これからも作る予定だったものね。
二つ返事で応じたリーリアに、クラキオはとても嬉しそうで。無邪気に喜んでいることが全面に現れた笑みは眩しく、端正で色っぽいとしか言いようがない容貌なのに可愛いと思ってしまった。きゅんと胸が高鳴ったのは、以前彼の顔を間近で見た時とは違い、小動物などに対する庇護欲的な何かであろう。それだけでやる気が出るというものである。
あっという間に一つ目の赤い聖石を作りだしたリーリアは、それを脇に置いてまた新たに白い聖石を手に取る。クラキオが一日に口にする聖石の数は二百程度。赤い聖石を二十個作れば問題ないはずだ。
……とは言っても、毎日その数の赤い聖石を作っていたら、今まで溜めて来た聖石だけだといずれ足りなくなるわね。緑の聖石を作り、更に溶け合わせていくのは難しいかもしれないわ。
今現在、リーリアの衣裳部屋には、およそ八十個の聖石が入った袋が二十袋以上置かれている。聖石の数にして、千九百程度だろう。随分と数があるように思えるが、一日に赤の聖石を二十作るとすれば、一気に二百個の聖石が減ることになる。単純に、二十日分もないのだ。
これからも聖力に余裕が有りそうな日は、少しずつ溜めていた方が無難だろうと、一人思った。
午前も半ばの十時に差し掛かった頃。リーリアが黙々と赤の聖石を作っている間、部屋には少しずつ、未加工の聖石が運び込まれ始めていた。魔族の使用人たちはリーリアを見る度に恐縮そうに身体を縮めるので、ここにいなかった方が良かったかもしれないと少しだけ思う。今更だが。
未加工の聖石とは言っても、聖石の大きさにはある程度の指標があり、聖女たちの元には木で作られた見本がそれぞれ配られている。そのため、加工の必要のない聖石が全体の六割から七割を占めていた。現在リーリアの背後では、運び込まれた聖石をリーリアの侍女たちが囲んで、加工が必要か否か仕分けしている状態である。
手元にあった八十個の白い聖石の内、半分の四十個が、すでに四個の赤の聖石に形を変えていた。時間がある限り、作業をこなしておいた方が良いだろうと、手慣れた動作で聖石を溶け合わせようと、白い聖石を二つ手に取る。
「リーリア様」という低い声が、作業室の扉の方から聞こえた。
「作業中に申し訳ありません。少しよろしいでしょうか?」
扉の方を見れば、眼鏡をかけた、茶髪に赤みの強い金の目を持つクラキオの侍従の青年、レンディオがそこに立っていた。冷ややかさを感じさせる怜悧に整った容貌には、珍しく焦りの色が見える。
「もちろん。どうされました?」と言葉を返せば、彼は何やら手紙のような物を持って、リーリアの元へと歩み寄って来た。「先程、早馬で届きまして」と、彼はその手紙をリーリアに差し出す。宛名に書かれた名前は、リーリア・アイル。手触りといい厚みといい、上質なその封筒に、一体どこの貴族からの手紙だろうかと差出人を確認して。
ぎょっと、目を瞠った。
「これ、王家の……第一王子殿下の紋章、では……?」
封に使われた蝋に押されていたのは、第一王子個人に与えられている紋章。盾の中に薔薇と角のある馬が描かれている珍しい意匠なので間違いようがない。そしてそれはつまり、この手紙が第一王子、キースリールからの物であると示している。
レンディオは焦ったような表情をそのままに、こくりと頷いた。
「届けた者は、なるべく早く確認して欲しいと伝えるよう、命じられていたようでして。慌ててお持ちした次第です」
「なるべく早く……? 早馬だから、そうなのだろうけれど……。一体、何なのかしら」
というか、一体何故キースリールから早馬で手紙が来るのだろうか。しかもリーリア個人宛に。そう、首を捻りながら手紙を開封して、書かれた文字をすらすらと読みながら、リーリアはぴたりと動きを止めた。
「ナール」と、背後で作業を続けていた侍女に声をかける。ナールはリーリアの声にさっと歩み寄ると、「何でしょうか?」と訊ねてきた。
「これ、わたくしの見間違いでなければ、……偶然時間が出来たから、早馬と同時に馬車で城を出て、ツォルン公爵邸に向かっている、と書いていないかしら」
「失礼いたします。……はい。どうやらそのようです」
「…………」
「…………」
部屋の中がしんと静まり返る。侍女たちも作業の手が止まってしまったようで、ただ時計の秒針がかちかちと音を立てていて。
「……皆」と、リーリアはどこか呆然とした声を上げた。
「さ、作業は一端中止して……。大急ぎで支度を……!」
屋敷の一角は、リーリアであっても分かるほど、一気に騒々しくなった。
今回は短めです。
次回はリーリア視点、その次がキースリールかな。
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