寝ぼけた兄は一人残される
パタパタと屋敷をかける侍女や執事の声を聞き、インガルはゆっくりと目を醒ました。何度か瞬きを繰り返し、徐々に焦点を合わせる。
最近長男としてテンペスト家に迎えられ好きに使えと与えられた自室には、ベッドに本棚、勉強机にローテーブルなど必要最低限の家具が揃えられていた。もちろんどれもが最高級で今自分が使っているベッドもシーツもなにからなにまで一級品だ。初めて横になったときはまるで雲の上にいるかと思ったほど。
今も暖かく包み込んでくれるベッドからはなかなか離れがたく、むずがるように枕に顔を押し付ける姿はもしここに妹がいれば鼻血は免れないことだろう。
ふとコンコン、とノックの音がして扉が開いた。
「インガル様、おはようございます。気持ちのいい朝ですよ」
中に入ってきたのは世話係の侍女。40過ぎの優しいおばさん侍女は、にっこりと微笑みかける。
「・・・んー、・・・おはようございます」
優しいベッドの誘惑に負けそうになりながらもなんとか起き上がるインガルを、侍女は眩しそうに見つめていた。
侍女はインガルが長男として本邸に来る前、別邸で保護されていた時からお世話をしていた人だった。初めて会った時は周りの全てが恐怖の対象でふるふると小刻みに震えており、心を許してもらうのに沢山の時間が必要だった。こうして専属の世話係となったのも、そのとき長い長い時間をかけて作った信頼関係の賜物であり、この美貌の君の世話係という役得を与えられたのもそのとき根気強くお世話とカウンセリングをしたおかげである。
「今日は午前中の政治学のお勉強のあとはお休みです。お勉強や剣の訓練など慣れない環境でお疲れでしょうから午後はゆっくり休んでくださいね」
未だ完全覚醒とは言えない状態のインガルのお召し替えを手伝いつつ、今日の予定を伝える。
テンペスト公爵家の長男、後継として受け入れられたからにはそれなりに勉強もしなければならない。容姿だけでなく頭も身体能力も恵まれた彼は周囲の期待以上の成績を出していた。
今にも落ちそうな瞼と必死に格闘している彼のほほえましい姿からは想像できないが、才能に満ち溢れた可愛らしい少年に自分の子でもないのに胸を張って自慢したい気分だ。
「そういえば、今日からお嬢様が謁見に王都へ向かわれるそうですね」
ふと朝から騒がしかった他の侍女たちの姿を思い出して、少年の周りの唯一の同年代であり新しくできた妹の話を出すと、先程まで眠そうだった彼はビクッと過剰に反応した。どうやら完全に覚醒したようで、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせつつ頭を働かせ、昨日両親からされた話を思い出している。
「婚約者、に会いに行かれたんですよね」
少し寂しそうな顔は、一人ここに残されることに対してか、それとも別の理由か。それなりに付き合いが長い侍女は少年の少女に対する仄かな恋心に勘づいているようで、微笑ましいような口惜しいようななんとも歯痒い思いだった。彼の想い人である彼女の、妹にしては少々過激すぎる少年への態度を見ると妹の方も並々ならぬ想いを抱いているらしいが、だからといって二人の恋路の手助けはさすがに出来ない。
結ばれるには障害が多すぎるのだ。
「もう出発されたんですか?」
「はい、朝早くから発たれて明日の夜遅くに帰ってこられる予定でございます」
「大分大急ぎですね」
少年も王都と今住んでいる本邸がどのくらい離れているかは知っている。そこまで急いでいる原因が自分だとはつゆ知らず、三人とも大変だなぁ、とのんびり考えていた。
身嗜みを整え終わると、朝食を食べに食堂へ行く。家族4人で使うには大きすぎるテーブルの自分の席に座ると、すぐに朝食が目の前に出てきた。使用人は使用人専用のフロアが本邸と別にありそこに使用人専用の食堂もあるため、両親と妹が出かけてしまえば食事は一人だ。少し前までは一人娘の従者としての教育を受けていたため、別邸では侍女や執事と一緒に食事をしていたので一人の食事は少し寂しかった。
(今、旦那様たちはどこにいるんだろうなぁ)
今は父親だが少し前までは旦那様と呼んでいたので、未だにお父様と呼ぶのは慣れない。それでも、この本邸に来てからは自分が早くこの環境に慣れるように家族全員で食事をとるようにしてくれていた。
捨て子で身寄りのない自分が、家族として迎えられ当たり前のように共に食事をする生活。なにもかもを準備してもらい、将来は国でも随一の権力を誇る公爵家の領主としての道が約束されている。
そんな今の恵まれた環境がとても嬉しく有難くて、同じくらい申し訳なかった。
インガルは、本当の父親と母親の顔を知らない。
彼は物心ついたころから教会の孤児院で育てられた捨て子だった。
孤児院の前の森に、目も開いていない乳児の彼は「ごめんなさい」と書かれた紙と共に捨てられていたのだ。捨てた人物はすぐそこが孤児院だと分かって置き去ったのだろう。
孤児院でシスター達によって育てられたインガルは、幼い頃から常人離れした美しさと才能を持ち合わせており、どこかの貴族の隠し子だろうと思われた。しかし身の上がわかるものは何もなく、たとえ本当の両親が分かったとしても捨てられている時点で訳ありなので引き取ってくれるとは思えない。彼自身も捨てた両親に会いたいと思わなかった。
孤児院の生活は、どちらかといえば幸せだった。たまに意地悪な同い年の男の子から泣かされることもあるが、シスターや神父様は優しくて同じ境遇のお姉さんたちはなにかと面倒を見てくれる。理不尽なこともあったがそれなりに楽しんでいた。
転機はインガルが5歳になった年の頃。見知らぬ貴族がインガルを引き取った。そのときには彼自身も自分が人目を引く見た目だと自覚はあったのだが、引き取った派手好きの貴族の女性はインガルの容姿をひたすらに褒めちぎった。
そして、まるで着せ替え人形のように様々な服装をさせ着飾っては自分の茶会へインガルを連れていく。大勢の見ず知らずの女性に囲まれたインガルは緊張で固まっていたが、そんな彼を無視して茶会は盛り上がった。まあ可愛い、なんて美しい、と言葉は飛び交うが、インガルはなんの反応も返さないしそんなインガルを気遣う人間もいない。そこの貴族の女性たちにとってインガルはただの鑑賞物であり、引き取った貴族の女性にとって彼はペットか装飾品の類だったのだ。
生活に必要なものは全て準備されていたが、毎日のように飾り立てられては緊張の強いられる場所でただ黙って座っている。求められているのは見た目だけで、徐々に自分にかけられる容姿への賛美も苦痛になっていった。
そんな生活が1ヶ月続いたある日、突然茶会に現れた屈強な男たちに捕まってある屋敷に閉じ込められる。そこはインガルを引き取った貴族のライバルの女性の屋敷で、毎度美しいインガルを引き連れる相手が憎くて彼を誘拐しようと画策したようだ。見事その誘拐は成功し今度は茶会どころか外にも出してもらえず、部屋に軟禁される生活を送ることになった。
貴族の見栄の張り合いとドロドロした陰鬱な中身を知ったインガルはどんどんと貴族に苦手意識を感じるようになった。美しさを保つために食事や服、衛生用品などは最高級のものを支給されるが、本などの娯楽はなく毎日のように聞かされる貴族女性のライバルに対する悪口に、精神はどんどん疲弊していった。
そしてさらに1ヶ月経った頃、普段鍵を閉められている扉が突然蹴破られ再びの誘拐。今度は縦にも横にも大きな髪の薄い男性貴族だった。
その男性貴族は誘拐される前の茶会の際に偶然インガルを目にし一目惚れ、いつか自分のものにしようと画作していた。しかし準備が整う前に他の貴族に誘拐され、インガルの居場所を必死に探してようやく見つけ誘拐したとのことだった。
彼は今までで一番異常だった。鼻息は常に荒く、インガルを舐めまわすように見つめる。インガルは誘拐されてから手枷はもちろん足に枷をつけられベッドの柵に繋がれた。ベッドから一定の距離までしか移動することは出来ず、食事も排泄も誰かがいないとなにもできない。
男性貴族は誘拐して直後「ちょっと後片付けをしてからちゃんと相手してあげるからね」と不気味な笑みを浮かべて出ていき、一度しか会っていない。それからはほとんど無表情な若い男性たち数人がかわるがわる面倒を見てくれた。その面倒を見てくれる男の人たちの首輪が一体どんな意味を持っているのかはまだ小さい彼には分からなかったが、ともかくここにいるのは危険だと危険信号がなる。しかし、物理的にも手も足も出ない状況に、彼は神父様が言っていたようにひたすら祈るしかなかった。
その祈りが通じて今の父親に助けられるまで、彼はずっと恐怖に震えるしかなかったのだ。
今までの人生を振り返ると、今の生活が奇跡か幻のようにしか思えない。あまりにも恵まれすぎていて、騙されているような気分だった。
公爵家に来る前も十分にまともな人間としての生活をさせてもらえて、家族のように親しく接してくれるおばさんやおじさんたちがいた。今は、助けてくれた恩人が本当の家族になってくれている。
(僕は、旦那様、いやお父様に何を返せるだろうか)
なくしたものは全て与えてくれた。
救われてから人間不信に陥ってなかなか心を開けなくても、ずっと寄り添って待ってくれた。一人娘が嫁に行ってしまうという理由はあるにしろ、家族にしてくれて後の後継として最高水準の教育まで受けている。
その期待に応えたい。
でも、期待を裏切ってしまったら。
(・・・また、捨てられるのかな)
育った環境ゆえに自分に自信を持てず、与えられるものに引け目を感じてしまうインガル。
彼は一人残された屋敷で、暗い思考にずぶずぶと浸っていた。
彼の天使が帰ってくる、その日まで。