妹は今日も元気に鼻血を出す
テンペスト公爵家は、王家に古くから仕えた由緒ある貴族である。王国内随一の権力を誇り、領民からの支持も厚い。テンペストが途絶えた時王国の前途も途絶える、と言わしめたほど影響力は計り知れなかった。
近年は強くなりすぎた力を分散させるため、持ちすぎた権力と仕事を他の公爵家や伯爵家に振り分けているらしいが、ライナは愛妻家な父親が妻会いたさに他人に仕事を押し付けているだけだと睨んでいる。あながち間違いでもないだろう。
ともかく、テンペスト家はとても由緒ある貴族でありその一人娘であるライナは公爵令嬢、間違いなくリッチでゴージャスなお嬢様なのである。
そして、そんなリッチでゴージャスなスペシャルお嬢様は、兄の食事風景を鼻を押さえながら柱越しに見つめていた。
ライナとインガルが初めて出会ったその日、ライナは鼻血を止めることができず、とてつもない出血量に心配した両親に部屋で休むよう言われてしまった。
思わず、ちかよらないで!、と拒絶してから何も会話することは叶わずそのまま部屋に戻ってしまった彼女は、それから兄となったインガルの前に姿を見せられずにいる。
もちろん、彼女も話したい。ちかよらないで、と拒絶してしまったことを謝り、突然鼻血を流すという失態の弁解をしたい。
しかし、それは彼女にとって極めて難題であった。
初めて会ったその時、お互いに視線が交わったその時、彼女は自分の中の血が沸き立つのを感じた。
兄と紹介された少年は、自分とそれほど変わらない背丈を小さくしながら、怯えたように潤んだ瑠璃紺の瞳をこちらに向ける。上目遣いに見つめられた瞳はあまりにもいじらしく、少しずつ赤く染る頬は食べたくなるくらい可愛らしい。赤くぽてっとした唇、シルバーブロンドの髪は星が散ったように輝いてみえ、血管が透けてみえそうな白い肌はお前は絹か?シルクか?と問いかけたくなるくらいなめらかできめ細かい。首筋にふと目をやりかけてすぐに戻した。ちらりと見えた首筋はほんのり朱に染まり、肩口まで伸ばされた髪の隙間からちらちら見えるうなじは少年独特の危うさがあって危険だ。とてつもなく危険である。
緊張したように握られている手は柔らかそうで、小刻みに震えている身体は小動物が如き愛くるしさがある。どこをとっても可愛い、美しいの言葉しかでない彼女の頭では、彼の背中に天使の羽と天使の輪が当然のごとく生えていた。後ろには花畑、眩いばかりの光に照らされて神々しささえ感じる。しかしその神々しさの節々に、赤く染まった頬や小さく動く血管を見て、生命の神秘に触れる。もはや彼が美の化身であり生命の神秘。哲学だ。神が創りたもうた最高傑作に違いない。
一瞬のうちにそこまで考えてしまうほどに正気を失った彼女の前で、挨拶をしようと少年が小さく口を開く。
彼女はその様子をまるでスローモーションを見ているがごとく凝視していた。
引き結ばれていた口がゆっくりと開かれ、彼の吐息が漏れる。今まで彼の口の中で循環していたであろう息が、ゆっくりと口が開かれることで漏れ出て周りの空気に混ざっていく。その吐息はこの場所の空気に混ざり、私の中にも入っていくんだ。彼の、天使の、甘やかな吐息が、空気に混ざり巡って私の身体に入っていく。循環していく。
さらに開かれた口の隙間から見える、ピンク色をした、可愛らしい舌が見えたところで、彼女は限界を迎えた。
可愛すぎる。美しすぎる。愛おしすぎる。尊すぎる。
・・・・・・無理!!!
彼女は最早彼と話すことはおろか、近付くことすら難しくなっていた。
何度か両親も面会の時間を持たせようとしたのだが、その度に原因不明の鼻血と熱を出して数分と持たない。両親は今まで何事にも無表情無関心だった娘がなぜ兄に対してだけこうなるのか謎でしかなかったが、どうやら悪い感情でもなさそうだし仕方ないかと無理に引き合せるのは止めた。
しかし、少女は諦めてはいなかった。
彼とお話したい。せめて、一目見たい。拝観料はいくらでも払います、と言わんばかりにこそこそと遠目から兄を窺っている。
最初は数十メートル離れた場所でも興奮して鼻血を出していたが、徐々に鼻血を出さずに見られる距離は近付いており時間も増えた。しかし、それでも直接会うのは刺激が強すぎる。
だから今日も、両親と兄が食事している中、こそこそと柱に隠れて兄を見つめているのであった。
「ああ・・・、可愛い愛しい可愛い、ほっぺたぷにぷに、はむはむして、かわいい、なにあれ、いっしょうけんめいお肉切って、ッ、にがてなお野菜、なみだめになりながら、たべてる、かわいい、いとしい、なにあれ天使?」
ハアハアと不穏な息を漏らしながら頬を赤らめている彼女は、傍から見ればただの変態である。
両親は呆れているがもうどうしようもないだろうと放置だ。兄であり妹の興奮対象であるインガル自身は存在に気付いてはいながらも、なぜそうしているのかは理解していなかった。
むしろ、インガルはとんでもない勘違いをしていた。
出会ったあの日、一目惚れしたあの日に、鼻血を出した彼女に拒絶され、そのまま部屋に帰ってしまった妹。それから何度か会おうとしたが、その度に隠れられ、逃げられ、時には鼻血を出して倒れられた。
最早話すことどころか会うことすら叶わない。
彼はとうとう、彼女に生理的に嫌われてしまったのだ、という結論を出した。
一度たりとも同じ食事の場を取ったことはない。両親となった2人にそれとなく聞いてみても、苦い顔で気にするな、と言われてしまう。
その苦い顔には彼の考えているのとは全く正反対の意味があったのだが、出会って数日しか経っていない彼には流石に分かるはずもなかった。
初めて、恋した瞬間に、失恋。
相手のあまりの拒絶に希望を持つことも不可能だ。
そもそも兄妹だし希望など最初からないのだが、それでも少しくらい、兄妹としてだけでも仲良くなれれば。
それすらも難しい現実に涙を飲みつつ、苦手な葉野菜を食む。独特の苦味に、うっとなりちらりと舌を出した瞬間、どこかからブシュッと音が聞こえた。
後に兄の様子を見ていた少女はこう語る。
ベロチラは反則です、と。