5.エリカ・ヒエマリスは他の誰でもない婚約者に嫉妬する
ヒエマリス侯爵家は愛に飢えている。
幼いエリカに、母である侯爵夫人は言った。
『あ、い?』
『そう。愛しているという、愛。この場合、あなたやクロードを愛しているという愛ではなくて、配偶者を得ると最終的に求めるものかしら』
『お母様は?』
『・・・ちょっと無理かしらねぇ』
悲しそうに微笑んだ母は、翌月から緑豊かで空気が澄んでいる静かな領地に戻った。
元々体の弱い体質で、まだ幼いエリカと息子のクロードの為に無理をしながら王都で過ごしていた。しかし彼女の容態は悪くなり、エリカも家庭教師を付けられることになったため、療養することが決まった。
それ以来、エリカとクロードは春と秋に領地に戻っている。
侯爵当主である父親が子供たちの前で母の話題を出すことはなく、王都での屋敷で跡取りであるクロードはまだしもエリカが父親と会うことは滅多に無い。時間が重なってたまに一緒に夕食をとることがあるが、その時にも2人が話すことはない。
「だって、羨ましいじゃないですか。セシル様だけ、知りたいと思っていたものを知ることができる機会があったなんて」
「・・・・・・」
「私と、セシル様が、それぞれ知りたいと思っていたことですよ?なのに!セシル様だけ!セシル様だけが!!温かな愛情とやらを手に入れる機会があったなんて許せない!!」
本人は至って真面目な怒りなのだろうが、セシルにとってはどこか遠い目をして呆れているこの心の内を表に出したい気分だ。
そんなことをしたら彼女の火に油を注ぐようなものなので神妙な顔はしているけれども。
「私は、・・・僕はアーネット伯爵令嬢とは何も無いし、一瞬たりとも心奪われたことも無いんだけど」
「そんなことはわかってます。いいんです、わからないのが当然のことですから知ってほしくもないのでムカつくから」
珍しく口調が乱れてきている。
エリカは常に冷静沈着で心の内を表に出すことはない。それは元々の本人の性質と、やはり王妃教育で身に染み付いた強固なものだ。
その本人の性質というのが、自分自身の思いを他人に知られたくないというものだ。だから基本的には薄く微笑んでいるし、時には無表情でただその場に居る。
完璧無血の女、と一部の者に密かに名付けられていることは本人さえも知らないだろう。
「私、セシル様と絶対に婚約破棄しますから」
「それは・・・ぜひ撤回してもらいたい」
エリカは冷めた瞳で一瞥してから立ち上がった。
「丁重にお断りさせていただきます」
セシルを残し、エリカは侯爵家の客間から出ていった。
「お兄さん、面倒な時間を引き起こしてくれましたね」
久しぶりに会ったクロードからの、心なしか呆れられている目からさっと逸らす。
エリカの弟であり、次期ヒエマリス侯爵であるクロードとセシルが会うのは数年ぶりのことだ。
前回はエリカとのお茶会だったが、クロードがいつの間にか紛れ込んでいたのだ。姉の背中に隠れて無表情にセシルを見てきたクロードは帰り際に、姉を頼みます、と小さく声をかけた。
それ以来の、まともな対面がまさか今この時になるとはセシルは思いもしなかった。
「お兄さんと呼ばれたということは、君には認められているということかな?」
「ええ。考え直そうかなとは思ったのですが、やはり姉と上手くやっていけるのはセシル様だけでしたから」
「そう、かな?」
「はい。お兄さんも、結婚相手は姉しか考えていないでしょう」
しばらく互いに目を合わせて、二人とも肩を竦めて力を抜く。
エリカから絶対に婚約を破棄すると宣言された数日後。
クロードの客人として侯爵家に招かれたセシルは、既に客間にいた彼の向かいに座った。
婚約者のエリカ、いや、元婚約者もいるはずだがさすがに出迎えてはくれないらしい。当たり前といえば当たり前ではあるが。
「でも彼女にはそのつもりは無いみたいなんだ」
「別にお二人がどんな過程を選ぼうとご自由ですけど、あまりこの時間を長引かせないでくださいね。まあ、僕が家を継ぐまでに笑い話にしていただければ構いません」
「面倒事が面倒なだけだろう」
「当たり前でしょう。たかだか数分で終わる話に猶予をあげただけ感謝してください」
それはそうだ。
これはセシルの怠慢とエリカの意固地のせいで起こっていることであり、本来ならここまで話が大きくなることではないのだ。エリカはともかく、セシルはそう思っている。
エリカは完璧な令嬢で、皆がそう思っているようにとても思慮深い。思慮深いからこそ、自分で導き出した答えには大きな自信を持っている。
エリカはセシルのことを理解している。
だから、セシルがアーネット伯爵家の養女に恋慕なんてましてや毛ほどの興味も抱いていないこともわかっているのだ。
恋情に突き動かされて、愚かな判断なんてするはずもない。
どんな事情があれ、セシルが婚約破棄を了承しないこともわかっている。
だから、彼女が宣言したところで自分が話を進めない限りこの話はもう終わりだと思っていたのに。
「まさか本当に婚約を解消するとは想定外だったな・・・」
彼女がそんな我が儘を言い出してもヒエマリス侯爵は止めると思っていた。
まさかその日のうちに公爵家に話がくるとも思わなかった。両親に呼び出され、伝えられた時には事の素早さに唖然としてしまった。
「まあ、それこそ内々にというお話のうえに両家だけの秘密ですけどね。しかも期限付きの婚約解消ですし」
ため息をついたクロードは本当に心から呆れているようだ。
開口一番お兄さんと呼ばれたのだから彼の中ではセシルを兄と認めているし、これからも変わるつもりがないからそう呼んだはずだ。そんな彼からしてみれば、確かに今のセシルとエリカな不毛な時間は"面倒な時間"でしかないだろう。
「原因はわかっているんだ。第一王子の婚約者殿が余計な入れ知恵をしてくれたらしい」
「アレンドュシー公爵令嬢がですか?そう言えば姉とは懇意にされていましたね」
「今回に限っては、はた迷惑と言いたいけれどね」
あからさまな刺のある言い方にクロードは義理の兄の怒りを感じ取った。
なんとなくわかってはいたけれど、勝敗はとっくの昔についていたようだ。いや、ただ姉が鈍いだけで頭でっかちも相まって単純な話が肥大化しただけだ。
どちらが負けか。クロードとしても早々に話をつけてもらいたい。
「姉は庭にいるそうですよ」
「いや、今日は会わない」
はあ?と聞き返しそうになったクロードはセシルの顔を見て、言葉を飲み込んだ。
普段あまり表情を変えないセシルが、とても愉しそうに庭へと目を向けていたからだ。
「代わりにこれを渡してくれ。大通りの人気店で今朝私が買ったんだ。そこからここまで持って歩いてきたから少し枯れてしまっているだろうけど、どうか許してほしいな」
「・・・はーい」
「クロードは安心して家を継ぐといい。数日後には終わっているから」
これからのことを考えると、セシルはとても愉快で心が弾む。
頑固なエリカにどんな贈り物をしようか?大勢の人に見せて、彼女が怒りを顕にしてそうして呆れてものも言えないぐらいに噂を立てなくてはいけない。
セシルは、理想の家族が欲しいとこぼしたエリカの願いを叶えたいとあの時思った。そして同時に彼女に恋をして、彼女との家族を作ると決めたのだ。
なのに彼女は親しい友人の言葉に惑わされてセシルから距離を置こうとする。
互いが最高の相手だとわかっているのに。
最初にセシルの心を見誤ったのはエリカだ。しかも自分には滅多に接触しないくせに、アレンドュシー公爵令嬢とは密会を重ねるとは酷いものだと思う。
だから、エリカが珍しく感情を表したように、セシルも外に表すことにする。
セシル・エインズワースが毎日自らプレゼントを買いに行き、自らの足で歩いて婚約者であるエリカ・ヒエマリスに会いに行くほど溺愛しているという噂が世間に拡がったのは、彼等が婚約解消をした数日後のことである。