選択型お題「ルービックキューブ」
梅雨明けの暑い日に、ある少女と出逢った。
家から十分くらいにある公園。
めったに通らないけど、その日は何故か、公園を突っ切って帰ろうという気分になった。
すべり台もブランコも、通っていたころより少しさびれて見えた。それでも今でも、子供たちを楽しませてくれるのだ、素直に凄いと思える。
「……っ」
砂場の近くで、座り込んでいる女性がいる。あと数歩でさらさらの砂を踏みしめるというところで、一歩も歩けなくなった、という風だ。
苦しそうに見える。
「大丈夫? 苦しそうだけど」
心配になって、僕は彼女に声をかけた。
「だ……大丈夫。いつもの、ことだから」
荒く息を吐きながら、彼女は返事した。思ったよりしっかりした言葉だった。
「体、弱い? 一人みたいだけど……帰れる?」
「いいの、今来たばかりだし。それに、普通に歩くには支障はないんだから。ちょっと走って疲れただけなの、ありがとう」
顔を上げた彼女は、話した印象より幼く見えた。高校生くらいだろうか、さらさらの色素の薄い髪を、顎のあたりで切りそろえている。屈託なく笑う少女を見て、大丈夫そうだと判断した。
「ありがとうございます」
「いや、大丈夫なら……いいんだ」
改めてしっかりお礼を言われると、何もしてないから少しいたたまれない。育ちのいいお嬢さんだ。
「あの、今お時間ありますか?」
逆ナンパというやつだろうか。
「やだ、やましい意味じゃなく……ちょっと、話がしたいなと」
表情にあらわれていたようだ。
彼女は頬を赤らめて慌てている。……なんだか、初々しい。
正直なところ、こんなに純粋そうな女の子は僕の周りにはいなかった。それこそ平気で初対面の男を部屋に連れ込むような、夢のかけらもない女ばかりだ。
「あたし、スミレっていうの。漢字一文字で菫」
「俺は楓。漢字一文字で」
菫はふわりと花が開いたように笑った。つられて僕も笑う。
「綺麗な名前! 楓って、いいなあ」
「うん、気に入ってる」
母親が付けてくれたこの名前は、紅葉のように、魅せる人間になれ、という由来だと聞いた。魅せる人間になれているかは別にして、僕は女の子みたいだとからかわれようと、楓という名前を嫌だと思ったことはなかった。
「いつもここを通るの?」
「いや、今日はたまたま……気分で」
「……また、通る?」
少し不安げに聞かれ、僕には否と答える術はなかった。
「また、明日。同じ時間?」
僕の言葉を噛みしめるように聞き、菫は満面の笑顔になった。
なんだかわからないが、僕は菫にいたく気に入られたようだ。
「ありがとう、じゃあね!」
「走らないようにね」
菫の歩く後ろ姿を見送って、僕は帰路についた。少し、明日にわくわくしてることに気づいて、苦笑いをこぼす。
気に入ったのは、僕も同じだ。
「楓!」
ゆっくり歩きながら、僕の座っているベンチに菫が近づいてくる。
菫は、夏が似合う。ここで会うたびにそう思った。
「今日は、なに?」
「……バカにするから出さない」
「なんでよー、いつも古いじゃない」
家では暇でなにもすることがない(本は読み飽きた)、とぼやいていた菫に、僕は何かと暇つぶしの玩具を持ってきていた。
それはクロスワードだったり知恵の輪だったり、センスを疑うようなものばかりを渡して、それは酷い言われようだったが、それでも最後には菫はありがとう、と言って持って帰るのだ。
「……これ」
「なに、ルービックキューブ? ははは、ほんとはおじいちゃんなんじゃないの?」
「容赦ないな……俺の家にはこんなのしかないんだ」
まだくすくすと笑っている菫を見ないように、僕は目を伏せた。
「……妹が、好きだったんだ。よくそれで遊んでた」
ふと、菫が顔を上げたのがわかった。
「ズルしないように、絵とか描いてさ……笑うぜ、家の絵、描いてたんだ」
思い出すように僕は目を細める。
妹は、ルービックキューブが大好きだった。自分では戻せないくせに、必死にやっている姿は微笑ましかった。降参して持ってくる妹は、とても悔しそうに顔を歪めるのだ。僕がズルをしていないか確認するために、絵を描いた。家の横に棒のような人間が二人。"おかえり"と言っている絵だった。
「ちょうどスミレって名前だった。年もたぶん同じくらいだろうな」
「変わった子だね。……一緒に住んでないの?」
少し、考えた。会って間もない、一週間程度の女の子に、こんな話をするのは気が引けた。
けれど菫は、聞いてくれそうな気がしたんだ。
「……離婚して、その後すぐくらいかな。死んだ」
「………」
「家にはスミレの写真が無くて、……困るんだ」
菫は黙っていた。さすがに、きつかっただろう。バカだ。まだ二十歳にも満たないであろう女の子に、なんてことを話したんだ。どうして反応に困るような話を――。
「思い出すのはつらい?」
ふと、菫が問う。
「……いや、思い出したい。日が経つにつれて忘れるなんて、したくないんだ」
もう、顔なんて思い出せない。
スミレのものも、離婚したときに全部持って行かれたんだ。
「あたしを見たら、思い出せるんじゃない?」
「……へ?」
「ほら! 同じ菫だし、年も同じくらいでしょ? それに、あたしもルービックキューブ好きよ」
ぴったり! とはしゃぐ菫に、僕は感謝した。
もし妹が生きていたら、菫のような女の子になってくれたらいい、そう思いながら。
* *
今日は、菫は来ないのだろうか。
出会って二週間、菫は毎日この公園に来ていた。最初の発作のようなものも、あの日以来一度も見ていない。色は白いけど病的な白さじゃなくて、健康的な肌の色だ。
「楓」
僕を呼ぶ声は、この世で最も忌むべき人間のそれだった。
「……何か」
「酷いわね、義母に対して帰ってきたセリフがそれ? あまのじゃくなんだから」
本心だ。
「まあ、いいわ。そういうところが好きだし。――戻ってきてよ、家に」
「嫌だ」
まとわりつく腕を乱暴に振り払ってやる。この女には、関わりたくない。
「もう。なんて子」
気だるげに放たれる言葉にも、僕は吐き気をおしとどめるのに必死だった。
だから、菫がこちらをうかがっていたことに、気づくのが遅れたんだ。
本当なら、この女を見られたくなかった。
こちらを気にする菫に僕より先に気付かれ、女は菫に近づいて行った。
「なに、この子?」
「菫……」
「楓。趣味変わったの? 随分年下が好みなのね」
品定めするように菫をじろじろと見る。
その不躾な視線から遮るように、僕は菫の前に立つ。
「この子はそんなんじゃない。――帰れよ。俺はもう、あんたと関わりたくないんだ」
「……酷い言いぐさ。いいわ、また今度話しましょ。じゃあね、楓」
菫は聞かない。僕が聞いてほしいと言うまで、どこまでも普段どおり振る舞っている。
聞きたくないのかも知れない。
「……さっきの」
会話が途切れ、僕は口を開いた。それを遮るようにふいに菫は呟いた。
「……ルービックキューブね、初めて戻せたの。楓が教えてくれた通りにしたら、ほんとに」
「あれは、親父の後妻なんだ。血のつながりはない」
気にしてくれていたとわかっただけで、少しほっとした。僕は菫に聞いてほしかったんだ。
父親と再婚したのは金以外に理由はなかった。
家には父親のいない間に何人もの男を――、挙げ句、僕にまで手を出そうとした。
――寂しいのよ。誰かそばにいてくれなきゃ。
吐き気がする。全身が粟立って、思わず僕は口元を押さえた。
菫は、どうしていいかわからないようだった。
「女は、嫌い?」
違う。そのあとだって、僕はそれなりに恋をした。あの女が無理なだけなんだ。
「……大好きだよ!」
「………」
たっぷりと間があって、菫は盛大に噴き出した。
「ありがとう!」
そう言って、そうっと僕の背中をさすった。
お礼を言うのは、僕の方なのに。
「ねえ。本当のお母さんは、好きだった?」
控えめに菫は聞いてくる。そんなに傷ついてないから、腫れ物に触れるみたいに聞かなくてもいいのに。ずいぶん昔の話なんだから。
「守りたかった。大好きだったから」
妹も親父も。全部ひっくるめて、家族を。
「あたし、お兄ちゃんがほしかった。楓がお兄ちゃんなら、あたしきっと、安心して生きていけるのに。――どこにいても、助けてくれそうだもの」
「そんな……」
「ねえ! 兄妹になろうか」
「……はい?」
菫はいつも発想が唐突で、僕はたびたび反応に困る。
「フリだけよ、普通の兄妹ってどんな感じなのかなーって」
「ああ、ああ、そういうことね」
「行こう。あたし、遊園地に行きたいの」
「遊園地って……兄妹で行かないんじゃ」
「いいじゃない! 一日だけよ」
ベンチに座ったままの僕を立たせようと、菫は僕の腕を持ち上げる。懐かしい気持ちが込み上げてきた。
「ほら、次はあれ!」
「大丈夫なのか? そんなにはしゃいで」
「大丈夫、気分はいいから」
乗り物を探す菫を心配しながらも、僕は楽しんでいた。
久し振りに、一日を満喫している気がする。
「すいません。写真お願いしていいですか?」
「あ、はい。菫、ちょっと持ってて」
声をかけられた親子のカメラを構え、二枚ほど撮ってやる。
お礼に、撮りましょうかと言われたが断ろうとした時、横から元気な声がした。
「お願いします!」
「菫……カメラなんか持ってきてたのか」
「何言ってんの。カメラは必需品よ、若い子の」
僕と菫のやりとりを微笑ましそうに見ていた女性に撮ってもらい、挨拶をした。
「ご兄妹ですか?」
「あ」
「はい!」
僕が口を挟む暇も与えられず、菫は勝手に返事をしていた。
「他人にまで言う必要はないだろ」
「他人に言ってこそ兄妹っぽくなるのよ」
僕が何か言えば、彼女は屁理屈をこねて言い返してくる。それが本当の兄妹のようで、とても楽しかった。
「今日は、ありがとう」
少し疲れた顔で菫は言った。
「疲れた? 少しはしゃぎすぎたね」
「そんなこと。久し振りにいろんなこと忘れて楽しめたもの」
少し顔色が悪かったけれど、本当に満足といった表情で菫は笑っていた。心配にはなったけれど、それでも彼女が楽しんでいたなら僕は嬉しかった。
「あたしね、その……楓に言いたいことが」
ふと、菫は改まって僕を見た。背筋を伸ばして、何か大事なことを言おうとしている。 けれど、苦しそうに咳き込みはじめた。
「菫? 具合悪いなら休もう。座って」
「ただの……喘息よ、大丈夫、」
背中をさすってやりながら僕は菫をベンチに促す。喋るごとにヒューヒューと彼女の喉が悲鳴をあげている。ただの喘息には僕には見えなかった。
「あたし……もう、ここには来れないの」
少し落ち着いて、菫は口を開いた。その表情は見えなかったけれど、悲しい顔をしてるんだろうと僕は容易に想像できた。
この子は、隠すことなんてできない、素直な子だから。
「引っ越すのか?」
「まあね」
「そっか……」
僕が目を伏せると菫は元気よく笑った。
「でも大丈夫! 絶対戻ってくるから」
まるで、"もしかしたら戻って来れない"って言っているようだったけれど。
「どこかで見掛けたら、声かけてね」
「うん。元気でな」
「ありがとう。――楓」
名前を呼ばれたとき、少し、――不思議な感じがした。
* *
菫と会わなくなって、半年が過ぎた。
僕は相変わらず――習慣になってしまった――菫と過ごしたあの公園に通っている。
いつ、菫が戻ってきてもわかるように。
そうして菫を待っている間に、あの継母が入院したと聞かされた。
僕にはどうでもいいことだったが、着替えを持って来いと言うので仕方なしに持って行った帰りの病院のロビー。
「……みれ……」
小さく誰かが呟くのが聞こえた。
「菫?」
俯いている他人の発した言葉に、自分でも過剰に反応し過ぎだと思った。菫なんて名前、日本中どこにでも居る。まして、聞き間違いかもしれないのに。
ところが呟いた本人は僕を見た。精神的に参っている、泣きはらした表情をした中年の女性。
何だか、雰囲気が菫に似ている気がした。
「……か、えで、くん?」
僕の耳はそれをとらえた。
この人は、僕を知っている。
「あの……? あなたは?」
「……こんなこと、言えた義理じゃないけど……」
いやな予感は、当たるんだ。
「菫を……助けて……!」
病室には、一人しかいなかった。
真っ白いベッドの上で寝ている菫。
菫の顔色は悪かった。
僕が思い出す菫の元気な笑顔とは全く違う、見ていないと今にも消えてしまいそうだった。
「あなたの写真を見たの。楓くんと菫が、遊園地で笑ってる写真」
ふと、菫の母親らしい女性が話しかける。
「菫の、宝物よ……」
枕元のテーブルには、僕と菫が写っているとか、僕が菫に渡した暇つぶしの玩具の類いが置いてあった。
散々やって諦めたであろう知恵の輪やクロスワード、ジグソーパズルも無造作に散らばっている。
「………」
その中に、眼をひくものがあった。
使い古したルービックキューブ。それは本当に古いもので、以前に僕が菫にあげたものとはまた違うと一目でわかった。
それには、絵が描いてあった。
――ズルしないように、絵とか描いてさ……笑うぜ、家の絵、描いてたんだ。
そうだ。家の横に棒のような人間が二人。"おかえり"と言っている絵だ。
これは、僕の妹が、描いたものだった。
――ご兄妹ですか?
――はい!
――いいじゃない。今日くらい。
「菫……ごめん。菫……」
彼女はどんな気持ちで、僕を兄と呼んだのだろう。
彼女の兄から聞かされた自分の死に、どんな想いだったのだろう。
「気づけなくて、ごめん……」
なんで、気づかなかったんだ、菫に。
守りたかったのに。
「楓くん……」
そのまま菫は目を醒ますことはなかった。
「楓くん……これ、菫の日記」
菫の母親は、キャラクターの描かれた薄い手帳を僕に渡した。
見たい気分ではなかったけれど、好意で渡してくれたものを受け取らないわけにはいかず、僕は手帳をめくり始めた。
「………」
小さく、息を飲んだのが彼女に聞こえてしまってはいないだろうか。
菫の日記には、親と僕に対しての感謝の言葉しか書いていなかった。
――楓。覚えててくれてありがとう。写真も何もないはずなのに、名前を、妹の存在を覚えててくれて、ありがとう。
「私と菫は……直接血のつながりはないの。だけど、あの子は一度だって私を疎ましがったことはなかったわ。生みの親……あなたたちのお母さんが亡くなって私の養女になってからも、今まで我が儘なんて言わなかった」
何年も一緒にいると、他人でも似てくるのね。
疲れた様子の菫の養母を眺めながら、僕は話を聞いていた。
「ここ半年……あの子、すごく生き生きしてたの」
あなたと会ってからよね、と確認するように僕に聞く。
「でも俺は……菫に酷いことを言ったんです」
死んだと聞かされていた。妹とは、どんなに願ってももう会うことは叶わないのだと。だから思い出も、すべて父が燃やしてしまったのだ。
今考えると、それはとても不思議な行動だった。
「しょうがないわよ。あなたのお父さんは、あなたを失いたくなかったのよ、きっと。菫だって、それを感じてたの。優しい子だから」
菫は気づいていたのに。
「俺は、なんて馬鹿なんだろう」
手帳の最後には、震えた字で"お兄ちゃん、ずっと大好き"と書いてあった。
代わりに生きて、と言われているようだった。
一筋の涙が頬を伝った。
H20.5.6.