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ピエロ・エクリヴァン(コンメディアデラルテより)

…少し眠ってしまいました。

親愛なるコロンビーナ

私がヴェニスを出てから、年月は気づかぬうちに早く過ぎ、もはや私には時間の流れすら感じられません…

思い出すのは…今日の様な降誕祭の前日に、アドリアに浮かぶ、蜃気楼のような街並みを君と2人で歩いたあの夜のことです。

色とりどりの飾りが、ヤドリギの様に町中に巻きつき、妙に浮かれた熱気の中、私がいつもの様に座長…パンタローネ様のお召し物にアイロンを当てていると、外の熱気と冷気で鼻を真っ赤にした君が、「この鼻なら、化粧の手間が省けるね」と、冗談混じりにそう言うと、手を引いて町に連れ出してくれました。

…もちろん、後でパンタローネ様にこっ酷く叱られましたが、私には人生で一番の、輝き溢れていた夜でした。


いつもは芝居小屋の中からそっと見る、降誕祭前夜の町は…私の考えていたより遥かに美しく…幸いなるかな

赤や、白の光はまるで火星や木星の五色の天のようで…私の眼前には最善の淑女が手を引いて笑っていました。

その手の温もりで、私の心もいつか紅潮していました。

以前、幼少の私の手を引き、町の明かりの下に連れ出したパンタローネ様は、私を煉獄山の頂までは送ってはくれずに…この町は私にとって、彼のディーテの町の中心部…ただただそれだけにしか見えませんでした。

…今だって、私の周りにあるのは、机と、消えかけのランプ、後はテント小屋をぐるりと、まるで罪人の目隠しのように覆う、紫色の暗幕だけです。

小屋の外からは、やはりあの時のような…楽しげな声が聞こえ、それと同時に、冬の冷気が私の肌を刺しています。…ですがあの時のような、美しい熱気は、この忌々しい暗幕に遮られ…我ながら遠く離れたパリの夜は、ディーテから、さらに下のコキュートスへと…パンタローネ様も中々、先達役がお上手になってきたなと、自虐的に嘲笑する私に、もはや出来る精一杯のことは、精一杯の反抗は、コロンビーナ…貴女にこの手紙を…届くかどうかもわからない手紙を書き綴るだけです……


!…少しうとうとしていると歌が聞こえた気がしました。

あの夜もそうでした。

美しい歌が聞こえました。

…思えばあの時、主の期待を裏切らなければ、私は尻もちついた氷板に、閉じ込められることもなかったのかも知れません。


あの夜…全てが夢にも勝るエンピレオで、私達は踊りました。君と手をつないだまま、そうあれかしと叫び歌い、町の熱気と一つになっていました。

君の楽しげな顔を今でも覚えています。

…時よ止まれ!そなたは美しい!

確か、いつかの演目の時のセリフでした。

…今こそ本当にこのセリフが相応しい!

私は心の中で何度も叫びました。


…しかしあの男がやってきました。

私を至高天から突き落とすあの男が…

邪心ある蛇のような緑色の衣装を纏い、下卑な笑いを浮かべる町の無頼漢…ブリッゲラでした。

奴は私達を下劣な瞳で舐め回すと「見ろ!パンタローネの所の道化者が、仕事サボってこんなとこで浮かれてるぞ!」指をさして笑いました。

一瞬、その場の時が止まりました。

神を讃える幸福な歌も、歓声も、人々の足音さえ…止まり、私達を不思議そうに眺めて居ました。

私は、道化であることに、喜びを感じたことはありませんでした。…生きているだけで、なぜこんなにも蔑まれ、笑われなければならないのか…私は私の仕事という物が、私の最大の汚点に思えて仕方が無かったのです…

ブリッゲラの嘲笑するような顔に、私はただただ目を合わせることもできず、己を恥じていました。

…だが、君は違った。

コロンビーナは、勇敢な戦士の様に、彼を見据えると「私達が何をしていようと私達の勝手でしょう!」…ブリッゲラに食ってかかると、彼のごろつきは顔を真っ赤に目を吊り上げ、「卑しい女め!旅芸人なぞ娼婦と変わらん!」と、持っていた棒で打ち据えました。

…卑しい!?お前の方が卑しいだろうに!

『自分より、こんなにも美しく、気高い彼女が卑しいと思う者があれば前に出でよ!』

一瞬、そんな御言葉が、私の頭を過ぎりました。

…あぁ、こんな私にも…勇気試す時にあなたは見守って下さるのか…

…だが、私はそんな至高の存在も、彼のお方と私自身が愛した責め苦受けるマリアをも裏切ってしまいました。


私は動けなかった…怖かった。

恐怖に駆られ戦わず打ち負けてしまった。


「おいおい、その棒っきれはそんな物騒なことする物じゃないぜ」

私が声も出ずに足も震えていると、背後から声がしました。

…一座のスター、アルレッキーノでした。

アルレッキーノは憤慨するブリッゲラの得物を奪い取るや否や、自分の持っていた数本の棍棒と一緒に高らかに空に上げ、見事なジャグリングをしました。

先ほどまで悲痛な顔で見ていた町の人々も、感嘆し、手を叩き…他でもないコロンビーナ…君までも彼に釘付けだった。そして「親方が探してたぜ。帰ろう」と、唖然とするブリッゲラと、困惑する私を余所にスタスタと君を連れて帰ってしまいました。


アルレッキーノは私には何も言わない…ばかりか、目も合わせませんでした。

…それが私に対する彼の最大限の侮辱だと私には分かりました。


しばらくして君は私とは彼同様、口も利かなくなり、アルレッキーノと2人でパンタローネ一座を抜け出し、独立して…今もなおパダニアのどこかで芸を磨いているでしょう。


…しかし私は見てしまいました。

彼は…酷い詐欺師です!

悪魔に魂を売った酷い奴です!

アルレッキーノが一座を抜ける前の晩、ブリッゲラと2人で仲良く酒を飲み、コロンビーナの話をしていたことを!「あの時はすまなかった」と!!!


…恐らく…いや絶対に、奴らはグルだったんです。

奴らは私から君を奪うために一計を謀ったばかりか、パンタローネ様も裏切って何処かへ逃げ出すつもりだったのです!


…私は君を探して連れ戻そうと必死に夜の街を走りました。…あの晩とは違い、ただ暗く、静まり返った闇の中を!

…しかし結果はご覧の通り。

…程なくして私達にパリ公演の話がきました。


そして今はパリの街で…明日からの降誕祭の演目の準備で日に日に追われています。


ですが、何処に居ようと、ずっと私はあなたのことを愛しています。


気づけばもう夜も更けてきました。

…だんだんと瞼が重くなってきます。

…せめて夢の中だけでも…愛しいあなたと…



…少し眠ってしまいました。

親愛なるコロンビーナ

私がヴェニスを出てから、年月は気づかぬうちに早く過ぎ、もはや私には時間の流れすら感じられません…

思い出すのは…




目の前で眠い目を擦りながら愛を綴るペドロリーノは何万何千の夜を過ごしながらも、1885年のヴェニスの一夜を夢見ている。

決して叶わず、決して届かないその手紙を…



余談ではあるがアルレッキーノとブリッゲラはグルでは無く、ただ最後の夜にブリッゲラは降誕祭の謝罪をしに彼の元へと足を運んだ。

ペドロリーノの祈り…時よ止まれ。そなたは美しい。

これはファウスト博士が地獄の悪魔と契約した時の一文であった。

皮肉にも悪魔に魅入られ、時を止めてしまったのは、ペドロリーノの方であった。


喜劇コンメディア・デラルテ




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