日溜まりの中で
蒲公英様の【ジイド企画】参加作品です。
海の見える丘にある住宅街の中にその小道はある。何が特別という訳ではなく沈丁花などの生垣とレンガ塀の間にある普通の路地。レンガ塀の家には八方美人の犬のいる。この犬は本当に馬鹿でレンガ塀の上から俺が覗き込んでいても愛敬振りまいてくる程のマヌケなヤツ。そして生垣のある方には昔ながらの日本家屋という感じの家がある。この道の先には雑木林があるだけなので殆ど誰も使わないし、自転車も入ってこない。土がむき出しとなっている狭く小さな道。しかし俺にとってそこは特別な場所だった。日課のお散歩のコースであるのは勿論、沈丁花の生垣の向こうに特別な空間があるからだ。
今日もその路地を歩いていると、ポロンポロンとピアノの音が聞こえる。今、彼女は家にいるようだ。俺は思わずニヤリとしてしまう。そう、ここは俺の恋人の家。
この家に暮らしているのは、明るい緩やかなカーブを描く柔らかい髪をもつ小柄の女性。本人は『少しポッチャリで嫌』と言っているが、俺にはその温かく柔らかい身体は魅力的。大きく丸い眼の為に幼く見えるが、こう見えて人妻。しかし旦那は海の上にいるとかで、殆ど家にいない為に俺という存在が割り込む余地があるという訳だ。
『もう、貴方はそうやって誰にもいい顔して、こんな事をしているのでしょ』
俺の身体を布団の中で抱きしめ撫でながらそんな感じの事を彼女はよく言ってくる。俺が遊びで付き合っていると思っているのだろう。しかし俺がああやって布団で一晩明かすようなことをするのは彼女一人だというのはいくら説明しても通じない。確かに生きていく為に、いろんな人に愛想よくして色々美味しい思いをしているのは確かだけど、恋人は彼女一人だけ。
門からでなく、その沈丁花の隙間に出来た穴を使って庭から彼女の元に向かう事にする。アネモネの花壇の横を通り、池の横に立つ。鯉が水面を弾けさせた為に一瞬気を取られてしまったが、そこから一心にピアノを奏でる彼女を見つめる。今日は天気が良く縁側のガラス戸も開いていたので、中の様子は良く見えた。
メロディーに合わせて花の良い香りのする髪を揺れる。あの細くて俺を最高に幸せにしてくれる指が白と黒の鍵盤の上を走る。正直、俺には音楽の事なんか良く分からないけれど、彼女の奏でる音は世界中のどの音楽よりも心地よい。聞いていると彼女に抱きしめられているのと同じくらい安らいだ気持ちになる。俺は目を細め、彼女がピアノを演奏する様子をジッと眺めていた。彼女のピアノは好きだけど、やはり弾いている間は俺の事など眼中にないという感じになるのは少し寂しい。だからといって、ピアノを弾くのを邪魔して注意をひこうなんて野暮な事はしたくない。だって彼女があまりにも幸せそうにピアノを奏でるからだ。それに彼女の発するもの、言葉、音楽、笑顔、全てが温かく日溜まりのようで俺に安らぎを与えてくれる。だからこの空間では、ただ彼女という存在を感じ味わうことに集中する。
「あら、来てくれたのね! 何か食べていく?」
演奏を終えやっと彼女は俺がここにいる事に気が付いたようだ。俺の好きなあの明るく優しい笑顔をむけてくる。俺は『当然!』と答え、そのまま近づき縁側に腰かける。彼女はパタパタとキッチンに走り、お盆をもって帰ってくる。俺の前に皿に入った煮干しとミルクを振る舞われ、俺はそれをちゃんと挨拶していただく事にする。食べ終わり毛繕いをしていると、彼女の小さく細い指が俺を撫でてくる。思わず喉がゴロゴロなってしまうのは仕方がない。彼女は優しく笑っているのをいい事に、彼女の膝にのることにする。そこが俺にとって最高にお気に入りの場所。俺は甘えるように彼女の身体に身体をこすりつけてから、そのまま丸くなって眠ることにした。最高の午後の時間の始まりである。今日も旦那がいないようなので、このままここでお泊りしても良いのかもしれない。