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無償の愛を

愛は山道入り口傍に設置されているベンチに座り、流れる車をぼんやりと眺めていた。


この山道と直接繋がっている目の前の街道はずいぶんと広い。

車通りもなかなか激しいようで、ひっきりなしに流れている。

自家用車、大・中型トラック、トレーラー。

この街道に出てからさほど時間はは経っていないと思うが、何台目の前を通ったのか分からないほどの交通量だった。



ほんの数刻前、愛は蛍と別れた。


山道近くまで手を繋いで案内してくれた蛍は、ここからは一人で帰るようにと愛の手をあっさりと離した。

離れていった温かい手の感覚と冷たい言葉は、愛の足をとてつもなく重たくさせた。

一歩も動けず立ち竦んだ愛の背を押したのは、皮肉なことにも蛍の温かいその手。


甘ったれるなと蛍は言った。

それでも返事が出来ずに俯く愛に、蛍は呆れたように息をついた。

そうして「俺がここにいたら、愛は帰りそうもないから」とあっさりその姿を消してしまったのだ。


当然愛は振り返り、辺りを見回す。

けれど蜃気楼のように揺らぐ蛍の姿は見つからず、何度彼の名を呼んでも返事もない。

喉が痛くなるほど名を呼んでも、彼は一向に姿も見せず返事もしなかった。


風が吹き、ざわめく木々たちが帰れといっているようだった。

ここはお前の居場所じゃないと、拒絶されたようだった。

途方に暮れた愛が、その場から引きずるように山道まで歩きだしたのはまもなくのこと。


進みのよくない歩調ながら山道を下り、面していた駐車場の一角にあったベンチに愛は座り、今に至っている。



愛は振り返り、山を見上げる。


本当にこのままでいいのだろうか。

蛍を一人にしていいのだろうか。


ここに座って考えることといえば、蛍のことばかり。

山を下りてはきたものの、渦巻く後悔が愛を支配してこれ以上山を離れることも出来ない。

それに愛は知っている。

確かに蛍と愛には死者と生者としての絶対的な壁があるが、持つ感情は一緒なのだということを。


こんな山に一人ぼっちで寂しくないはずはない。

辛くないはずはないのだ。

けれど今なお蛍は、一言だって弱音を吐かない。

いつだって他人の愛の世話ばかり焼いて、自分のことは後回し。


甘ったれるなと蛍は言った。

愛は蛍に甘えていた。

でも、じゃあ蛍は誰に甘えていいのだろうか。



そう思った瞬間、愛は立ち上がった。


なにが愛をここまで駆り立てるのか分からなかったが、このままではダメだと強く思った。

蛍をまた一人にさせるなど、やはり間違っていると思った。

あれだけひどい仕打ちをされたのに、それでも愛を母親にダブって見えるといった蛍は、それだけ母親が恋しかったという証拠。



気がついたら愛は山道を駆け上がり、以前は通った獣道を走っていた。

きっと蛍はあの場所にいる。

はっきりとした直感を信じ、愛は迷うことなく進んでいく。


そういえば2日も経たぬ前に入山したときも、こんな風に豪快すぎるほどの足並みだったと愛は思い出す。

あのときはさっさと道に迷ってしまえばいいとがむしゃらに先を急いでいた。

そしてそのまま山から出られず、さっさと野たれ死ねばいいと自暴自棄だった。

急ぐ気持ちはあのときと変わらないが、その目的のあまりの違いにはどこか誇らしい気がした。





「蛍っ!!」


そうしてようやくたどり着いたその場所。

愛が、そして5百年ほど前に蛍が落ちたその崖だった。

崖の淵ぎりぎりに蛍は立っていて、戻ってきた愛に驚いたように振り返った。


そんな蛍に愛は駆け寄って、膝をついて彼を思い切り抱きしめる。

相変わらず頼りないこの感覚が愛しい。


「えっ、……愛?」

「へへ、帰ってきちゃったぁ」


息切れの苦しさに顔を歪ませながら、それでも愛は精一杯笑った。

けれど途端に、蛍が背負っている闇が急にどす黒く渦巻き始める。

蛍に肩を掴まれたと思ったら勢いよく突き放され、その拍子に愛は尻餅をついた。


「いたたた……」

「なんで、戻ってきたの…」


唸るような蛍の声。

狐の面の奥から鋭く睨んでくる視線も感じるが、愛はへらりと笑って返す。


「だってやっぱり、蛍のこと放っておけないよぅ」

「そんなもんどうでもいいだろ、いいから帰れ!!」


どろどろと蛍の背後の闇が深くなるにつれて、それに同調するかのように辺りの大気が震え始める。

木々がざわめきだち、一気に辺りの空気が圧迫するかのように重苦しくなった。

強い風の中にいるかのように呼吸がしにくく、肩が重たい。


きっと普通の感覚ならば、ありえない恐怖に逃げ出すのかもしれないが、どうにも普通ではない蛍という存在を愛はすっかり受け入れてしまっているようだ。

逃げ出すどころか、少しムッとしたかのように愛は言う。


「何言ってんの、蛍のことがどうでもよくないから戻ってきたんでしょー!」

「うるさいうるさい! 帰れったら帰れ!!」

「寂しいくせに!」

「そんなわけあるか!」

「蛍が素直じゃないだなんてとっくに知ってるよぅ!」

「ほっとけ!」


いがみ合うように視線をぶつからせていた二人だったが、やがて愛が小さく笑う。

ふと蛍が一言だって我儘をいわない理由が分かった気がしたからだ。


愛は蛍の母親に似ているのだといった。

そして蛍は、今もなおその母親を心のどこかで慕っている。

蛍はきっと怖いのだ。

もう一度母親に、母親にそっくりな愛に嫌われ傷つけられることに脅えているのだ。


「そんないい子じゃなくたって大丈夫」

「なにが…っ」

「寂しいなら寂しいって言っていいんだよぅ」

「意味分からないからっ」

「わたしは」


蛍の言葉を奪うように呟く。

じっと蛍を見て、彼の面の奥に隠された素顔を想い浮かべる。


「わたしは、蛍のおかあさんじゃないから、蛍のこと嫌ったりしない。蛍のこと、裏切ったりしない」

「………ッ」

「大好きよ、蛍」


小さく震える蛍に、愛はそっと手を伸ばす。

けれどその手の先にいた蛍は、突如として起こった地響きと崖崩れと共に、小さな体を宙へと踊らせた。

崩れ落ちる地面とともに、驚いた表情のままの蛍も落ちていく。

それはまるで、5百年前のあのときを再現するかのようだった。


突然のことに愛は目を見開き悲鳴を上げ、急いで駆け寄って崖から身を乗り出した。

あらん限り腕を伸ばし、落ちた彼の名を叫ぶ。


「蛍―――っ!!」


自身の激しい心音が耳をつんざく。

崖下は今しがた起こった地滑りに派手な砂煙をあげていた。

ままならない呼吸に、愛は眩暈すら覚える。


あそこに蛍が落ちた?

いてもたってもいられず、愛は滑り下りようと崖に足を放り出したそのとき、ふと視界が翳ったことに気がついた。

思わず振り仰いだ愛の視線の先には、どこか呆けたような蛍が静かに浮いていた。


「蛍!!」


ふらりと愛の前に下り立った蛍は、やはりどこか様子がおかしい。

相変わらず狐の面が邪魔でその表情ははっきりと窺い知ることはできないが、変だとはっきりと感じた。

愛は蛍の体をあちこち確かめるように触れる。

てっきりケガでもしたかと思ったのだ。


「どうしたの蛍! どこかぶつけたの!?」

「……違う、よ」

「じゃあどこか切っちゃったの!? 大丈夫なのっ!?」

「……違う、違うよ。俺…、思い、出した……」


蛍は小さく体を震わせ、呟くように囁いた。

あまりにも小さい声で愛はよく聞こえず、思わず覗くように蛍を見遣れば、彼が息を飲むような仕草をしたのが分かった。


「思い、出したんだ……」

「えっ……」


けれどそれ以上の言葉は、愛の口から零れることはなかった。

代わりに出たのはとっさの悲鳴。


突如として、大きな地鳴りが再び愛たちを襲ったからだ。

思わず自分たちが立つ地面を見れば大きくひび割れていくところだった。

すっかり忘れていたが、愛たちがいたところはさきほど地滑りが起こったばかりのところで、いつ何時第2波が襲ってきてもおかしくはなかったのだ。


逃げる間もなく地面が大きく裂け、重力に抗うすべを知らない愛は落ちる地面と共にするしかなかった。

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