帰るべき場所
東の空から太陽が昇り始め、世界は少しずつ本来の色を取り戻していく。
愛と蛍が体を休めている洞内も、眩しい朝日に照らし出される。
まさに清々しいといった朝もやに包まれているとは対照的に、愛はぐずついた気持ちを表すかのように顔を歪めた。
さっきの蛍の言葉がぐさっと突き刺さったからだ。
『愛、もう人の世界に帰りなよ』
隣に寝転んだままそう言った蛍を、愛は少しばかり憎々しげに見遣る。
彼の揺らぐ狐の面はこちらを向いておらず、仰向けそのままに上を見ているようだった。
蛍が愛を見ていない。
たったそれだけのことになぜか少し腹が立った愛は、思いっきり顔を背けてやる。
「……帰るところなんて、もうないっていったでしょっ」
「ないなら、また新しく作ればいいだけ」
若干荒っぽい愛の言葉に返ってきた蛍の返事は、至極落ち着いたものだった。
それがまた愛の謎の怒りに油を注ぐ。
愛は体を起こし、再度睨みつけるかのように蛍に視線をやった。
「簡単になんかいわないでよぅ!」
「生きること自体、簡単なことじゃないでしょ。でも愛は生きているんだ」
「……分かってるもんっ」
「分かってない。いろんな理由つけて、愛は逃げてるだけ」
「そんなことっ……」
「『ない』だなんていえないでしょ」
蛍のセリフに、愛はぐっと言葉が詰まる。
ゆらりと蛍が愛に顔を向けた。
蜃気楼のような曖昧な存在の蛍なのに、発する言葉はどこまでも厳しく現実的だ。
「結局愛は死ねないんだよ、だったらもう一度踏ん張るべきだ」
「わかんないじゃない、そんなの!」
「だって実際愛はさ、俺のいうことに流されてしっかり飯食って、こうして寝床まで確保してさ。そんな甘ったれがどうして死ねるの? 無理に決まってるよ」
「それは……っ」
「愛、生きることは簡単じゃないよ。でも、死ぬことだって簡単じゃないんだ」
なにも言い返せず、涙をためて愛は俯く。悔しい。
強く唇を噛んで、泣くものかと必死に自分を叱咤する。
悔しいと思って泣くことはつまり、蛍のいうことが正しいのだと認めること。
嫌だ、そんなの。
認めたくない。
『認めたくない』と思うことは、もう『認めている』と同等だと愛だって気がついている。
けれどどうにも蛍の前で大人になりきれない愛は、素直になれず認めたくないと思うのだ。
だいたい認めるということは、ここを出ていくという選択になる。
それが愛は嫌なのだと、ようやく自覚した。
蛍の傍は、愛にとってとても心地いい場所だ。
口が悪くて意地悪な言動もあるけれど、なんだかんだと愛を気にかけてくれる。
伊達に5百年近く地上に留まっていないようで、相手のたしなめるべきところはきちんと指摘もする。
確かに蛍は生者ではないけれど、死者だからってとくに気になることもない。
無論これが恋愛感情かと問われれば、そこは首を傾げてしまうが、蛍を想う気持ちがあるのは間違いない。
蛍に出会ってまだ1日とちょっとなのだが、すぐ愛が懐いてしまったのは彼の魅力なのだろう。
泣きそうなまま俯いている愛の頭を、子供のように蛍が撫でる。
蛍の手は温かい。
いよいよ泣きそうだと思った愛に、蛍はゆっくり言葉をかける。
「ねえ、愛」
「……なあに」
「ヘタレなりにも死ぬ覚悟をもってここまで来たんでしょ」
「ヘタレとか、一言多いっ」
泣きそうながらもムッと言い返せば、蛍は本当のことでしょと小さく笑った。
「俺思うんだけどさ、死ぬ覚悟があれば人はなんでも出来ると思う。愛はもっと視野を広くして、考えを変えてみたらいい」
「視野……、変える…?」
「しがらみ全部捨てる覚悟をさ、死ぬためじゃなくて生きるためにすればいいじゃない? どっちも苦しくて辛いけどさ、でも愛は生きているんだから。せっかく親からもらった命なんだから、精一杯生きてこそでしょ」
蛍の言った言葉はとてもとても重たくて、愛の中に深く沈んでいく。
『頑張れ』とは、蛍は一言も言わない。
それが返って愛には励まされているように感じた。
まるで『頑張ってることは知ってるよ』といわれているみたいだった。
昨日の蛍の話でとっくに涙は枯れたと思っていたのに、またほろりと零れてしまった。
「んでこっからは、俺の超個人的な言葉」
「個人的…?」
「愛には、いつか良い誰かと出会って、子供を産んでしっかり育てて生きていってほしい。愛情たっぷりにその子を甘やかしてやってよ」
ぐずぐずと鼻を鳴らす愛を、蛍は変わらず撫でる。
どうにも温かい蛍の手は、さらに愛の涙を誘っているかのようにも感じた。