遠い呼び声
「まあ、昔はよくある話だったんだけどね」
そう下を向きつつ呟いた蛍は、見ているこっちが苦しくなるような切なさを備えていた。
もちろん表情は面で隠れていて分からないが、彼が醸し出す雰囲気といえばいいのだろうか。
なんとなく蛍が背負った闇が、夜の暗闇以上に深みを増したように感じた。
揺らぐ蛍の輪郭はどうにも心もとなくて、なんだかそのまま彼が消えてしまいそうな錯覚に陥る。
愛は不安を払拭するかのように手を伸ばし、その輪郭同様に揺らぐ蛍の手を握った。
きちんとした境界がない蛍の手は、それでもとても温かく、唯一生者としての名残りのようだ。
愛の行動に蛍は一瞬ぎょっとしたようで彼女を見遣ったが、取り分けて抵抗することもなく、振り払うこともなかった。
愛に手を預けたまま、蛍は話の続きを紡ぎだし始める。
「俺は生まれたのはだいたい5百年くらい前かなあ。生まれは違うところなんだけど、俺が4歳くらいのとき、母親に連れられてこっちにきたんだ」
「……お母さんの故郷があった、とか?」
「うん。昔この山のふともには農村があってさ。母親はその村出身。なーんにもない、本当に超ド田舎村だったよ」
改めて目を閉じ思い出せば、すっかり忘れられてしまったはずの過去が鮮やかに色を取り戻す。
決していい思い出とはいえぬもの。
送る日々は、ずいぶんと過酷なものだった。
蛍の母親はもともとはこの村の出身でこそあったが、彼女は身売りされて村を出た経由があった。
娘を売った両親はすでに流行病で亡くなっていて、他に親族はいない。
加えて村の周辺一帯の土地はずいぶん痩せ細っていて、田んぼや畑はあったが十分なものがとれず、他者を受け入れる余裕もほとんどなかった。
飢えとの戦いのような日々は、人の心までも荒ませる。
帰ってきた蛍母子は温かく迎えられるわけもなく、村の厄介者として忌み嫌われながら生きることになった。
「とくに俺、父親がいなかったしね」
「……そう。お父さん、いなかったの…」
「いないっていうか……、母親が売られた先は売春宿だったからね、客の誰かだろうってことしか分からなかったみたいだよ」
「………」
「今の世も片親だと生きにくいところはあるだろうけど、俺の時代はとくに厳しかったんだ。父なし子ってだけで迫害されたりさ。ついでにあの村の人間たちは俺の母親が売春宿に売られたことも知ってたから、余計にちくちくとね」
石を投げられることなんて日常茶飯事。
大人からにだって暴行を受けることもあった。
きっと一生懸命働いても、一向に豊かにならない生活の憂さ晴らしも含まれていたんだろう。
母子ともども生傷の絶えない日々だった。
だけどこんな生活が長く持つはずもない。
蛍が8歳になる頃には、続く廃れた生活に彼の母親は心を患うようになっていった。
歪んでいく母親の矛先が向かったのは、彼女より弱い者。
いうまでもなく、息子の蛍だった。
村人からの暴行に加えて、守ってくれるはずの母親にすら蛍は殴られるようになった。
「毎日毎日本当に痛かったよ、骨折ったことも数えきれないし。でも心も痛かった」
「………」
「何度も村を出ようと思ったけど、やっぱり母親を見捨てられなくてさ。殴られても蹴られても捨てられないなんて、笑っちゃうよねえ」
くくっと喉を鳴らして笑った蛍だったが、愛には彼が泣いているように思えた。
きっと蛍は優しすぎるのだ。
だから暴行を受けても母親を放っておけなかったのだろうし、嫌い切ることができなかったのだろう。
どんなにひどいことをされても、やはり蛍にとって彼女が唯一無二の母親だったということ。
けれど蛍は母のことを『おかあさん』とは一度たりとも呼ばず、いつだって『母親』と呼ぶのは、すべてを許しているわけでもないということなのだろう。
完全に切り捨てることが出来ない優しさを持つ蛍の、複雑な心中を垣間見ているようだった。
「そんな中、ついに母親が限界にきちゃったみたいでさ。ある晩、俺を連れてこの山に入ったんだ」
つ、と蛍が自身の被る狐の面を撫でる。
そしてくるりと愛のほうに、その面のついた顔を向ける。
「この面ね、そのとき母親から貰ったものなんだ」
「……そっかぁ」
だから大事そうにいつもつけているんだね、と言いかけた愛は思わず閉口する。
蛍の雰囲気がぞっとするような、冷たさを孕んだからだ。
「純粋に母親が息子に送ったものだと思った?」
「……え?」
「違うよ、そうじゃない。これは呪いなんだ。外したくても外れない」
「えっ?」
「俺はね、母親に殺されたんだ」
蛍の言葉に、愛の息が詰まる。
「愛が落ちた崖あるでしょ? 俺もそこから母親の手で落とされたんだ。愛とは違って、打ちどころ悪かった俺はそのまま死んじゃったんだけどね」
「…………」
「その突き落とされるときに、この面を被せられたんだ。『お前は今日から狐の子になったから、お山に帰るんだよ』ってね」
あの瞬間はとくに鮮明に覚えている。
するりと突き出された母親の腕に押され、抵抗する間もなくその身を崖から踊らせた。
落下していく息子を見る母親の瞳には、光なんてなかった。
一瞬でも後悔して手を伸ばしてくれたら、母親のことを許したかもしれない。
けれど実際はそのまま身を翻して、去っていく母親の後ろ姿が見えただけだった。
背中から落ちていく恐怖は大きく、落ちている間は無限の時間すら感じた。
何度か崖から突き出た岩に体をぶつけ、ようやく止まったときにはもう、体はぼろきれのようになっていた。
あちこち骨が折れて、わき腹が大きく裂けて大量に出血していた。
内臓も破裂してしまったようで、吐血が止まらなかった。
苦しくて苦しくて、それでも誰も助けてくれないこの世を、蛍が悲観するのは至極当然だった。
そうしてやがてこの世に自分を産み落とし、振り返ることもなく捨てた母親を強く呪った。
「本当にもうね、一つ呪えば全部が憎らしく感じちゃってさ。どんどん憎しみが溢れて止まらなかった」
その呪いの力はなまじ若い分、なおかつ死に直面していたこともあって凄まじく。
底知れぬ怒りと絶望は、最後に母親から貰った狐の面を媒介にして、まだ生きていたかった蛍自身の魂をこの山に縛りつけ今に至る。