迎えた翌朝
幽霊というものを実際見たのははじめてだったが、どうにも蛍は一般的にいわれている幽霊とは少しばかり違う、……と思う。
といっても彼は浮遊できるし、姿を消すこともできる。
けれどその他に、蛍とは普通に触れ合うことができるからだ。
さすがに人間の皮膚のようなはっきりしたものではなく、しっかり綿の入ったクッションのような感覚に一番近い。
常に揺らぐ輪郭同様、その感触もずいぶん曖昧のようだった。
まあ触られるのが嫌いらしい蛍は、そうそうに触らせてはくれないけれど。
あれから一晩、愛は森の中で夜を明かした。
無論野宿などはじめてだったが、意外にも蛍が世話を焼いてくれて不安はなかった。
ぐっすり眠った翌朝、起き出したときにはもう蛍の姿はなかった。
やはり幽霊らしく、朝とか昼が苦手なのかなあと思いつつ、愛は傍を流れている川で顔洗う。
振り返れば、蛍の案内で昨日愛の寝床になった洞の入口が見えた。
浅い洞ながら、枯れ草や落ち葉がたんまり溜まっていて、集めてベッド代わりにしたらなかなかの寝心地だった。
さて今日はどうしようか、ぼんやりと空を見上げていた愛に背後から声がかかった。
「お? なんだ、もう起きたのか」
「……え、蛍…?」
「そうに決まってるだろ」
「え、だって…」
幽霊なのに夜限定じゃないの?、と愛が素直に感じたままに問う。
相変わらず面をつけていて蛍の表情は知れないが、彼の背負った空気が一気に重くなる。不機嫌になったようだ。
彼が不機嫌になった理由ははっきりとは知れないが、間違っても『蛍が幽霊だから怖い』とか『怖いから傍にいてほしくない』などの誤解はされたくなくて、愛は焦ったように口を開く。
「あっ…言っておくけど嬉しいんだからね!」
「は?」
「蛍が幽霊でもなんでもいいと思ってるし、傍にいてくれてほっとしてるの」
「……はあ?」
「やっぱり一人じゃ寂しかったし、蛍がいてくれて本当に嬉しいって思ってるんだよぅ」
「……あっそ。まあなんでもいいからついてきて」
分かってもらえたのかもらえなかったのか、蛍の雰囲気はどこかムッとしたままだ。
ふいっと愛に背を向けて、近くの森の中にふらふらと低浮遊で入っていこうとする。
相変わらずそっけない子だなあ、なんて今更なことを思いながら蛍の背を見遣っていた。
先にふらふらと飛んでいく彼の背中は、どこまで自由に見えた。
幽霊だからなのか、辺りの背景に馴染むように少しだけ透けてみえる。
自分とは違う彼。
生者と死者の違い。
彼が見る世界は、一体どんな世界なのだろうか。
森に消えたはずの蛍が、ガザッと茂みから顔を出したのは間もなくのこと。
さっき以上に雰囲気をムスッとさせたまま、彼は愛に叫ぶようにいう。
「なにやってんだよ、ついてきてっていったでしょ! 早く来て!!」
「……あ、うんっ。ごめんごめん、今いくよぅ」
「ったく…のろま!」
「んなっ……一言多いっ!!」
ふてくされた顔のまま、愛は蛍のもとに駆けていく。
愛が手を伸ばせば触れられるか、触れられないかくらいのところまで来ると、ようやく蛍はくるりと背を向ける。
愛の歩調に合わせるように、さっきよりは進む速度を落としているかのようだ。
そんな蛍に愛がついていく。
普段の蛍はとてつもなく口は悪いし、愛が女だろうと容赦はしない。
だけどそれ以上に根は優しいということを知っている。
たとえば、嫌そうに先に行っても、立ち止まって愛の存在を確認してくれるところ、とか。
たとえば、嫌そうにしながらも、ちゃんと愛の所まで戻ってきてくれるところ、とか。
たとえば、「のろま!」といいつつ、心配したんだぞって背負う空気が柔らかくなるところ、とか。
蛍はとても優しい。
だけど本人には言ってやらないつもりだ。
素直じゃないところも、ひねくれているところも、それを含めて蛍だと知っているから。
蛍の後を追って、愛がやってきた場所は歩いて10分足らずだった。
少し開けたところのそこは、柑橘系の果物の独特の甘みと酸っぱさを交えた香りで一杯だった。
ぐるりと視線を走らせてみれば、なかなか立派な木があちこちに生えていて、その高い所にたわわな果実を実らせているのが分かった。
「わあー、なにこれミカン?」
「さあ……、よくは分からないけど食べられるでしょ」
「えっ」
「『えっ』って、これ愛の食糧になる予定だし」
「ええええっ」
驚く愛をそのままに、蛍はふわふわと浮上していって一つ果実をもぎ取る。
となりに生っているのももぎ取ってから、蛍は愛の前に降りてきた。
「はい」と蛍に差し出されれば、受け取らないわけにはいかない。
困ったように顔を顰めて、愛は受取ったミカンらしい果実と蛍の顔を何度か視線を行き来させる。
蛍は『さあ食え』といわんばかりの雰囲気だ。
「………これ、食べるの?」
「当たり前」
やっぱりか。
「食欲ないんだけど……」
「食べないなら、この山から叩きだすからね」
「うぇ~…」
「だからここにいる間は、文句言わずに食べる!」
まったくどちらが年上なのかわからない会話。
気が進まない愛だったが、傍で蛍が目を光らせているのだから食べるしかなさそうだ。
近くに転がっている岩に座って、愛はその皮をむき始める。思いの外硬くない皮で助かった。
そして食べてみれば、意外にも美味しいではないか。
もぐもぐとつい手が進む愛を見ながら、蛍が言う。
「食べ終わったら、今度はキノコと山菜と、魚採りにいくからね」
「えっ」
「それだけじゃ栄養偏る」
「これでいいよぅ」
「じゃ、出てってもらうよ?」
「ぶー!」
「ここにいる間は甘くないからね」
そういった蛍は、不貞腐れて頬を膨らませている愛の心中などお見通しだといっているようだった。