怖くない幽霊
はじめて見た幽霊は、それはそれは不機嫌な男の子。
狐の面をしていてどんな表情をしているか分からないが、まとう雰囲気がどろどろとしている。
けれどなぜか『恐怖』はない。
「ずっと一人なの?」
「とにかく出てけっていってんだよ!」
「いつからここにいるの?」
「お前には関係ないだろ!」
「なんでそんなに怒ってるの?」
「うるっさいなあ!!」
まったく嚙み合わないこの会話。
相変わらず男の子は鬼気迫る勢いで、それを隠そうともしない。
それなのに一切怒りが沸いてこないのは、やはり子供相手だからなのだろうか。
何とはなしに男の子のほうに歩み寄れば、彼は激しい怒りを一変、脅えるように後ずさった。
そんなだからこれ以上近寄るのは躊躇われて、そのまま足を止めて膝をつく。
「何にもしやしないよぅ。わたし、愛。あなたはなんていう名前なの?」
「お前に名乗る名なんてない!」
「うーん…えらい根性の曲がった子だなあ」
「ほっとけ!」
「あのね、わたししばらくここにいたいんだけど……いい?」
「はあ!?」
面食らったようなその反応がとても子供らしくて、愛はつい声を立てて笑ってしまった。
当然向こうは面白くないといわんばかりに背負った闇を深めるが、けれどそれだって怖いというよりは拗ねているように思えた。
「冗談じゃない! 出てけって何度もいってるだろっ!!」
「ずっとじゃないんだし、ダメ?」
「ダメ! とっとと帰れ!」
「帰れ、かぁ……」
男の子に嫌われているのはその言動ですぐ分かったし、彼も愛を追い返したいだけで吐いた言葉なのだろう。
ただ、今その言葉をもらうには辛すぎたようだ。
へらついた顔はそのまま、堪らずに熱い涙が一粒零れてしまった。
じくじくと心が痛む。
それでも大声で泣きださなかったのは、きっとわずかばかり残っていた意地のせいだ。
揺らぐ気持ちを落ち着かせるように、愛は大きく息を吐いた。
「なんかもう、全部嫌になって出てきちゃってさ…、帰るとこもないんだぁ」
なんとかあっさりと軽い口調で言い出せた、と思う。
本当ならこんな初対面の子に、話すべきことではないと分かっている。
しかも相手はまだ子供で理解はできないだろうし、面白くもなんともない話だ。
けれど誰でもいいから聞いてほしいという思いが、愛の口を開かせてしまったようだった。
一度話し出してしまえば、余計なことまで口走ってしまう。
「元々わたしが住んでた家には、今もうあの二人が住んじゃっているし。あ、今はもう3人か…」
あの3人とはいうまでもなく、元彼と親友とその腹の中にいる子だ。
最初は愛が一人で住んでいたところに元彼が転がってきて、一緒に暮らしていたはずだった。
これからもこの関係が続くものだと思ってた。
けれど彼は親友とも付き合っていたようで、あまつ彼女を妊娠させた。
出てってくれと言った愛に、彼が返してきた言葉がまた絶句するものだった。
祝儀代わりにこの部屋を譲ってくれないか、そう言ってきたのだ。
愛にとってめでたいことなど一つもない。
むしろ慰謝料を払ってもらいたいくらいだ。
実際そう言ってみたら、これから子供も生まれて物入りになるのに困る、と返ってきた。
さらに付け加えるように「愛はこれから気楽なフリーに戻れるし、貯蓄もあるの知ってる。だから少しくらい…」、などと言われた。
あんまりにも自分勝手な彼にはもう、飽きれて言葉も出てこなかった。
結局愛は住んでいた部屋を、捨てるように元彼と親友に譲った。
あくまでもなかなか仕事がうまくいかず貯えがない2人のためじゃない。
生まれてくる二人の子供のためだ。
親は別としても子供に罪なんてないし、整ったよりよい環境で育ってほしいと願えばこその決断だった。
「だからもう帰るところなんてなくてさぁ」
相変わらず愛の身の上を聞いても、男の子の雰囲気は変わらないようだが、面の下から向けられている視線が若干和らいだように感じる。
無論あの年齢じゃ愛の心情を理解できているとは思えなかったが、聞いてくれただけでも嬉しかった。
「なら別のとこに帰ればいいだろ…」
「別……?」
「親とか親族とかっ」
面の下の視線が若干和らいだように、男の子の口調も少し勢いが欠け始めている。
…同情されたのかなあ。
その様子にちょっとだけ愛の顔がほころぶものの、依然として彼女の口から零れた言葉は寂しいもの。
「わたし、生まれてすぐに孤児院に捨てられててさ。家族とか親戚とかいないんだぁ」
「……なら」
「暮らしていた孤児院はさ、わたしが出ると同時に取り壊れちゃって今空き地。なーんにもないの」
「………」
「しばらくの間だけでいいの、ここにいさせてくれる?」
男の子はもう何も言わなかった。
たぶん素直ではない彼の、承認の仕方なのだろう。
……と、思っておく。
「改めて、わたし愛よ。あなた、お名前は?」
「………」
「お名前は?」
「…………蛍」
「よろしくね、蛍」
差し出した愛の手をじっと見た蛍だったが、すぐにそっぽを向いてしまった。