逃亡の先にいたもの
ざくざくと獣道をひたすら歩く。
生い茂る木々の隙間から注ぐ、満月の光に照らされただけ薄暗い視界。
どこに行くわけもなく、それどころか行くあてなどないまま、ただひたすらに歩く。
自由に伸びた草や枝に引っかかるたびに、むき出しの腕や足の皮膚が裂ける。
けれど痛みは感じない。
否、感じる余裕がない。
そんな痛みより、この心のほうがよっぽどよっぽど。
噛みしめる唇に、一層力を込める。
血の味を感じてもなお、痛みはなかった。
今日、結婚寸前だった彼と別れた。
理由がまたありきたりで、彼が他の女性と子をなしたから。
それも婚約者でもある自分の、二十年来の親友が相手だというのだから言葉も出ない。
たしかに彼は、少し軽薄なところはあった。
女の子が大好きで、あちこちで浮名を流していたこともしっている。
浮気をしたこともあった。
でもそのたびに泣きつくから、突き放せなくてそのままうやむやにされて付き合い続けた。
悪いのは、彼ではない。
なによりも悪かったのは、いつだって強く突き放せなかった自分だ。
もう別れようと、いえなかった自分だ。
与えられる温もりを失いたくて、誤魔化し続けた自分だ。
やっと家族が出来るのだと、どんなに望んだか知れない家族がやっと出来るのだと、何度嬉しさに涙したか分からない。
結局奪われてしまったのだが、情けないことに親友をも憎みきることも出来ないでいた。
親友もまた、とても家族を欲しがっていたことを知っていたから。
もうどれくらい獣道を歩いてきたのか分からなくなった頃、突然道がなくなった。
あまりに突然だったから、抵抗する間もなくあっさりと崖を転がるはめになった。
一体どれだけ下るのか見当すらつかず、ただ本能的に悲鳴を上げるしかできなかった。
5回転、いや10回転はしたんじゃなかろうか。
ようやく止まった衝撃に、しばし呆然とする。
仰向けに倒れているので、自分が落ちてきたらしい崖がけっこうな高さと角度を保っていたのを知った。
何度か手を握る仕草をしてみる。
たったそれだけのことで体のあちこちが悲鳴を上げたが、それはつまり生きているということで。
実際あれだけの高さから落ちてきたのだから、むしろ怪我一つないほうがおかしいというものか。
痛む体を押して体を起こせば、水の匂いと音に気がつく。
視線を辺りに走らせてみれば、満月の元に照らされ静かに浮かび上がっている川があった。
とりあえずそこにいってみようかと、かすり傷やら見事に割れて出血してる派手な傷口ばかりの体を引きずるように歩きだす。
底が見えるほどの綺麗な川だった。
あちこちで魚が跳ねてしぶきを上げる。
淡い月光に一瞬だけ晒された魚の姿は、まるで輝くように艶やかで美しい。
耳を撫でる夜風は涼しく、目の前が川のせいか少し湿った感覚。
しっとりと包み込むかのように、それでいてどこか爽やかに通り過ぎていく。
あまりの神聖さに、自分の悩みなど存在などちっぽけなように感じてしまった。
ここにきた目的も忘れかけ、一歩も動く気になれずただ立ち尽くしていた。
ふと、急速に当たりの雰囲気が変わり始めているような感覚を覚える。
ざざっと木々がざわめき、世界が重くなったような圧迫感。
不快感ともいえる状態に、吐き気を覚える。
途端、ぬるりとした生温かい気配を背後に感じた。
思わず振り返れば、幾分か離れた所に子供が立っていた。
ひざ丈の着物に狐の面、背丈からいって10歳にも満たないように思える。
面で表情こそ隠れているが、彼が殺気立っているのを感じる。
「出てけ。ここはお前なんかが来る所じゃない」
唸るようなその声からして、男の子のようだ。
まるで炎に包まれているかのように彼の輪郭が揺れているあたり、たぶん生粋の生者ではないのだろう。
俗にいう幽霊、と呼ばれるものだと思う。
そういった類ははじめてみるが、『怖い』という感情はなかった。
まさにどろどろとした闇を背負っている彼なのだが、どういうわけか寂しそうに見えてしまったのだ。
そんなだから、警戒心もなくへらりと笑いかける。
「あなた、ここに住んでいるの?」
「……出てけ!」
けれど対照的に男の子は噛みつくように返してくる。
初対面ながら相当嫌われているようだった。