街角で踊る影
私は独り、東京の薄明かりに沈みかけた街角に立っていた。街路灯の光がぼんやりと空気に溶け、視界を曖昧に揺らめかせている。路上では、遠くから聞こえる車のエンジン音と猫の小さな鳴き声だけが、夜の静寂をかき乱している。捜査手帳を胸に当てながら、私は息を殺して辺りを見回した。
向こう側から、ジーパンを穿いた男がゆっくりと歩み寄ってきた。背筋をぴんと伸ばし、視線は私を捉えたまま、まるで獲物を狩る獣のようだ。顔立ちは彫りが深く、目はどこか遠くを見つめている。月明かりに照らされた彼の顔は仮面のように無表情だったが、その瞳には狂気と静かな暴力性が渦巻いているのが見て取れた。
「今夜は星がよく見える――雨が降らずにすんでよかった」
背後から低く、かすれた声が響く。私は不意に振り返ったが、そこには誰もいなかった。すると、さっき歩いてきた男が私の横に立っていた。距離が近すぎて気づかなかったのだ。男はぼそりと呟きながら私を見つめる。その声は意味を掴みかねるほど断片的だが、明らかにこちらを意識している。
「星……」私の声に、男は小さく笑った。
「星が踊る場所を探している――ゆるやかな記憶の海の底で」
男の言葉は流れる水のように綴られたが、文脈は断片的で詩的だ。私は背筋に寒気を覚えながらも、警察手帳を差し出した。
「失礼だが……君は今、何をしている?」
反応はない。男は沈黙したまま、不意に視線を右腕に落とした。私は彼の袖を見て戦慄した。――そこには乾いた赤い染みが広がっている。まるで色褪せた薔薇のシミのように、血の痕だけがはっきりと残っていた。
「何だ、そのシミは……」思わず口にした私の問い掛けに、男は意味ありげに微笑んだ。
「夕焼け色の砂糖菓子。儀式の名残さ」
言葉の意味がわからない。頭の中で思考が砕け散った。同行者の無線から同期の声が聞こえたが、その断片だけが胸に突き刺さる。「容疑者...見失うな……」
射されたような鼓動を押さえながら、私は男の腕にそっと触れた。指先に鉄の冷たさが走る。怒りにも似た不吉な予感が全身を駆け抜けた。
「喋るなよ」私は声を荒げる。
だが男は相変わらず無言のまま、低い闇に溶け込むように静かに笑った。その表情は生気を失った人形のように硬かった。刹那、背後の闇から鋭い音が響きわたった。振り返った瞬間、目の前の空気が揺らぎ、私は光の十字架が闇に刺さる幻を見た。
「――死体が踊ってる」
鼓膜を切り裂くような彼の声が耳に残る。振り返れば、彼の瞳に人の命の終わりが無造作に映し出されていた。私は喉から言葉が出なかった。まさにその瞬間、男は煙のように闇の中へ消え失せた。視界に残るのは、落ちていく雨滴と風に揺れる雑草だけだ。
足元の市電の踏切が青く光った。通過する列車の轟音が遠くで響いていた。だがその耳鳴りにすら、男の残像と彼の齎した言葉が重なる。恐怖と怒りが胸を引き裂く。震える手で時計を見ると深夜だった。
私は膝をついて息を整えた。冷たい風が顔を撫でる。月は低く傾き、都会のビル群が黒い影のように浮かんでいる。胸中で喉の乾きを覚えたが、声を張り上げる気にはならない。ただ全身にまとわりついた異様な夜気を力なく振り払った。
ふと、手帳の中で拳銃の冷たい重さを感じた。腰のホルスターに手をかけ、男の存在を追おうとしたが、目の前の現実が急に霞んだ。あの声と血痕の記憶が、私の五感をぐるりと取り囲んでいる。思考は螺旋のように反芻され、頭の中で混沌とした映像が浮かんでは消えていった。
「このまま終わらせてなるものか」私は小さく叫んだ――声は風に散った。たった一人、この空虚に誓いだけが錆びていく。
再び立ち上がり、足を踏み出す。やがて遠くで始発列車の警笛が鳴った。稲妻のような音に、再び背筋を伸ばす自分に気づく。私の足音だけが夜の闇に吸い込まれていった。
私は強く息を吐き、逡巡を振りほどいた。結局、何も捕らえられなかった。だが、この夜に起きたすべてを決して忘れてはならないと、胸の奥が疼く。眼前には東京の朝がゆっくりと明け始める。街灯が消え、冷たい初光がビルの谷間を淡く染めていく。
凍てつく空気の中で、私は自分の影を見下ろした。見知ったはずの街角に誰の姿もなく、ただ虚ろな静寂が広がっている。その底には、あの男が囁いた言葉だけが深く刻まれているような気がした。
朝の改札を抜けると、薄明かりの駅前が視界に広がった。背後では、日常の喧騒が音もなく迫り来るようだった。私は小さく笑った。たしかに疲れていたが――生きている。あの夜が夢だったのか現実だったのか定かではない。しかし、ここが確かに目覚めた世界であることだけは、私の身体が証明していた。
「もう二度とあの静寂に囚われることがないように」私は心で呟き、早足で駅舎の中へと消えていった。




