5 探索を始める
海水を被って少し頭を冷やした。
辺りを見渡すが、海岸線に人の住んでいそうな気配もなければ、パッと見て生き物の痕跡らしいものもなかった。
残念ながら川のようなものもない。目の前には密林、背後は海と砂浜。微かに上の方に小高い山のようになっているところはあるように見えるが、ここからでははっきりしない。
「——お帰りなさい。何か見えた?」
「人の気配はありません。静かですね」
「そう」
ラセルは砂の上に座って鞄を開けた。
「それは、ラセルの鞄?」
「いえ。非常持ち出し鞄です。襲撃を受けた時などに使うもので——あ、こちらを」
鞄の中から1枚のシートを取り出し、砂の上に敷いた。フィーアはその上に座る。
ラセルも鞄の存在は何となく知っていたが、中身を見るのは初めてである。護衛騎士になった時、有事の際は——と、軽く説明を受けただけだ。
「お嬢様、触らないでくださいね」
「はあい」
妙に返事はいいが、興味津々なようだった。
中身は携帯食料とタオル、あとはすべて魔道具だった。当面生きていけるようにという種々の道具だが、問題はフィーアがいる状態でどの程度使えるかだった。
「使えるもの、あった?」
ラセルは少し考えた。
どうあっても、今すぐこの場所を抜け出して屋敷に戻ることは難しい。当面ここで生活しなくてはいけないのは間違いないだろう。
通信機はあるが、帝国内の受信機があってこそ使える代物だ。一応フィーアから少し距離を取り、電源を入れて魔力を流してみた。
「こちらパーデンオス、反応を請う」
それだけ録音して、発信し続ける——特に反応はなかった。
じー、と僅かに動作音はしているから、ラセルの台詞を発信はし続けているようだが。
「それは何?」
「通信機です」
「へえ……」
フィーアが近づいた途端、ブブ、と微かに震える音がする。
反応か、と思い身構えると、通信機からどこかで聞いた声がする。
『こちらパーデンオス?』
ラセルの声だ。さっき録音した声がすこし高い音になって聞こえてくる。
『パーデンオス?こちら?』
壊れたように何度も繰り返す。自分の声が少し気持ち悪い響きになって耳に届くと言うのは、やや不快だ。ラセルは眉を寄せた。
『俺はパーデンオス!おす!』
「ぷっ」
フィーアが噴き出した。まるでラセルがふざけて高い声で言っているようだった。
ラセルは一旦電源を切った。
「離れてください」
「えー、面白いのに」
「お嬢様」
面白いってなんだ。遊びじゃないんだぞ。
と言う言葉をどう変換して伝えていいのか迷っている間に、フィーアは大人しく離れてくれた。距離を取って電源を入れ、岩の上に置いておく。
とはいえ、まあ期待はできないだろう。
「どう?」
「通信は、すぐには難しいと思います。鞄にスクロールは1つ入っていますが、どこに飛ばされるかわからないので使えません。魔道具なしでこの場所を抜け出し帰るにしても……長期のサバイバルは、覚悟していただかなくてはいけないかと」
「分かったわ」
あまりにもあっさりと頷かれて、ラセルは逆に心配になった。
「本当に、大丈夫ですか……?」
水も食料も、寝る場所もどうなるかわからない。いや、何とかするつもりではいるが、伯爵令嬢で不自由ない生活を送っていたフィーアにとって、過酷な生活になるのは間違いないだろう。
「大丈夫も何も、そうするしかないんでしょう?ラセルがそう判断したのだもの。それが正しいんだわ」
その信頼に、ラセルはしっかりと頷いた。1年前からずっと寄せられていた信頼である。
「必ずや、お守りし、パーデンオスまでお送りいたします」
「うん。よろしくね。——それで、じゃあ、まずは何をするの?」
この言い方では、ラセルの指示に従って、何でも手伝う、と言っているようだった。
ラセルは白魚のような美しいフィーアの手をちらりと見た。
当面してもらえることは思いつかないが……。
「最も優先すべきは、安全の確認です」
「安全」
「安全地帯の確保、地形の把握、探索ですね」
「ご飯じゃないのね」
「食料は優先順位で言うと、もう少し後です。食べなくてもある程度は生きていけるので」
フィーアはびっくりしたような顔をしていたが、それに関しては何も言わなかった。
本当にラセルの言う通りに従うつもりのようだ。
できれば、どこか高台に立って周囲を見渡すか、もしくは魔法で浮遊して空から見下ろしたい。——が、その間フィーアを一人にはできないし、魔法を使うのならフィーアから十分な距離を取る必要がある。
かといって一緒に連れて行くとなると、魔法を使わずに高台に行くのは困難だろう。
一人でサバイバルの経験は幾度となくあったが……フィーアを守りながらとなると、急に難易度が上がる。
「ここでもいいんじゃないかしら。砂がとっても柔らかいわ」
「そうですね。密林よりは……」
海に近い方が、視界も開けている。船でも通りかかれば見つけてもらいやすい。獣の痕跡もないし、岩陰だから海風も防げる。
潮の満ち引きにさえ注意していれば、まずはここがいいのかもしれない。
「じゃあ、私はここで待っていた方がいいわよね」
「しかし……」
「いつまでも一緒にいる訳に行かないでしょう?私はラセルについて行く体力がないから……。何かあったら大声でラセルを呼ぶわ」
フィーアは心細くないのだろうか。ここに一人で取り残されて。
しかし、現状ではそれが一番効率的だ。
ラセルは腰に提げていた短剣をフィーアに渡した。
「私……使えないわよ」
「ないよりは。ただのお守りです」
ラセルには腰に下げた剣がある。ナイフももう一つ持っている。フィーアの護衛騎士になってから一度も抜いていないが、手入れは怠らずに毎日行っていた。
「海には入らないように」
「え、だめ?」
「高波が来るかもしれませんし、泳げませんよね」
「はあい」
「ここから動かないでください」
「ちょっとくらいいいでしょう?」
「ちょっと、とは……」
確かに、ただじっと座っていろと言うのも過酷だ。
「では、ここから見える範囲だけ」
「分かったわ」
フィーアの目が輝いているように見えたが、ラセルは見ないふりをした。
まさか。ここへ来てわくわくしているなんてこと……いくらフィーアでも、そんなことはないだろう。
「では、行ってまいります」
ラセルは鞄の中からいくつか魔道具を取り出し、腰のベルトに下げていた布袋に入れた。
海岸線は、片方は遠くまで続いており、もう片方は崖になってその先が見えない。まずはその崖に上って、この周辺の全貌が見たい。
ラセルは早足で駆け出した。
崖は反り立っていてとても登れそうにはなかった。ラセルは軽く深呼吸をして、助走のつもりで少し跳んだ。
来た道を見れば、砂浜に点々と自分の足跡だけが残っている。岩陰からはまだ動いていないようで、小さくフィーアの人影が見えた。
この距離なら、問題ないだろう。
ラセルは足に魔力を込めて、それを一気に放出した。
ばんっ、と砂浜が弾けるような音がして、ラセルの体は宙に浮いた。そのままくるりと空中を回転して勢いを弱め、目掛けた木の枝につかまる。ラセルの体は一気に崖の上まで登った。
浮遊魔法、とまではいかないが、足元で魔力を爆発させることで跳躍力が高まる。ただし、着陸に失敗すると大怪我を負うため、どこでも使えるというわけではない。
それでも今はあまり時間がない。
崖の上からはまた海岸線が続いているのが見える。見渡す限り海で、地平線が見える。
あとは——ラセルは少し見やすくなった高台を見上げた。
木々が生い茂っていて苦労はしそうだが、魔法を駆使すれば、行って帰って来るのに1時間はかからないだろう。
ラセルは先ほど取り出した魔道具の電源を入れた。ボワン、と魔力が起動する音はするが、反応はない。
これは半径50メートル程度の生物を探知する『生物探知機』である。これで一気にこの場所の生物と地形を把握したい。魔力を込めれば込めるほど精度も範囲も広がる。
ラセルは高台に向かって走り出した。




