4 密林を、出てみる
ヂー、ヂヂッと虫の羽音のようなものが聞こえた。
見慣れない密林には、聞きなれない音ばかりだ。
虫にしては大きな音だが、他にたとえようがない。それが人に危害を加えるものなのかもわからないから、全てにおいて警戒するしかなかった。
目に入りそうになった汗を拭って、ラセルは周囲をもう一度見渡し、空も見上げた。密集した葉に覆われている。とにかくここがどこでどんな場所なのか、何か手掛かりを得ない事には、動けない。
暑くて騎士服を脱いでシャツになるが、元いたところは冬だった。シャツも長袖だ。すぐに汗で張り付いてくる。せめてと思い、胸元を編み上げている紐を取って開けた。
「ふう。私も脱いでいいかしら」
「お待ちを」
羽織る様な形で着ていた分厚いコートだが、それを脱ぐとドレスだけになる。どんな虫がいるかもわからないから、フィーアが密林で肌を出すのはやめた方がいいだろう。
「コートだけ、お預かりします。後はこの森を出てから」
そう言うと、フィーアの頬に、つう、と汗が伝った。相当暑そうだ。
「何枚着てるんですか」
「えっと……その、4枚、かしら」
珍しくフィーアが顔を赤らめている。——しまった、とラセルは思った。
これはかなり、踏み込んだ質問だ。貴族界では下着の事は勿論、ドレスの下がどうなっているのかを聞くのは勿論禁忌だ。
——枚数もそれに入るのか?
平民のラセルにはそこの辺りがよくわからなかった。
まあでも普通に考えたら、17の少女が22の男に、その下に何枚服を着ているのと聞かれれば——気持ち悪いか。
「とにかく、少しでも落ち着ける所で——」
コホン、と咳ばらいをしながら辺りを見渡す。
「あっちへ」
「ええ。——まあ、ラセル、見て!海よ!」
今まで数えるほどしか行ったことのない海を見て、フィーアは高い声を上げた。駆け出しそうになるのを慌ててラセルが前に出る。とにかく離れないでほしいと念を押す。
腰ほどの植物をかき分けて進み、そのすぐ後ろからぴったりとフィーアが付いて来た。
少し歩いただけで海辺に辿り着く。じりじりと厳しい日差しが照り付けていた。白い砂浜がずっと先まで続いており、穏やかな波音が聞こえる。一気に潮の香りがするから、これは海で間違いないだろう。
岩の影になったところで立ち止まり、ラセルは鞄をどさ、と砂の上に降ろした。
フィーア顔も蒸されたように真っ赤になっていた。早く薄着になった方がよさそうだ。
「ご自分で脱げますか?」
「それが、難しいのよね」
「……………」
おそらく、そこまで硬いコルセットはつけていないにしても。下着は後ろで編み上げるタイプだ。
ラセルは表情を硬くした。
「どうしても、無理ですか」
「ええ、どうしても」
「こうして、手を後ろに回して——」
「ラセル、しつこいわ。ちょっと紐を外すだけなんだから、手伝って頂戴」
そう言ってフィーアはさっさと上のドレスを脱ぎ始めた。
ラセルは慌てて足元を見る。護衛騎士として身に着いた癖のようなものだった。主人の身支度の際、自分の足を見るというのは。
「——ラセル?まだ?」
言われて恐る恐る見れば、フィーアは既に向こうを向いて、ドレスを腰まで下ろしていた。編み上げられた白いビスチェが露出している。
フィーアが長い髪を手で前にやるから、真っ白な細いうなじが露出した。もうすっかり汗ばんでいて、いくらか藍色の髪が張り付いている。
ラセルはごくりと唾を飲み込んだ。
——駄目だ。集中しろ、集中……。
相手は子供だというのに、一瞬艶めいたものを感じてしまい、ラセルは自分を殴りたくなった。
硬く編み上げられた紐の先端を握り、しゅっ、と音を立てて外す。手際よく紐を緩めて行き、一気に抜き取った。ぼとっ、とビスチェは砂浜の上に落下した。
ふう、とフィーアがほっとしたような声を漏らす。締め付けられていたところから解放されて爽快感はとてつもないのだろう。ぱたぱたと下着を扇ぐようにして風を送っている。やがてその下着も脱ごうとし始めた。
「——お嬢様!」
「寒かったから、ペチコートを2枚重ねていたの。1枚になったらちょうどいいと思わない?」
確かに、今着ている下着は袖があるし裾も長く窮屈そうだ。その下から覗いているペチコートと呼ばれる下着もワンピースタイプで、そちらは肩が紐のように細かった。
「誰かがいないとも限りませんので……それはあまりに」
そう、万一誰かにその姿を見られでもしたら。嫁入り前の伯爵令嬢が、下着姿で外にいるなどと。
「大丈夫よ。ワンピースドレスみたいなものじゃない」
「しかし……」
「わかったわ。じゃあ、下のペチコートは履いたままでいるから。
ぽん、とフィーアは腰の辺りを叩いて見せた。どうやらワンピースタイプのペチコートの下に、ズボンタイプの下着も来ていたらしい。それなら動き回っても、中の下着が見えることはない。——下着だけども。
——そうだ、あれはワンピースだ。水色のワンピース。
ラセルは自分に言い聞かせた。
ワンピース一枚で過ごすのは、平民の女性ならよくあることだった。
ただ、これほど華奢で白く、玉のような肌を露出した平民など、見たことはないが……。
フィーアのうなじに、つう、と透明の汗が流れる。思わずそれを人差し指で拭って、はっとして固まった。
今、俺は何をした?何の断りもなく、触れるだなんて。
「——し、失礼いたしました」
「あ、ハンカチね。さっきのドレスのポケットに……」
フィーアは特に気にしていないようだった。ハンカチを取り出して、自分の汗を拭く。
気を取り直して、ラセルは手に握られたままだったビスチェの紐をフィーアに見せた。
「——この紐、頂いてもよろしいですか」
「え……」
フィーアは驚いたように向き直り、そして怪訝な顔をした。
「ラセル……貴方そんな趣味が」
「ちっ、違います!紐は何かと、便利なので!これは編み上げに使うので頑丈ですし——」
立て続けに言い訳を並べたら、フィーアはこらえきれなくなった、と言うようにくすくすと笑いだした。
「冗談よ。ふ、ふふ……そんなに必死で否定しなくても。ごめんなさい」
ラセルはぐっと唇を噛んだ。
この場の雰囲気を和らげようとして言ってくれたのだろうか。分かりにくいが、フィーアはそういう所がある、多分。
しかし、やや後ろめたい所のあったラセルにとっては、ただ心臓に悪いだけの言葉だった。
どっと疲れて、ラセルは海に向かって歩き出した。
「そこにいてください。ちょっと海の水を見てきます」
「ええ」
薄手の格好になって涼しくなったのか、フィーアはリラックスした表情でラセルを見送った。
ラセルはそのまま海の方へと向かって歩き出す。
砂は細かく、歩くたびにきゅ、きゅ、と音が鳴った。今まで見たことのあるどんな砂浜より白いように思う。だから余計に太陽の光が眩しい。
そのまま海の中へ入って行った。水しぶきを上げながら歩いてみると、水が冷たくて気持ちいい。このまま潜ってしまいたいくらいだった。魚がいるだろうか。いれば、何とか食料にしたい。
顔を洗おうとして——先ほどのフィーアの汗を拭った手がまだ濡れているのに気付いた。親指でそこをなぞると、そこからはわずかにフィーアの香水か何かの香りがした。
汗臭い兵士に囲まれていた昔には、綺麗な汗があるという事を知らなかった。
そんなおかしなことを考えて——ラセルは慌てて冷たい海水で顔を洗った。