2 ラセルという軍人
ある日、シュバイツは領地の裁定記録の中に目を止めた。
ラセル——平民出身の期間雇用兵。
シュバイツにはその名に覚えがった。
3年前、他国からの侵略戦争が仕掛けられた際、シュバイツは軍隊の総指揮を執った。城壁を出て侵略軍を押し返すと決めた、最終決戦の日。
早朝から猛攻が始まった。太陽が中天に差し掛かる頃には、戦場は乱戦状態になっていた。
そんな土煙の中、大剣を振り回し、一際多くの敵を倒していた男がいた。一振りで数人を薙ぎ倒し、恐れることなく敵陣に向かって行く体の大きな男。自然とその背後に兵士らが集まり、あっという間に一軍の長のようになっていた。その活躍は目覚ましく、敵将の首も取って、報奨金を渡した覚えもある。
その男が、今は拘留されているという。
「このラセルという男、不服従罪とあるが。詳細を調べてくれ」
指示をすれば、有能な部下がすぐに調査してきた。
「どうやら、上官を殴ったようです。この者は3年前の侵略戦争の時からわが領で働いている、期間雇用兵です」
期間雇用兵。それは、定住せず日当で雇われる兵士である。戦時に大量に雇い入れられるが、ここパーデンオスは普段から軍兵の数が必要なため、正規の配下の他にそうした領地外の者も雇っている。
「覚えてるか?ほら、3年前、褒章も与えた男だ」
「はい。非常に有能な軍人でした。うちに来る前もあちこちで兵士として経験を積んでいたようでしたし」
「あれほどの腕前で、3年もの間期間雇用兵のままなのには、何か理由があるのか」
「出自でしょうか。おそらく誰からも推薦状がもらえなかったのでは」
本来、有能な兵士は、上官から声がかかる。兵団長や隊長クラスからの推薦状があって初めて認定試験を受けることができる。ラセルは一度も、どの上官からも推薦状がもらえなかったらしい。
「年は……21、という事はあの時まだ18か」
記憶を辿ってみても、そこらの兵士よりよほど恵まれた体躯をしていた。
「南方の異邦人のようです」
「ああ、なるほど。よく日に焼けた男だと思っていたら」
南方諸国には国交のない王国がたくさんあるが、肌の色が違う国も多い。
「南方という事で、差別の対称になっていたようです」
「全く……これだから第3は」
書類にはラセルの所属は第3部隊とある。ここの隊長は選民意識の高い貴族出身だ。傲慢な性格で、領民と何かと問題を起こすのもいつもそこだった。
よりによってそこに雇われていたとは。運のない男なのかもしれない。
「それで、上官を殴った理由は」
「支払いが滞っていたようです。これは噂ですが、支給されるべき物品や、食料についても粗悪品を渡していた可能性があります。要するに、劣悪な環境に、陰湿な苛めが積もり積もっていたようで」
シュバイツは頭を抱えた。
部下の調査はいつも正確だ。公的に調査を行うのと同時に、聞き込みや噂話まで、しっかりと裏付けをしているのだろう。
「調査して、適正に対処しろ」
「は」
こう言うだけで、部下は第3部隊をきちんと整理してくれるだろう。後手に回ってしまったのは、ラセルに申し訳なかった。
この時はまだ、ラセルが不等に扱われているのならば助けねば、と思った程度だった。
シュバイツはラセルを牢から出し、丁重に連れてくるように部下に命じた。
シュバイツの元に連れて来られたラセルは、3年前より少し頬はこけ、やつれた印象があった。
「——辺境伯爵様に、ご挨拶申し上げます」
そう言って軽く頭を下げる。軍人らしい頭の下げ方だった。
姿勢も良く、鍛え抜かれた肉体はこの3年、不遇に晒されていても衰えてはいないようだった。
南方と言われれば確かに、肌はやや褐色だ。それよりもはっきりとした目鼻立ちの方が他国の民であると思わせる。髪は茶褐色だが、ブルーシルバーの瞳も珍しい。
「3年もの間、君の処遇に気づかなかったのは申し訳なかった」
シュバイツがまず謝ったものだから、ラセルはかなり驚いたようだった。
何なら、牢から引き出されたときにはもう、死を覚悟したほどだった。上官を殴るというのはそれほどに罪が重い。
驚くラセルにシュバイツは優しい笑みを浮かべた。
「少し痩せたか」
「——私を、ご存知で……」
シュバイツは笑った。
「当たり前じゃないか!君に報奨を渡したのは私だろう」
ラセルははっとしてまた頭を下げた。
シュバイツはこの領地の主。軍の一番高いところにいる人だ。軍人ではあるから屈強な見た目ではあるものの、貴族らしい金髪碧眼で気品がにじみ出ている。住む世界が違う存在だった。言葉を交わすこともないほどに。
「顔を上げなさい」
ほとんど反射的にラセルは顔を上げた。軍人が控える時の姿勢でその場に立つ。
長い間過酷な境遇にあっただろうに、ラセルのその目は輝きを失っていなかった。荒廃した様子も卑屈になった様子もない。
狼を思わせるようなブルーシルバーの瞳は、ただ静かにじっとシュバイツを見つめ返していた。
シュバイツはその姿を見た時に、直感的になぜか、フィーアの姿が頭をよぎった。
「ここへ来る前はどんな仕事をしていたのかな」
「雇われの兵士です」
「その前は?これまで、どんな仕事をしていたんだ」
「この大陸に渡ったのは、5つの時です。身寄りがなかったので移動商人の元で下働きをして、その後護衛に剣を教わり、それ以降は、できる仕事を」
「さぞかし苦労も多かっただろう」
大陸に渡った、という表現をしたという事は、南方の諸島から来たのが5歳、という事だろう。
その見た目では、護衛の仕事もあったりなかったりなのではないだろうか。貴族は腕の良さより出自や見てくれを気にする者が殆どだ。
「仕事のない時には、冒険者の真似事をして、素材の採集や、その他色々……」
そうして3年前、パーデンオスが大量に兵士を雇い入れると聞いて、やって来た。
実力主義だから日当も良かったはずだ。正当に支払われていた間は。
シュバイツは痩せたラセルの体を眺めた。
「——あの……」
質問の意図を測りかねて、ラセルは不安げに尋ねた。
「私には可愛い娘がいてね。あ、息子もいるんだど」
「……は」
突然家族の話になってラセルは混乱した。しかし、特に尋ねることはしなかった。
長い間迫害を受けてきたラセルにとっては、話さないことが一番穏便に事を済ませる方法だった。破れた衣服から露出した肌には、無数の古傷が覗いている。
沈黙を守ることで、ラセルはこれまで、自分を守って来た。けれどその目は死んでいない。精悍な顔つきには、あの戦争で見た闘志が潜んでいる気がすると、シュバイツは感じた。
何より、魔法や魔道具に頼らずとも肉体をもって闘うことのできる男。
シュバイツの直感と経験が、良しと言っていた。
「専属の護衛騎士を探しているんだ」
「はい」
ラセルはそうですか、程度の気持ちだった。まさか自分がとは思いもしない。
シュバイツは続けた。
「君に頼みたいんだが、どうだろうか」
——冗談ではなさそうだ。からかっているのか?
表情の動かないラセルだったが、内心では相当驚いていた。
何かの罠なのか、しかし自分に対し伯爵がわざわざそんな時間を費やすだろうか。
「あ、大切なことを言い忘れていた。娘は少し特殊な……体質でね。色々と危険に晒されやすい。詳しい事は正式に雇用してから説明するが、君が想像しているような、貴族のご令嬢の側に立っているだけでは済まない、危険もある仕事になる、とだけ言っておこう」
シュバイツの言う事はよくわからなかった。それよりも、これが普通ではありえない提案であるという事は分かる。
「私は、平民です。それも異国出身の」
「私が求めているのは、ただ一つ。娘に忠誠を誓えるかどうかだ。君の全てをもってして娘を守ってくれるのなら、私は君に、それに見合う報酬を支払うと約束しよう」
ラセルは混乱した。一体自分の何をそんなに信用したのか、全く分からなかった。
「私はね、3年前、君が敵陣に斬り込む姿を今でも覚えている」
シュバイツの台詞は思いもよらないものだった。
こんな末端の兵士の事を覚えているという事も、まるで同じ人間のように扱われることも。
「臆することなく、使命を全うするその胆力。任務遂行に忠実な、その実直さ。そして何より、その恵まれた肉体と能力に、経験。君はきっと娘にとって、かけがえのない護衛騎士になるだろうと思うんだ」
ラセルは初めて感じる衝撃に、戸惑いから、心を揺さぶられるような不思議な感覚を覚えていた。
人から信頼と言うものを寄せられるのが初めてだったからだ。
何か裏があるのかもしれない。それでも、牢から出された自分に他の選択肢はなかった。
「承知しました。誠心誠意、お仕えいたします」
流れに身を任せるように。今までもそうであったように。
こうしてラセルはフィーアの護衛騎士となった。