22 ラセルの苦手なもの
この夜、前夜に聞いたあの不思議な獣の鳴き声は聞こえてこなかった。
隠遁の魔道具のせいかと思ったが、フィーアが眠った後は誤作動もなくなっていた。
本当に静かな夜だったとラセルは言って、朝食を採りに出て行った。
フィーアは残って、貝の殻を剥く作業を任された。昨日残った茹でてある貝を、貝殻を使い、掬い取るようにして貝殻から外していく。黙々と作業を続けていた。
お屋敷にいた時は普通に出されていたこの貝の身が、こうして一つ一つ丁寧に作業されていたのかと思うと、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいだ。
黙々と単純作業をしていると、考えてしまう。
昨日、ついうっかりペラペラと……。
「お酒って怖い」
よく父がお酒を飲んで楽しそうにしていたけれど——そう、楽しかった。なぜか楽しい気分になって。言わなくて良いことまで口走った気がする。
あと、ラセルが、いつもよりなんか……。
「あ」
手の中から貝が1つ、ポロリと落ちた。
そのままころころと転がっていく。
貴重な食料。考え事をしていたせいで失うわけにはいかない。
フィーアは慌てて追いかけた。どうしてそんなに転がるの、というくらいころころと、下の水場まで転がって、そのまま藪の中へ入りそうなところで、やっと止まった。
ホッとしてその貝に手を伸ばそうとしたら——藪の中からひゅっと黒い小さな影が出て来る。音もなく出てきて、あっという間に貝をパクリと食べてしまった。
トカゲ、のようにも見えるが……。
ギギギ、ギギ!
警告するような鳴き声がすると思ったら、頭が喧嘩し始めた。——そう、このトカゲには、頭が二つ付いていたのだ。
しかも、フィーアが知っているトカゲより随分と大きい。ニワトリほどの大きさのあるトカゲだった。
真っ黒な身体をしていて、背中に一本赤い線がある。全体的につるつるとしていて少し濡れているようだった。
魚よりも大きな生き物は、この島で初めて見る。
頭は二つでも、それぞれ違う意思を持っているようだ。ぎゃあぎゃあと騒ぎながら頭同士で喧嘩をしているようだった。貝の取り合いだろうか。
フィーアはそっと後ずさりして、作業していたところから貝をまた取って来た。隠遁の魔道具がきちんと仕事をしているのか、多少身動きしてもまだフィーアには気づいていないようだ。
再び戻ってきてまじまじと観察する。トカゲはクリクリの可愛い目をしていた。指も、4つに分かれてぺちゃっと岩肌を掴んでいるのが可愛い。
食べられなかった左の方のトカゲの頭に向かって貝を投げてみる。
ぱくっと素早く貝を口に入れて、丸のみにした。
もう片方のトカゲがさっとフィーアを見た。貝を投げたせいで気づかれたようだ。
逃げちゃうかな、と思ったら、逆だった。
トカゲは大きな口を開けて、威嚇するようにフィーアに向かって鳴いた。
シャアアアアアァ——!
そのまま襲いかかってきそうになる。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴を上げて、しりもちをついてしまった。
ドン、と音がして、見れば、いつの間にか帰って来たラセルがいた。
分厚い靴底で、容赦なくトカゲを踏んでいる。トカゲは苦しそうにもがいて暴れているが、ラセルの靴の下からは抜け出せないようだった。
「何だ……こいつ」
ラセルは心底嫌そうに顔をしかめた。
「ラセル!ごめんなさい。可愛いと思ったのに……」
トカゲはまるで抗議でもするように、ラセルに向かってギャアギャアと鳴いていた。離せ、とでも言っているかのようだった。
それが、ラセルがナイフを取り出した途端、震えあがったように止まった。
「ねえ、ラセル。このトカゲ……」
「ああ」
違和感があった。ラセルも同じように感じているらしい。
大きさからしておかしいが、それだけではなく。このトカゲは妙に賢そうだった。
小動物でも、ナイフを見せただけでこの反応はしない。
ちょうど、魔力を有した魔物が、こういった知性を持つと聞いたことはある。ただ、魔物はもう何百年も王国に出没していない。
この島にその魔物がいるのだとしたら、この無人島生活は随分と話が変わってくる。
「フィーア様、あの網を」
ラセルが指さしたところには、細めの蔦で編んだ網があった。昨夜のうちにラセルが編んだ網だ。フィーアは急いで持ってくる。
トカゲをそれに入れるのかと思ったが、ラセルはそこからなかなか動かなかった。
「ラセル?どうしたの?」
生け捕りにするかと思ったら、ラセルは迷っているようだった。いや、どう手を出していいか躊躇っているような。
「捕まえないの?」
「いや……その。——そうだな」
ラセルが珍しく、手を出しあぐねている。それに、踏んだ足から精一杯離れようとしているような。
「ラセル、もしかして……トカゲが、苦手なの?」
「苦手というか……いや、まあ、ああ」
非常に歯切れが悪かった。
つつ、と目線をトカゲから逸らす。
「昔……小さいころ、ベッドにカエルを入れられたことがあって」
「何それ、最悪」
起きたらカエルに埋もれていた。それだけではなく、口の中にも入れられた。その時パニックになって、それ以来トラウマのようなものだ。爬虫類全般が苦手になっている。
だから食料調達でも、敢えて爬虫類は探さなかった。
「分かった。私がやるわ」
フィーアは意を決して、トカゲに近付く。
「やるって……何を」
フィーアが網をざっとトカゲの頭から被せた。手際よく網の中に入れて、きゅっと口を結ぶ。
トカゲはまたギャアギャアとうるさく鳴いていた。
ラセルはさりげなくその網から距離を取った。危険はなさそうなので、そのままフィーアに任せることにする。
「魔物と普通の生き物との違いって何なのかな」
フィーアはまじまじとトカゲを観察した。大きさと頭が2つあることを除けば、特に他に変わったところはない。王国には魔物が出ないから、その辺りの知識がフィーアにはなかった。
「見た目は、確かに変わってるけど」
「知性と魔力を有することだ。簡単に言うと」
「魔力……」
フィーアはふと思いついて、トカゲに手を伸ばした。つん、とその背中に触れてみた途端——。
ビビビビビ——。
探知機が鳴る。指を離すと、ぴたりと止む。
何度か試したら、そのたびに探知機が鳴った。
「ちょっと面白いわねこれ」
「——これは、つまり、そう言う魔力か」
この魔物は探知機に探知されない、何らかの魔力を有している。フィーアが触れるとそれが歪められて、探知機が正常に反応する。
偵察に来たのか……?
「魔物って、本当にいたのね」
「大陸では見ないが、俺の出身地ではちらほらいた」
魔物だから悪いもの、というわけではない。ただ、普通の獣より少し凶暴で、知性があって、時折人間と小さな争いが起きることもある。
しかし、基本的には目立たない所でひっそりと暮らしている、夜行性の生物だ。
ラセルはじっとトカゲを観察した。
魔物でも、このトカゲにはほとんど魔力はない。戦闘力も低そうだ。知能があるとはいえ、賢いとまではいかない。
このまま放してしまっても大丈夫だろうかとも思う。相手は、こちらを恐れて隠れていたようだし。
ただ——万が一トカゲの大群に襲われることを思うと、ラセルはそれだけで背筋が凍った。
「どうする?この子」
「いや……」
「食べる?」
フィーアが何気なく聞いたのに対し、ラセルは固まった。
吐き気までこみあげてきて、うっと目をそらす。
「あ、ごめん。そんなに駄目なのね」
ラセルが青い顔をしているのを見て、フィーアはラセルから見えないようにトカゲを遠ざけた。
「そんなに嫌なら……あっちで放してこようか」
「いや、ここでいい……」
本当なら殺した方がいいのかもしれない。しかし、仲間を呼ばれて恨みを買っても嫌だし、取り敢えずは穏便に済ませたい。とにかく早く視界から消えてほしい。
フィーアができるだけラセルから離れた所で網の口を開くと、トカゲはあっという間に見えないところに逃げて行った。
トカゲを食べる?って何気なく聞いちゃうご令嬢……




