19 名前で呼んで
海岸に辿り着いた二人は、潮だまりの方へ向かった。
潮が満ち始めていて、潮だまりと海はもう既につながっている。
その、海との境界線当たりの岩に腰かけて二人は並んだ。
「とりあえず、この先を海に垂らしてみてください」
ラセルは魚の骨で造った釣り針に、魚の焼けた残りを丸めたものをくっつけた。
「え、いいの?どのあたりに?どんな感じで?」
「適当で」
ラセルは圧倒的に説明不足で、何をどうすればいいかわからない。そんな様子のフィーアにラセルが笑った。
「肩の力を抜いてください、お嬢様」
フィーアの手を取って釣り竿を握らせる。そのまま一緒に握って、釣り糸を海の方へ投げた。
重りをつけていない釣り糸はふわりと宙を舞って、そのままぽとりと海面に落ちる。海面すれすれをぷかぷかと魚の骨の針が浮いている。
「こ、これで……?」
こんなことで本当に魚が来るのだろうか。
まだ肩に力が入ったままのフィーアが、海面を凝視しながら聞く。
「あとは待つだけです」
ラセルはそう言ってそのままごろりと寝そべった。
えっ、と思ってフィーアは釣り竿の先とラセルの珍しい寝顔を交互に見つめた。
「ラセル?寝るの?」
「はい。少し休もうと思います。疲れたら代わるので、言ってください」
「さ、魚が来たらどうしたらいいの」
「引っかかったら、持ち上げます」
腕を組んだまま、仰向けで、顔の上に一枚の布だけかけて、そのままラセルは喋らなくなってしまった。寝ているのかどうかは分からないが、規則的に胸が上下している。
ええー……。と思いながらも、取り敢えず自分に与えられた仕事を全うしなければ、とフィーアは釣り糸の先を見つめた。
海の向こうではきらりと光るのが、きっと魚だろう。魚は、いる。確実にいる。でもこんな餌で、本当に魚が寄って来るのだろうか。
こんな広い海でこんな小さな餌を見つけるなんて……魚はものすごく目がいいのかしら——なんてことを考えながら待つこと、数十分。
——肩の力を抜いてください。
ラセルのさっきの言葉が思い出された。
確かに、力を入れていても釣れるわけではないし。肩が凝ってきた。
フィーアは肩をぐるぐると回しながら、ふう、と息を吐いて力を抜いてみた。
ちら、と横を見れば、ラセルは先ほどと同じ格好のまま動いていない。本当に寝ているのかもしれない。
だって、昨夜は火の番をしながらほとんど寝ていないんじゃないだろうか。
獣の音がするたびに警戒しつつ、周囲を見回って。空いた時間で蔦を編んだり、竹でコップや水筒を作ったり。
ラセルは万能すぎる。
この明らかにお荷物でしかないフィーアの面倒をものともせずに見てしまえる人なのだ。だから、何としてもラセルには美味しい魚を食べてほしい。
また肩に力が入りそうになって、フィーアはいけない、と思い直す。
ラセルは分かっていてこうして魚釣りに誘ってくれたのだろうか。
フィーアが空回りして、やりすぎないように。そしてリラックスするように、わざと隣で眠って見せて。
屋敷にいる時は、やや口うるさい護衛騎士だった。完璧に魔道具の誤作動から守ってくれる優秀な騎士ではあったが、貴族出身ではないだけあって、砕けた調子の応対がとても新鮮で。
やれやれと言った様子で呆れながらも付き合ってくれる毎日が、最近は本当に楽しかった。
家族が心配しているだろうなという気持ちより、今は、あの日々に戻りたいという気持ちが強い。
まだ一日しか経っていないというのに。
「あ」
そんなことを考えていたら、釣り糸が不自然に揺れた。
「あ、ああ……」
魚だ。どうしたらいいんだろう。
ラセルは何と言っていた?引っ張っていいのだろうか。
どうしよう、と引っ張ろうとしたら、急に手を掴まれた。ごつごつした、大きな熱い手。ラセルの手だ。
「しっ。まだです」
寝てなかったのだろうか。
まず思ったのはそれだった。
そのまま待っていると、ぐん、と海面に向かって引っ張られる。
「今です、上げてください」
急かすでもなく落ち着いた声で言われたけれど、フィーアは慌てた。慌てて引き上げたから大きく弧を描いてぶらりと釣り糸が振れたが——その先には、確かに魚がいる。
手にもぶるぶると魚が暴れる手ごたえがあった。
どうしよう、外れてにげてしまう——そう思うよりも早いくらいで、ラセルはぱしっとその魚を手で掴んだ。
そういえば伝書鳩の魔道具も正確に掴む人だった。魚を掴むくらい朝飯前なのだろう。
「お嬢様、やりましたね」
「うわあ……」
さっき潮だまりで掴み取りした魚より、3倍くらい大きい。銀光りする鱗に、澄んだ青い眼をした、良く太った魚だった。
感動で声も出せない。
本当に、これでうまく釣れるだなんて。ラセルがいなかったら釣れなかっただろうけれど。
「ありがとう、ラセル!すごいわ!」
「良かったです」
ラセルはふっと笑った。
喜ぶフィーアを見て、思わず笑ったという様子だった。
その笑顔があまりに優しくて、フィーアはつい、見とれてしまった。
「もう1匹、頑張りましょう」
魚を外して、はい、とまた餌をつけて渡された。釣り竿はフィーアに任せて、そのままその場でナイフを使い、鱗を剥がし始めている。
釣り糸を垂れながらその作業を見守って、大きな手が器用に魚をさばいていくのを見て、フィーアはつい見入ってしまった。
「——本当に、ラセルは何でもできるのね」
「冒険者は、自分の飯を、行く先々、自分で調達するものなので」
「うん……」
ラセルは魚の肝を取り出して、そのまま釣り糸を垂れている場所に投げ入れた。
血の匂いで魚をおびき寄せるらしい。魚は、目じゃなくて匂いで寄って来るんだとか。
「初回で釣れるというのは、なかなかないです。お嬢様は釣りの才能がおありですね」
「え、ほんと?」
「はい。即席の道具なのに、この短時間で釣れるのは」
ラセルが潮だまりだった場所に降りて、魚を洗っている。そのまま袋にしまった。
「明日から、潮だまりと一緒に、釣りも私の係でいい?」
「頼もしいです」
あっさりと許可されて嬉しくなる。ラセルに何かを任されるのが、単純に嬉しかった。
「釣りは楽しいですか」
「それもだけどね。役に立てるのが嬉しいの」
ラセルはすこし考えたような顔をした。
「もう既に」
その言葉は、何より嬉しかった。フィーアは力を得てラセルを見上げた。
「ねえ、じゃあ、私の事、名前で呼んでくれない?」
「は」
「私たちはここで、二人、運命共同体でしょう?」
「それはちょっと……」
「ちょっと?」
運命共同体、と言う部分になのか、名を呼べと言う部分になのか。
しかしフィーアは諦めなかった。
「——その喋り方もね。ここに来た時、ラセル私に怒鳴ってたじゃない」
「それは」
「そっちが素なんでしょう?もっと普通に喋ってもらえない?」
「いえ、その」
「パートナーなのに」
「……………」
ラセルは困ったように黙り込んだ。
強い口調で念を押されて、今更、パートナーと言ったのを取り消すわけにもいかない。
ラセルは覚悟を決めた。まあ、無人島にいる間だけでも。
「フィーア様……」
「様はいらないわ」
譲らない様子だったが、それだけはラセルも、どうしても難しかった。
いくら年下とはいえ、これまで絶対に守り抜くと決めていた主人に対して、いきなり呼び捨てはあまりにも、無理がある。
「——勘弁してください」
「えぇー……駄目なの」
目に見えて落ち込む様子のフィーアに、一体何がしたいんだろうと本気で分からなくなる。
友人が少ないフィーアの事だから、そういう、パートナーとか友達のような存在が欲しいのだろうか。
ラセルは小さくため息をついた。
「じゃあ、喋り方を、素に戻してもいいか。不愉快になったら、すぐにやめるから」
フィーアは意気消沈した様子から一気に浮上した。
「ええ!」
その大喜びの顔が、夕日に照らされて赤く見えていた。




