プロローグ 行き先は……あら?
ビリッ……。
その微かな、しかし不吉な音をラセルは聞き逃さなかった。
「あら?」
ラセルの緊張とは対照的に、呑気な声がする。
ラセルの主人、伯爵令嬢のフィーアの声である。
「破れちゃったわ?」
「や、やぶれ——」
フィーアの手にあるのは紙切れ——いや、この魔道具倉庫に紙切れが置いてあるはずがない。おそらくは移動魔法陣。破ることで発動する魔道具だ。
ラセルは慌てて駆け寄った。咄嗟に手近なところにあった非常持ち出し用の鞄を掴み取ったのを、自分でも褒めてやりたい。
フィーアの手にある紙から発光が始まった。ラセルは咄嗟にその光の中に手を伸ばし、フィーアの体を掴むしかない。
移動魔法陣を奪い捨てようかと思ったが、もう手遅れだった。魔道具は発動し、フィーアの体は既に消えかかっていた。
さすがのラセルも、今回ばかりは絶望的になる。
「この……ばかやろうが!」
ラセルは思わず叫んだ。
主人に対して、今まで一度もそんな口をきいたことはなかったというのに。
魔道具の保管庫から、2人の体は音もなくシュッとかき消えた。
「まあ、ラセル、今何て言ったの?」
チーチチ、と聞いたこともないような鳴き声がする。
発光に包まれた後だからチカチカして、ラセルの目はまだ利かない。
「貴方、そんな言葉遣いもするのね」
呑気なフィーアの言葉に、ラセルの怒りは頂点に達した。まともに開けられない目を押さえたまま、手を突き立てる。
「荒くれ者のよう——」
「黙っていてくれ、頼むから!」
かなりキツい物言いになってしまった。
ここがどこで、どんな危険があるかわからないから、とりあえずラセルは手探りでフィーアの肩を掴んだ。そのままふう、と息を整える。
——落ち着け、俺。怒っても仕方ない。
「目が痛いの?大丈夫?」
心配そうな声がする。
移動の魔法に乱入した形になり、移動魔法の強烈な光をまともに浴びたのだから仕方ない。
それも少しずつ慣れてきた。
「ラセル……」
ゆっくりと目を開け、まず目に入ったのは、心配そうにラセルを覗き込むフィーアの顔だった。
深いアメジスト色の瞳がキラキラと光っている。
ラセルはフィーアから手を離して辺りを見渡した。護衛騎士として、何より状況を把握するのが先決だ。
チチチ、キャッキャ——ボー、ボウ。
聞いた事のない鳴き声があちこちから響いている。
遠くに見えるのは太陽の照りつける砂浜、近くには見たこともない形をした鬱蒼と茂る植物達……。
間違いない。ここは、ラセルの全く知らない土地だ。それも、おそらく元地点よりかなり遠い。
「——あら?ここはどこなのかしら」
ラセルが周辺を警戒しているから、ようやくフィーアも気づいたようだ。それでもこの呑気な声にラセルは少し救われた。慌てふためいたり泣き叫ばれても、ラセルにはどうしようもないから。
「スクロールが発動しましたので」
「スクロールって……この紙?まあ。包み紙かと思ったわ」
「包み紙が魔道具倉庫にあるわけないですね」
フィーアは手元にあって、もうただの紙切れとなったスクロールをまじまじと見つめた。
「はじめて見たわ。本当に、ただの紙なのね。あ、でもちょっとつるつるしている。不思議——」
ラセルは黙ってフィーアの手にある紙を奪った。破れた所を合わせて見れば、それは王都につながる魔法陣が描かれていた。
「王都……」
では、ない。
「まあ、ラセル。貴方王都を知らないの?」
フィーアはくすくすとおかしそうに笑った。
「ここは王都じゃないわよ。流石の私も、それくらいはわかるわ」
フィーアは領地からほとんど出たことがない。それでも伯爵令嬢である。何度か王都を訪れたことはあった。
ラセルは怒鳴りたくなる気持ちを何とか抑えた。フィーアの護衛騎士となって、1年程度。最近やっと、フィーアに全く悪気がない事が分かって来たし、慣れてきた所だ。
「この魔道具は、本来の行き先が王都になっているので」
ラセルは慎重に、ゆっくりと答えた。
「では、私が発動させてしまったのね。——ごめんなさい」
こうやってすぐに謝るのはフィーアの素直なところではある。しかし、謝ったところでこの状況はどうにもならない。そもそも事の重大さが、フィーアにはまだわかっていないような気がする。
ラセルは深刻な顔でフィーアを見つめた。
フィーアの特異体質さえなければ、この鞄に入っているだろう予備のスクロールで帰還することができる。しかしこの体質こそが、ラセルがフィーアの護衛騎士となった原因でもあり、最も厄介な物だった。
「どうやって戻ればいいのかしら」
フィーアが首を傾げる。伯爵令嬢らしい優雅な仕草で、深い藍色の髪がゆらりと揺れた。この密林の中、ドレスが何と不似合いな事だろう。
ラセルは言葉を選んだ。ここでフィーアが取り乱したりしたら、面倒なことになると思ったからだ。
「移動スクロールは1枚ありますが……お嬢様の体質のことがあります。次もまたどこへ飛ばされるか」
フィーアは瞬時に事の次第を察したようだ。真面目な顔になって頷いた。
「恐ろしい魔道具なのね」
——恐ろしいのはあんたの体質だ。
ラセルは心中で呟いた。
フィーアは魔法を捻じ曲げる特異体質の持ち主だった。それこそが、ラセルが雇われた理由だったのだ。
何とかしなくてはいけない。ラセルはこのために雇われたフィーアの専属護衛騎士なのだから。これは少し——いやかなり、想定の外をいってはいるが。
ラセルは元軍人である。冒険者としての経験もある。幾度となく死線を潜り抜け、もう駄目だと感じた苦しい状況も克服してきた。あらゆる苦難にも耐えて来たし、耐えられないことはなかった。
だから今回もきっと、何とかなるはずだ——いや、して見せる。乗り越えられない壁はない、多分。
この世間知らずで特異体質なお嬢様を無事、何としても元の場所に送り届けなくては。
「あら、ラセル、汗が」
はい、とシルクのハンカチを差し出された。
「お嬢様……それどころではありません」
このまとわりつくような湿気と暑さでは、おそらく汗を拭うことなど意味をなさないだろう。
一体何から始めればいいのか。ラセルはとりあえず、気持ちを落ち着けるのが最優先だと痛感した。
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