中編 ―星図の授業―
雨が上がった朝、校庭の水たまりはまだ夜の雲を映し、逆さの空を切り取った鏡のように光っていた。私は黒板消しの匂いを残す教室で、授業前のざわめきを背に、自由帳の余白へ鉛筆を走らせる。濃い石墨が紙をこすり「送り火座」「影送り座」──昨夜まぶたの裏に残った星座を、点と線でなぞっていく。細い線が震えるたび、私の鼓動も雨粒みたいに跳ねた。
古関先生はチャイムと同時に入ってきて、濡れ縁で払ったのか肩に水滴をいくつか乗せていた。先生は背中に木箱を抱え、その中から錆びたリールをそっと取り出す。先週、階段で見つけたフィルムと同じ銅色の縁が、蛍光灯を受けて鈍く瞬いた。
「今日は特別授業だ。昔の開校式をみんなで見て、そこに“自分たちの時間”を重ねる方法を考えてみよう」
ざわざわと机が揺れ、友達の歓声が跳ね返る。私は息を詰め、胸の奥でハンドルの逆回転を思い出した。まだ撮られていない未来が、本当に映るのなら──。
教室のカーテンが閉ざされ、蛍光灯が落とされる。薄闇の中でレンズが光り、白い壁がスクリーンに早変わりした。最初に現れたのは、昭和の子どもたちが整列する映像だ。リールは前向きに回っているはずなのに、画面の中の人たちはどこかぎこちなく、まるで時間を探るように歩いていた。私は机に爪を立て、観察する。もし逆再生の兆しがあれば、何かが起こる。
その時、不意に映像がぶつりと途切れ、黒い帯が走った。みんなが息を呑む間もなく、白光の中へ「おくり火ざ」の文字が浮かび上がる。私が描いたはずの星図だ。ペンを握る映写の私の手元が一瞬映り、クラスの机が映り込み、現実と映像が重なる瞬間、誰かが小さく悲鳴を上げた。
「影山、これ君が撮ったのか?」
先生の問いに私は首を振る。撮ってなどいない。まだ未来だからだ。なのに画面の私が振り向き、こちらへ笑いかける。その笑みは歯車の軋みと同じ音色で胸を鳴らし、私の影を壁に縫い付けた。
フィルムはそこで止まった。暗室のような教室に静寂が降り、みんなの呼吸音が波のように揺れる。先生は固い声で指示を出した。
「よし、この続きは……班ごとに“私たちの星図”を撮ってみよう。逆再生でも早送りでも構わない。時間を好きに編集して、“未来の教室”を描いてほしい」
カーテンが開くと、窓の外は嘘みたいに晴れていた。雲が高くちぎれ、梅雨の隙間から陽射しが差す。私たちは班に分かれ、カメラ代わりのタブレットを胸に校舎へ散った。
私は渡り廊下を走り、理科室の天井に吊られた古いプラネタリウム模型を回し、映像の冒頭に逆向きに回る星を撮る。それから図工室で絵の具を混ぜ、水面みたいな群青を作り、未来の夜空を描いた。カメラは混ざる色を逆さに吸い込むように巻き戻し、青が白へ戻る瞬間を捉えた。
放課後、編集作業が終わるころには、校庭の影が伸びていた。タブレットの小さな画面で確認すると、班のみんなの名前を灯にした星図が、逆回転で“送り火座”へ収束し、その中心に空白がひとつ残った。
「ここ、影山の星を入れようよ」
同じ班の正夫くんがタッチペンで空白を指した。私は首を横に振る。
「まだ映してない。今夜、影送りの川を撮るつもりなの」
正夫は目を丸くして笑った。「おばけ出ても知らないぞ」。
帰り道、土手を歩くと川面に夕陽が沈みかけ、赤銅色の光が水を滑った。去年の送り火の夜、私は影送りの灯籠を見られずに帰った。怖かったのだ。灯りが闇に溶けてしまうのを見るのが。でも映写機が示した未来では、私は黒板に星図を描き、笑っていた。その顔は、闇で灯籠が消えても新しい光を描けると教えていた。
家に着くと、母が古い紙製ランタンを布巾で磨いていた。檜油のかすかな匂いが漂い、私の心は不意に早鐘を打つ。
「今年の影送り、私も川まで持っていくね」
母は驚いたように顔を上げる。けれどすぐに頬を緩め、うなずいた。
「いいわ。一緒に送りましょう」
その夜、星は薄雲を透かして滲み、川沿いの提灯にはまだ火が入っていなかった。私はタブレットの録画を準備し、ランタンに灯芯を差す。母が火をつけると、淡い橙が紙細工の花弁を染め、影が水面に二重写しになった。
撮影ボタンを押す。映像の中で時間が静かに前へ進み、ランタンは川へ滑り出す。私はその背を追い、画面いっぱいにゆらめく灯を捉えた。やがてそれは闇へ吸われたが、不思議と怖くなかった。代わりに胸の奥でなにかが点り、暗がりを押し返す温度になった。
タブレットを止めて空を仰ぐと、雲が割れてひときわ大きな星が輝いていた。あれが私の空白を埋める星だ、と直感した。
帰宅して映像を逆再生すると、灯籠が川面から蘇り、ふわりと空へ戻っていく。逆行する光の粒が画面の中心で星になり、私の名前を持たないまま“送り火座”へ重なった。
私は明日の授業が待ちきれず、ノートに星を描き足す。慎重に線を伸ばし、最後の一点を深く刻む。それは私自身の灯りであり、母と私を結ぶ糸であり、まだ見ぬ未来と教室をつなぐ小さな始点だった。
窓の外で川の水音が遠く響く。闇に流れるそのリズムは、映写機の歯車のざわめきにも似て、眠りかけた私の耳に「終わりではなく、次の幕が開く合図だよ」と囁いていた。