前編 ―フィルム室の放課後―
五時間目のベルが教室の天井を漂うころ、外の雨はまだ止まず、窓際の桟を伝う雫がガラスに斜線を描いていた。先生の「起立、礼」の声より早く、私はランドセルの留め具を鳴らして立ち上がる。教室の床は濡れた靴底が運んだ泥で斑模様になっていて、チョークの白粉と一緒に曇った匂いを放っていた。
廊下へ出ると、濡れ色の空気が頬にまとわりつく。電気はすでに落とされ、奥の非常灯が緑の小さな窓を灯している。みんなは昇降口へ向かったが、私は反対側――薄暗い西階段へ足を向けた。そこは数ヶ月前に「旧暗室」へ続く扉が閉じられてから、ほとんど誰も通らない。
理由は簡単、怖いからだ。長い影が曲がりくねって伸びるその階段は、梅雨時になるとコンクリ壁の湿気が息をするように重なり、かび臭い息を吐く。けれど私には、ここに来なければならない確かな理由があった。
先週の日曜、母が夕飯の支度をしながらぽつりと告げた。
――昔ね、この学校にはフィルムの神さまが住んでいたの。映写機を逆に回すと、まだ撮られていない“これから”の影が映るって。
母は「ただの迷信よ」と笑ったが、その目は冗談の奥で薄く濁り、どこか遠くを見ていた。だから私は信じてしまった。母の言葉より、母の瞳を。
すり減った踊り場にたどり着くと、そこに“神さま”はあった。黒鉄の脚でじっと立ち、レンズキャップを失くした瞳をこちらへ向けている。ハンドルには赤錆がこびりつき、油膜が剥がれた金属の匂いが漂っていた。傍らに転がるブリキ缶には、埃を被ったフィルムのリールが収まっている。ラベルには黒いインクで「苔町小映写会一九七六」と読めた。
私はランドセルを下ろし、リールをそっと抱き上げる。紙より薄いセルロイドが湿気に波打って、指先をぬるりと滑った。怖気が背を這い上がる――でも手放さない。母の話が嘘じゃないか確かめるには、自分で回すしかないから。
映写機の給送軸にリールを差し込み、ハンドルに掌を添える。心臓は校庭の太鼓より速く鳴り、耳の奥で雨音と混ざる。
「逆に回すんだよね……」
声に出してみると、階段のコンクリ壁が小さく反響した。私は息を吸い、ぐ、とハンドルを逆時計に押した。
――カラララッ。
歯車が噛み合い、くすんだ光がレンズの奥で脈打つ。スクリーン代わりの白壁へ、最初ぼんやりと丸い影が灯り、すぐに滲んで伸び、教室の映像を結んだ。だけど机も椅子もひっくり返っている。子どもたちの足が空を蹴り、チョークの粉が床から舞い上がって黒板へ帰っていく。時間が逆流しているのだ、と胸の奥が冷えた。
画面の隅に、ランドセルの赤い背が見えた。私――未来の私? いや、まだ撮られていない映像のはず……。赤い背中はくるりと振り向く。顔は逆光で見えないが、肩越しに黒板へチョークを走らせる。
〈おくり火ざ〉
白線で綴られた文字は逆再生でも崩れず、むしろ眩しかった。私は飲み込まれるように見入り、忘れていた呼吸を取り戻すとハンドルを止めた。映像は途切れ、階段の闇が再び深くなる。
その瞬間、背後で靴音が跳ねた。びくりと振り向くと、そこには古関先生が立っていた。
「もう下校時刻だぞ、影山」
先生は私の肩越しに映写機へ目をやり、困ったように笑う。
「それ、校史室に寄贈する予定だったんだ。動くのか?」
小さな嘘が喉をふさぐ。だけど私は映写機の脇に置かれたフィルム缶を見つめ、声を振り絞った。
「わたし……これ、もうちょっと見たいです」
先生は驚いた顔をしたあと、雨音にかき消されるほどのため息をついた。
「なら、来週の“星図の授業”までにレポートを書いて持っておいで。観察したこと、感じたこと……ぜんぶ。いいね?」
私は頷いた。ハンドルを逆回転したままの映写機の匂いが、なぜか檜油の灯籠を思い出させた。母の影送りの川。もしあの映像が未来なら、私は母をその光の中へ連れていけるかもしれない。
先生と階段を引き返す途中、窓の外で稲光が走った。瞬間、ガラスに私と映写機の影が重なり、白い閃光の中で揺れた。影がふいに背を向け、私を先へ誘うように伸びる。不意に胸が熱く疼いた。
(わたしは、まだ撮られていない時間を歩いているんだ)
昇降口の戸を開けると、雨は少し小降りになっていた。制服の袖を濡らしながら、私は母の待つ家までの道を急ぐ。
夕闇の向こうで、川沿いの土手に並ぶ提灯の灯りが揺れている。毎年夏至の前夜、村では子どもが提灯を流して影送りをする。私は去年、その灯りが暗がりへ吸い込まれるのを恐ろしくて見届けられなかった。今年は違う――映写機で見た眩しさを胸に、流れていく影に「またね」と言える気がした。
家に着くと、台所から味噌汁の湯気と雨の香りが混ざった匂いが漂ってくる。母は振り返り、濡れ鼠の私にタオルを差し出した。
「遅かったじゃない。映写機、見つけたの?」
問いに私は目を丸くする。母は微笑み、濡れた前髪を撫でてくれた。
「昔ね、その階段でおじいちゃんが映画を回したの。逆に回すと未来が映るって、聞いたことあるでしょう?」
「うん……映ったよ。教室が、みんなが、逆さに動いてた。でも黒板に“おくり火ざ”って文字があったの」
母の指がふと止まる。台所の明かりが揺れ、母の瞳に映った私の顔が少し震えた。
「送り火座……」
つぶやきは味噌汁の湯気に溶けた。母はふと我に返り、笑顔をつくる。
「お風呂、先に入っちゃいなさい。風邪をひくわ」
頷きながら、私は頭の中で映写機の歯車音を反芻した。カラララッ――あの逆流する時間のざわめき。映像の中の私が描いた星図。それをクラスのみんなと見られたら、どんな未来が映るだろう。
夜、布団に入っても雨脚は細く続き、屋根瓦をやわらかく叩く。私はまぶたを閉じ、黒板に浮かび上がった「おくり火ざ」の文字を思い浮かべる。
その中心には、まだ描かれていない星がひとつあった。それが私自身の灯りなのか、母の影送りの灯火なのかはわからない。でも、手を伸ばせばきっと届く。映写機が逆さに回りながら示した道しるべ――あれは怖いものじゃない。時間の向こうから差し伸べられた、遠い明日の光なのだ。
私は掛け布団の下で拳をにぎった。来週の授業で、もう一度フィルムを回そう。教室の灯りを落とし、みんなで未来の星図を探すのだ。
雨がやみ、静けさが降りてくる。耳を澄ませば、遠い川の方で小さく鈴が鳴った気がした。――送り火の川。母の灯籠が流れる夜。私は瞼の裏で川面を想像し、その灯りの隣に自分の小さな星が並ぶ光景を思い描いた。
やがて眠りの底で映写機の逆再生音が遠ざかると、そこに重なるように新しい音――未来へ進むフィルムの滑らかな回転音が生まれた。私はその響きを抱きしめながら、静かに深い暗闇へ沈んでいった。