みんななかよく鼻かみティッシュ
「鼻をかんだティッシュって、バラみたいだよね」
彼女は目の前の鼻かみティッシュを指でつつきながらそう言った。
「なんか同感したくない話だな」
「でも、バラって鼻をかんだティッシュみたいだよねって言われると、それは違うってなっちゃう」
「ん、そうか?そうかもな」
いや、そうじゃない気もしてきた。というかこいつは一体何を言ってるんだ?何が言いたいんだ?
「汚いものを綺麗なものに見立てることはできる。でも綺麗なものを汚いものに見立てることはできない」
そもそも鼻かみティッシュでなくともバラは作れるような気が。
「俺にはカレーとう○この見分けがつかないがな」
そう言ったのは、阿呆の大崎だ。
阿呆は黙ってろ。
「カレーは汚いのよ」
おい。
「これは心の問題だと思うの。汚いものを綺麗なものに見立てることは、得したように思えるけど、綺麗なものを汚いものに見立てることは損したように思える。つまり功利的な話なのよ」
何一つ共感してないのに、話がどんどん先に進んでいく。
「あなたはどっちになりたい?バラみたいなティッシュかバラ」
「問題設定おかしいだろ」
「で、どっちなのよ」
「当然バラだ」
「はぁ」
「なんだよ」
「不正解」
「不正解もクソもあるか!」
俺が耐えかねて強くツッコむと、途端に彼女は勢いよく立ち上がり、呪文のように俺を指さしながら、一語一語はっきりと丁寧に
「お前は、鼻をかんだティッシュだぁ!」
と、声を上げた。
「なっ!」
その瞬間、俺の視界がどんどん渦巻いて歪み始め、ついには俺自身もその歪みの中に吸い込まれていった。
「鼻をかんだティッシュって、バラみたいだよね」
彼女は自分の鼻かみティッシュを指でつつきながら、って…
『いてててっ!』
なにが、どうなってんだ?脇腹辺りをつつかれた感覚だけが鮮烈に感じられた。体はセメントで固められたかのように微動だにできない。視覚は奪われ、聴覚と触覚だけが鮮明だ。まさか…俺がティッシュに!?
「先輩、それ俺のっすよ」
『いや、お前のかよ!』
「でも、バラって鼻をかんだティッシュみたいだよねって言われると、それは違うってなっちゃう」
こいつさっきと全く同じことを言ってやがる。なんだ、次は大崎がターゲットにでもされるのか?
「したくないだけだろ」
大崎の野太い鼻声が全身に響く。
「汚いものを綺麗なものに見立てることはできる。でも綺麗なものを汚いものに見立てることはできない」
「俺にはカレーとうんこの見分けがつかないがな」
「カレーは汚いのよ」
もしやこれは、過去にタイムスリップしてるのか。タイムスリップと言う割には地味なスリップだが、こんな会話を二度もするはずがない。
「これは心の問題だと思うの。汚いものを綺麗なものに見立てることは、得したように思えるけど、綺麗なものを汚いものに見立てることは損したように思える。つまり功利的な話なのよ」
間違いない。これはタイムスリップだ。だとしたら次の質問は…
「あなたはどっちになりたい?バラみたいなティッシュかバラ」
来た、初見殺しの奇問!!
「先輩は哲学めいたことが好きっすよね」
どんな哲学だよ。
「この場合だと、きっとバラを選ぶのは悪手だろうな。でも、じゃあなぜバラではいけないのか」
「どっち?」
「じっくり考えさせてくださいよ」
もしかして、俺が阿呆だったのか。阿呆な質問だと思って適当に答えたら、相当な報いを受けてしまった。確かに哲学的命題の答えとしては野暮だったかもな…ん?いや、俺が悪いわけあるか!早く元に戻せ!
「あれ、いま風吹いた?」
「妙な時間稼ぎはやめて」
「タイムリミットあるんすか、これ」
「嘘よ。じっくり考えてちょうだい」
そういえば、俺の存在はどうなってしまったのだろうか。少なくとも俺に関する話題はまだこれっぽっちも出ていない。この世に存在しなかったとかにされてたら参るな。これ元に戻れるのか…やばい、不安になってきたぞ。
「ちなみに先輩はどっちなんすか?バラか鼻かみティッシュか」
「当然、バラよ」
いや、バラかい。これ人によって正答変わる系なのか…で、なんで俺は鼻かみティッシュなんだよ。
「俺らは人間だ。だから人間に置き換えて話を進めなけりゃならんことは明確で…」
「ふーん、知能指数の見直しをしてあげるわ」
「ちなみにいくらに?」
「5」
「では、十の位を」
「そんなものないわ」
「そ、そんな」
「喜びなさい、5倍増しになったのよ?」
「くそったれ」
くそったれはこっちのセリフだ。何の因果で俺は鼻かみティッシュなんぞにならねばならんのじゃ。
「でもそうか、何か分かった気がするぞ。これは人生の在り方を説いてるんだ。役目を終えてなお、バラと見紛うその在り方か、美しくこの世に生まれ、あとは枯れていくのを待つだけのバラか。枯れたバラなんて年増女と一緒で見向きもされない。俺がなりたいのは、鼻かみティッシュだ!」
「女へのひどい侮辱ね。減点だわ」
「本質を議論しようぜ」
「そうね。悪くはないわ。でもね、それだとバラがまるで悪者扱いじゃない」
「分かりやすくていいだろ。鼻かみティッシュのように生きればいいだけだ」
「そう、やはり…」
彼女の椅子を引く雑音が全身を震わせた。そして、
「お前は、鼻をかんだティッシュだぁ!」
と、彼女の声がこだました。
俺たちを囲む空間は、時折彼女が出す生活音が響くだけだった。カップに液体を注ぐ音、液体を啜る音、カップと置き皿がぶつかる乾いた音、そしてゆっくりと本をめくる音。いつまで俺たちはこうしていればいいのだろう。くそう、阿呆の大崎が鼻なんか擤まなければ…。およそ大崎のやつも今は状況を整理するので一杯一杯なんだろうな。俺のようにタイムスリップを経験すれば、まだなんとなくの道筋も見えてこようが、聞こえてくるのが誰ともわからぬ生活音だけでは、気が狂いそうになるだろうな。同情するぜ。
しかし、人を憐れんでいる暇はない。暇もなにも、何もできないのだが。しかし、なんとかやり直しの機会を貰わなくてはこのまま最悪の場合はゴミ箱いきだ。これ、このティッシュが燃えたら、どうなるのだろう。いっそのことこのまま何もできないよりかは、どうなってもいいから、さっさと燃え尽きて灰になった方がマシだとさえ思えてくる。やばいな、ティッシュ状態のマンネリ化は流石にしんどいぞ。ティッシュ同士、大崎となんとかコンタクトを取れないものか。
その時、部室の扉が開かれた。反動で吹いた風が身を煽る。
「お、お前ひとりか?他の奴らはどうした?」
クズ教師こと、顧問の中西だ。よし、あいつも鼻かみティッシュにしてしまえ…と、悠長なことを言っている暇はないんだったよな。
「今日は見てませんよ。お帰りになったのではないですか?」
「くそ、あいつらサボりよって。明日指導に行かねば」
お前だけには言われたくない。それはそうと、文芸部の部員は三人、つまり俺たちの存在は消えたわけではないのか。一つ安心、、でもないな。結局はこのティッシュ状態が解けなければ、逆に心配と迷惑がかかるだけだ。心配、してくれるよな?
「鼻をかんだティッシュって、バラみたいだよね」
こいつ、ねじ込んでくるな。まあ、これで大崎のやつもなんとか察するだろう。
「あ?あぁ、確かにな」
中西のぶっきら棒な声が全身に響く。
文芸部顧問にしては異質の、数学教師のくせに、こいつは直感で物事を測るタイプだからなぁ。さぁてどうなる。って、俺はなに楽しんでんだ。
「で、それがどうした?」
「でも、バラって鼻をかんだティッシュみたいだよねって言われると、それは違うってなっちゃう」
「かもしれんな」
いや、ただの無関心だな、こいつ。少しは生徒の発見に寄り添おうとしろよ。発見こそ成長だぞ。
「これは心の問題だと思うの。汚いものを綺麗なものに見立てることは、得したように思えるけど、綺麗なものを汚いものに見立てることは損したように思える。つまり功利的な話なのよ」
今気づいたが、彼女は腐っても教師である中西にも変わらずデフォルトのままで敬語に直さないんだな。まぁ、腐ってるしいいか。
「悪いが俺は忙しいんだ。小説書いてるんだろ?そういうのは作品の中で語ってくれる?精々気のある読者に応えてもらうんだな」
な、なんて冷酷な。こいつここまでだったのか。よし、情状酌量の余地なしだ。プププ、中西もまさかこの自らの手抜きのあしらいが、自らを鼻かみティッシュに変貌させてしまうことになるなど、知る由もないよなぁ。
そして彼女が立ち上がったのか、我々のくしゃくしゃの体が風に煽られる。
ん?いや、待てよ。これ中西まで鼻かみティッシュになってしまったら、誰がこの状況を打開してくれるんだ?
「お前は、鼻をかんだティッシュだぁ!」
そんな俺の懸念をよそに、彼女は高々と宣告を言い渡したのだった。
続く