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【前編】没落令嬢は繰り返す

 獅子のたてがみのような黒い髪が、階下からぐんぐん近づいてくる。王城での用事を終えて帰りかけていたリーディアの心臓は、甘い期待に跳ねあがった。


(ヴァレリー様! これで三度めです……! でも待って、私の髪、変じゃないかしら?)


 リーディアは、うなじの上でまとめた明るい茶色の髪を手早く撫でつけ、階段の踊り場の端に寄った。お仕着せの裾をつまみ、ヴァレリーに向かってお辞儀をする。

 元伯爵令嬢だけに、しとやかな振る舞いは体に染みついているのだ。


「リーディア嬢か、久しいな」


 ガレー侯爵ヴァレリーも、リーディアより頭ひとつ分は背が高い体を折り曲げた。軍服の腰に佩いた剣が、彼の華々しい戦績を誇るように音を立てる。

 今は没落し、子爵家に仕えるメイドに過ぎないリーディアにも、ヴァレリーはこれまでと変わらず礼を尽くしてくれる。


「ガレー閣下も、お元気そうで……なにより、です」


 しかしリーディアの口調は、ヴァレリーを前にすると、決まってたどたどしくなってしまう。昔からの口下手に加え、ヴァレリーの前ではどうしようもなく鼓動が乱れるのだ。


(今度こそ、もっと滑らかに話すのよ。なにか、なにか話題は……っ)


「今日は、ドルトンヌへの遠征……でしたよね。遠くまで、お疲れさまでした」

「私の予定をご存知なのか?」

 ヴァレリーが、鋭くも深い海を思わせる目を見開く。

「いえ、その、先ほど小耳に挟んだものですから。で、では、失礼いたしますね」

 リーディアは目を逸らし、ヴァレリーの横をすり抜けようとした。

「待ってくれ。帰りは馬車か?」

「いえ、徒歩ですがなにか……?」

「送っていく。もう夕刻だ、女性のひとり歩きは危ない」


(まさかこんな幸運が訪れるなんて! 何度、繰り返しても、やっぱり夢みたいです……!)


 リーディアははしたなく飛びあがりそうになるのをこらえ、目を伏せた。紫水晶に似た色の目を縁取る繊細なまつ毛が、陶器のような肌に影を作る。

 リーディアは知る由もなかったが、そうすると楚々とした美しさが際立った。


「でもご迷惑ではないでしょうか?」

「ここで君をひとりで帰せば俺が後悔する。君をひとりにはできない。俺と一緒では気が進まないなら、部下に送らせるが……」


(どうしましょう。このままでは、心臓の音がヴァレリー様に聞こえてしまいます……! でも、もちろんお受けするの一択です!)


「いえ、そんな。では、お言葉に甘えさせてください」


 ヴァレリーとともに外に出ると、王都の空は早くも夕焼けの色に染まり始めていた。彼が手配してくれた馬車に、そろって乗りこむ。


「ひと回り大きな馬車にするべきだったか。済まない、窮屈だろう」

「とんでも……! 送ってくださって、その、ありがとう……ございます」


 心臓は早鐘を打ち、頭は沸騰しそうで、言葉が舌の上でもつれるのがもどかしい。

 そのくせ、視線はヴァレリーに吸い寄せられる。

 無駄口を好まなそうに引き結ばれた唇も、強い意志を感じる眉も、その左眉を斜めに切り裂く痛々しい傷痕にすら見入ってしまう。社交界ではたいていの者がその強面から目を逸らすのとは真逆だ。


(やっぱり、世間の評判は当てにならないわ)


 冷酷で残忍、口を開くのは戦場で敵に死を宣告するときだけ。それが、リーディアが社交界へのデビューを果たした一年前に耳にした、陸軍少将ヴァレリーの評判だ。

 その評判が足を引っ張るようで、リーディアとは十歳も離れた二十七歳ながら、ヴァレリーには未だに結婚の見込みもない。


(冷酷だなんて大嘘よ。戦場での振る舞いは、私たちを守るためだもの。ほんとうは、心根のお優しい御方だわ。でも、そのお優しさに皆が気づいたら、きっと縁談が殺到してしまうでしょうし……)


 そんなことを考えつつもやはり口には出せないうちに、馬車はあっというまにリーディアが仕える子爵家に着いた。


「あの、ありがとうございました。その、閣下とご一緒できて、嬉しかった……です」


 拙いながらも、リーディアは馬車を降りて真っ先に礼をする。口下手ではあっても、リーディアは気持ちを伝えようとする努力は欠かさなかった。


「俺こそ。君との時間を過ごせて思いがけない幸運だった。君をこの目に留められる歓びを噛みしめれば、この時間が終わるのが惜しい」

「~~~~!!」


 想定を超える甘やかな大打撃を受け、リーディアはよろめきながら胸に手を当てる。とたん、ヴァレリーが表情を険しくした。


「リーディア嬢? 顔色がおかしい、赤すぎるではないか! しっかりしろ、すぐに医師を呼ぶ」

 今にも抱きあげられそうになり、リーディアははっとかぶりを振った。

「いえっ、な、なんでもありません! ピンピンしておりますから!」

「そんなに赤い顔で無理をするんじゃない。やはり仕事が慣れないせいではないか? 俺から子爵へ、君の仕事を加減するよう伝えよう」

「いえ、お、お、お気遣いなく! 子爵様にもアナベルにも、雇ってもらえて感謝しておりますから!」

「アナベル……ああ、子爵家の令嬢か。君の友人でもあったな。それならいいのだが……なにかあれば俺を頼ってくれ」


 ヴァレリーが真顔でリーディアの頬に手の甲で触れる。

 熱がないかたしかめられているのだとわかったが、かえって体温が上がり逆効果だ。リーディアはたまらなくなって顔を背けた。


「わ、わかりましたから! ほんとうに大丈夫です!」


 医師を呼ぶべきではないかとなおも渋るヴァレリーを、リーディアはどうにか馬車に押しこんだ。ヴァレリーの乗った馬車が遠ざかっていく。

 とうとう馬車が門を出て見えなくなるまで、リーディアは無意識に息を詰めて見送った。


(ああ……夢のような時間だったわ。やっぱりまだ終わりたくない……! それに、次こそはきちんと受け答えできるはず!)


 リーディアは使用人の勝手口に向かって歩きながら、お仕着せのポケットからくすんだ木箱を取りだした。

 箱を手に乗せると、ごく小さな音量で流れ続けていたメロディが止む。

 リーディアは箱をひっくり返し、窪みに取りつけられた小さな摘まみを限界まで巻く。手を離すと、木箱は郷愁を誘うメロディーをごく小さな音で奏で始めた。

 リーディアはそっと瞼を閉じる。

 深呼吸をひとつしてから、目を開けた。


 ――リーディアは子爵家の朝食の席に控えており、手には子爵家の娘であるアナベルから渡された包みを抱えていた。王城への、遣いの品だ。


 リーディアは逸る思いでメイドの仕事をこなし、荷物を持って王城へ行き――。


「リーディア嬢か、久しいな」


 王城の階段で呼び止めたヴァレリーに向かって、胸を反らせつつ四度めになるお辞儀を行った。


    *


 この木箱をオルゴールと呼んでよいのか、正確なところはリーディアにはわからない。

 というのも、リーディアが目にしたことのあるオルゴールといえば、身長ほどの高さもある巨大な箱の中に、金属製の円盤を納めたものだからだ。

 それに対して、リーディアが手にした手のひら大の木箱は密閉されており、円盤を入れる場所もない。すずらんの模様が彫られた表面は美しいが、右側面に空いた針が通るくらいの小さな穴から中を覗くこともできなかった。

 けれどそんなのは、ささいな問題だ。


(だって、ネジを巻けばその日の朝に時間が巻き戻るんだもの!)


 ――リーディアがこのオルゴールを初めて使ったのは、父の墓で見つけたときだ。

 父は、ディモンシュ伯爵家の当主でありながら宮廷政治に疎かった。

 代わりに、王立図書館に入り浸っては思索にふけり、家では学者のほかに怪しげな術師を何人も呼んでは議論を交わし金銭的な援助を惜しまなかった。

 幼いころのリーディアはそんな父の足元で、からくり人形や珍しい動物の剥製やら乾燥させた植物の根や種、用途の不明な部品を玩具にして遊ぶのが常だった。

 中には、触れると体が硬直してしまうボールや、腕に嵌めると爪が伸び続けるブレスレットといった、迷惑としかいいようのないガラクタもあったけれど。


 ともあれ、それらの品々について口外してはいけないときつく言い含められていたこともあり、リーディアが玩具で遊んでよいのは、父とふたりのときだけ。だから特別な時間だった。

 リーディアが人前で口下手になるのは、玩具を相手に家で遊ぶ時間のほうが多かったからだろう。

 父は家に呼んだ者たちに気前がよかったが、皮肉にもそのせいで伯爵家の資産は食い潰された。領地経営が成り立たなくなるまで、時間はそうかからなかった。


(坂道を転がり落ちるように、すべてが変わってしまったわ)


 父と兄が相次いで死に、ディモンシュ家は領地を取りあげられ、爵位も国の預かりとなった。ちょうど、リーディアが社交界にデビューした直後のことである。母は体を壊し、今も生家で療養中だ。


(今でもまだ、完全に立ち直ったとはいえないけれど……アナベルが雇ってくれたから、前を向かなくちゃね)


 初めてオルゴールを鳴らしたときは、奇跡を目の当たりにして没落前まで時間を戻せるかもしれないと、あらぬ期待を寄せた。だがそれは叶わなかった。戻れるのはその日の朝まで。

 それでも、一日分の奇跡はまるで亡き父が寄越してくれた贈り物に思える。

 リーディアは手の届かない存在になったヴァレリーとの時間を、繰り返し追体験しているのだった。


「――ひと回り大きな馬車にするべきだったか。済まない、窮屈だろう」


 声を落としたヴァレリーに、リーディアははっとわれに返った。

 あれから、四度め、五度め……と繰り返してループもこれで七度めだ。毎回、ループするたびに耳にする台詞だが、心なしか今回はヴァレリーの声に張りがないように感じる。


「とんでもございませんわ! 天にも昇る心地でおりました」

 単に、昔を思い返していただけだ。不快に思っていると勘違いされたくない。

「無理に持ち上げなくていい」

「いえ、紛れもない本心です!」

 ヴァレリーが苦笑した。珍しい笑みは思いのほかやわらかく、リーディアの目は釘付けになる。

「ムキになるな。宮廷ではご婦人は皆、俺を避ける」

「皆さん、見る目が少しばかり曇っておられるだけです! 閣下はほんとうはとてもお優しい、素敵な御方です。私は閣下のこの傷もお慕いして……」


 リーディアは身を乗りだす。ヴァレリーについて語るときには見違えるように饒舌になるのだが、リーディア自身は気づいていなかった。ただ、その体格や目つきのせいで恐れられがちな彼を元気づけたい一心で、左眉の傷痕に手を伸ばす。

 ところが、ほんの少し指先で触れるだけのはずが、馬車が揺れた弾みにリーディアはヴァレリーにほとんど覆い被さる形になってしまった。


「も、申し訳ありません!」

「怪我はないか」

 勢いよくのけぞったリーディアを、ヴァレリーが腕をつかんで引き寄せた。

「急に動くと転ぶ」

「は、はいっ」

 リーディアの頬がまたたくまに赤く染まる。

「リーディア嬢? 顔色がおかしい、赤すぎるではないか! しっかりしろ、すぐに医師を呼ぶ」


(ああまた、やってしまいました……! どうして私ったら落ち着いてお話できないのかしら……っ)


 ちょうど馬車は子爵家の玄関前に滑りこんだところだ。どれほど馬車でのひとときを繰り返しても、最後はヴァレリーを困らせる。

 つかまれた腕が熱く、鼓動はいよいよ速さを増して失神しそうだ。


(待って、失神なんかしたらさらにご迷惑をおかけしてしまうわ。それより今回こそお伝えしたいことが……!)


「私はいたって平気ですから! それよりあの」

「しかし熱があるだろう。家まで運ぶ」

 言い終わる前に腰を浮かせたヴァレリーに、リーディアは弾かれたようにかぶりを振った。

「それは、心臓が破れるのでいけません!」

「ああ、怯えさせるつもりはなかった」

 ヴァレリーの手が離れ、リーディアの上気した顔は一転して青くなった。

「違っ、そうではなく、ほんとうに平気なんです! それよりあの、今日はとても楽しくて、また閣下と……お話しできたら嬉しい、です」


 なんとか伝えられたと達成感を覚えたのもつかのま、ヴァレリーは無言で馬車の扉を開ける。リーディアは刺すような沈黙に一転して肩をすくませた。

 先に降りたヴァレリーの差しだす手に乗せた手が震え、沈黙のまま馬車を降りる。


「……それはつまりだ、俺が逢瀬の誘いをすれば、この場で受けてもらえるのだろうか」


 え? と顔を上げれば、ヴァレリーの真剣な目とぶつかった。


「俺の勘違いなら、早めに言ってくれ」

「いえっ、逢瀬したいです!」

 パニックのあまり、食い気味になってしまった。顔から火が出そうだ。

「俺も君と逢瀬をしたいと思っていた。やっと叶った」


 リーディアは、ヴァレリーの乗った馬車が屋敷の門を出ていくのを見届けるなり、その場にへたりこんだ。


(またヴァレリー様とお会いできるなんて~~~~~~っ)


 リーディアはポケットからオルゴールを取りだしたが、少し考えてポケットに戻した。ループよりも、早く逢瀬がしたい。


     *


それから一年弱。リーディアはまだ信じられない気分で、左手の薬指に収まった指輪をしげしげと眺める。

 湯浴み後の水気をまだたっぷり含んだ髪が胸に落ちる。耳にかけようとするより先に、武骨な指先がリーディアの髪をすくった。


「閣下」

「ヴァレリーでいいと言っただろう。もう結婚もしたのに、まだ慣れないか?」

「緊張して……。だって、夢のようで」

「俺もこれは夢かもしれないと思うときがある。君の……リディのぬくもりを感じられるのが、ふしぎでならない」


 寝台の上でヴァレリーに抱き寄せられ、リーディアは胸を高鳴らせながらも思わず笑ってしまった。

 結婚する前からその気配はあったけれど、ヴァレリーはときどき、驚くほど大げさだ。


「今日は、素晴らしい結婚式……でした。私に幸せをくださって、ありがとうございました」

「やめてくれ。これからだ。だがリディのウエディングドレス姿は、この世でいちばん美しかった。フランツも見られたらよかったのだが」

「兄をご存じなのですか?」

 リーディアは身をよじってうしろをふり返る。

「ディモンシュ家の長男を知らない者は、社交界を知らないのとおなじだ。しかし、初夜の前にほかの男の名を出すべきではなかった。君が別の男に思いを馳せるのは、気分がよくないな。俺のことだけを考えてほしいと思うのは、欲張りだろうか」

「ヴァレリー様は、どうしてそう、歯の浮くような台詞を真顔で口になさるのですか……!」

「事実だからしかたないだろう」


 ヴァレリーはいたって真面目な顔だ。昔は、社交辞令だから勘違いしないようと自分をいさめていたが、彼が世辞を言う性格ではないことは、ループを繰り返すうちにおのずと知れた。


(でも、お世辞よりたちが悪い気がします……!)


 両手で顔を覆ったリーディアを、ヴァレリーがさらに深く抱きしめる。

 かつてはリーディアが赤くなるたびに医師を呼ぶと大騒ぎしたヴァレリーも、今はもう病などではないと知っている。ときにはからかわれるようにもなった。

 けれどヴァレリーはやっぱり、すぐにあたふたとするリーディアとは違い、どんなときも動じることがなかった。大人の余裕なのだろう。


(ヴァレリー様の妻になれるなんて、やっぱり夢みたい)


 初めての逢瀬の場所は、王立植物園だった。

 今では陸軍中将に昇格したヴァレリーとの逢瀬は、人々の好奇の的になった。けれど、メイドであるリーディアへのあからさまな侮蔑の視線から、ヴァレリーは堂々と守ってくれた。

 リーディアがその逢瀬をループした回数は軽く十回は超えた。それほど、夢心地のときを過ごしたのだ。

 ループのひとつひとつを記憶しているのは、リーディアだけ。それで構わなかった。

 なにも知らないヴァレリーは、繰り返しの中でもおなじ言葉を告げ、リーディアの反応によってはときに異なる顔を見せ、そのたびにリーディアの心を捕らえた。

 リーディアも努力の成果か、回を重ねるにつけ、ましな受け答えができるようになったと思う。


 夢のような一日を繰り返し、満足して、あるいはもっと欲張りになって、次の日へ移る。

 そのようにして、リーディアはヴァレリーという人に触れてきた。

 植物園に始まり、劇場、遠駆けにピクニック、晩餐……健全なお付き合いの範囲で、様々な時間を共有した。

 それもこれも、オルゴールが頑張るきっかけをくれたおかげ。

 プロポーズされたときのことは忘れない。一生その日を繰り返してもいいとさえ思った。

 だけどきっと、今日のほうが繰り返す回数が多くなると思う。

 リーディアは彼女の耳にだけ届くどこか懐かしいメロディーに耳を傾けながら、ヴァレリーの唇が近づく予感に目を閉じる。


     *


 パイプオルガンの演奏が終わり、静寂に満ちた教会を、ステンドグラスから射しこむ光がやわらかく染める。

 どこからか響くオルゴールの音色が、リーディアの鼓膜を揺らす。リーディアだけが、繰り返しの中にいた。


「――誓って、君をどんなことからも守り抜く。なににも、君を奪わせはしない」


 誓いますか、という神父の問いかけには「はい」と応じるだけでよかったのに、ヴァレリーは衆目の前でそう言い切る。


(やっぱり、何度聞いても素敵……! 早く明日をヴァレリーと過ごしたい気持ちはあるけれど、この日を一度で済ませることもできないわ)


 陸軍の制服に剣を提げ、胸章や肩章で飾られたヴァレリーは、神が作った彫像のように美しくも勇猛だ。

 肩までのたてがみのごとき黒髪はていねいに撫でつけられ、うしろでひとつにまとめられている。いつもより、ぐっと洗練された印象すら受ける。

 ひどいくせ毛に手を焼いているのだと打ち明けられたのは、たしか二度めの逢瀬のとき。毎朝、彼付きの使用人が苦戦する様子を想像して、微笑ましく思ったのはここだけの話だ。


「――誓いますか」

「はい、誓います。私も閣下を……ヴァレリー様を、ぜったいに守り抜きます」


 リーディアも思いの丈を言葉に乗せる。美しい輪郭を描くウエディングドレスが声に合わせて優美に揺れ、会衆席からうっとりとしたため息が上がる。

 彼ほど上手く言えた自信はないけれど、一度めは余裕がなくて「はい」と言うだけだったから、これも繰り返しのおかげだろう。

 この次は、指輪の交換だ。介添人が会衆席から立ちあがり、指輪をヴァレリーの元へ運ぶ。リーディアはすっと左手を差しだした。

 ヴァレリーがわずかに首をかしげる。その表情を見た瞬間、リーディアは自分が勇み足だったことに気づいた。


(やだ、ここは神父様のお声がけを受けて手を出すところでした……! もう! 私ったら!)


 一度めは体が硬直して神父の声かけにも手を出せなかったため、二度めからは気をつけていたのだ。でもそれが、今回は裏目に出てしまった。


(がっついていると思われた? どうしましょう、ヴァレリー様に呆れられたら……)


 慌てて手を引っこめようとしたリーディアだったが、寸前でヴァレリーに腕をつかまれる。やや強引な仕草で指輪を嵌められた。


「君も」

「あっ、はい!」


 耳打ちされてはっとしたリーディアは、急いでヴァレリーの分の指輪を受け取り、彼の手に嵌める。交換を終えたときには気疲れしてしまい、それ以降の記憶はあいまいになってしまった。

 それでも式に続いてパーティーを終えたころにはなんとか気を取り直した。


 リーディアは早鐘を打つ胸を押さえながら、侯爵家の寝室でヴァレリーを待つ。


「ヴァレリー様!」

 ドアの開く音とともに入ってきたヴァレリーに、リーディアは駆け寄った。

「お待ちしていました」

「あ、ああ」

 ヴァレリーの顔に戸惑いが浮かぶ。リーディアはまたもおのれの失態を悟った。

「あっ、いえ、その、初夜を急かすつもりはなくて! ただ、ヴァレリー様に早くお会いしたくて、ですから」

 リーディアは、もう少しでヴァレリーの胸に飛びこみそうだったのを踏みとどまる。

「そうムキになるな。しかしこう……意外だな。昔は、舞踏会でも隅でじっとしていただろう」

「お気づきだったのですか? いろいろと勇気がなくて……壁に貼りついておりました」

「ああ。あのころからずっと、君が気にかかっていた。俺が近づくと泣かせそうで、声もかけられなかったが」


 ヴァレリーは視線だけでひとを殺せる、という評判さえあったのを、リーディアは思い出した。


(私もあのころから、ヴァレリー様をお慕いしておりました。って、するっと言えたらいいのに)


 口下手はだいぶ解消されてきたけれど、肝心な言葉だけは今も口にするのが難しい。無意識に眉を曇らせると、やにわに抱きあげられた。不意の浮遊感に驚いて声を上げるも、ヴァレリーは視線に熱を灯して大股で寝台へ向かう。


(なんだか今回は強引なような……? どうなさったのかしら)


 気づいたときには、リーディアは寝台の上で仰向けにヴァレリーを見あげていた。


「今夜は無体を働くかもしれない。君を壊してしまわないか、それだけが心配だ」

「私は頑丈です! お好きにしていただいて、構いませんから」

「慣れたふうな口を利くのはやめてくれ。俺の力の限りで、君を大切にする。だからどうか、俺の前からいなくならないでくれ」

「そんなこと……!」

 首を横に振るリーディアに、ヴァレリーが切なそうに笑う。

「君が怖がっても逃げても、離してやれないと思う。嫌だったら顔をひっかいてくれ」

「……っ、そんなこと、しません。お優しくしてくださると、知っております」


 繰り返した初夜は、過去の初夜よりもやや強引に思えたものの、やっぱり夢のようだった。だけどもう、次へ行こう。

 このまま今日を繰り返せば、それこそ「慣れて」しまって、怪しまれかねない。それに、明日はきっともっと幸せな一日のはずだ。

 リーディアはヴァレリーの胸に頬を寄せると、幸せの余韻に包まれながら眠りに落ちた。

 メロディーを奏で終えたオルゴールへ、意識を向けることもせず。


     *

 

 陸軍中将となったヴァレリーは多忙だ。朝は早く、まだ日も昇らないうちに起きだして登城する。あるいは遠征のために、家を空ける日も多かった。

 そのおかげで、結婚して三ヶ月が過ぎようとしているのにもかかわらず、リーディアがヴァレリーと過ごした日はその半分ほどしかなかった。

 リーディアの社交界への復帰自体は、ヴァレリーとアナベルのおかげで予想したよりスムーズだったが、ひとりの日が続けばやはり寂しい。

 ヴァレリーはもう一週間以上、国境付近での小競り合いの指揮に駆りだされたまま、帰らない日が続いていた。


「奥様、旦那様がお戻りになりました」


 ヴァレリーの代わりに領民からの陳情書に目を通していたリーディアは、家令の言葉に椅子から跳ねあがった。行儀が悪いと知りつつ書斎を飛びだし、転がるようにして階段を下りる。

 息を荒げてエントランスホールに降りると、ちょうどヴァレリーが汗と埃にまみれた体をはたきながら帰ってきたところだった。眉の傷痕以外の傷はリーディアが見る限りはなさそうで、ほっとする。


「お帰りなさい。ご無事でなによりでした……!」

「汚い格好で済まない。陛下に今回の報告をするために、すぐまた城へ戻らなければいけないのだが、ひと目リディに会いたい衝動に勝てずに立ち寄ってしまった」

「ありがとうございます。私も……!」


(お会いしたくて、どれほどお帰りを待っていたか。こんな一日を過ごすなら、最後にここで一緒に過ごした日をもっとループしておくのだったと思うほどでした……! 真っ先にお顔を見せてくださって、ほんとうに嬉しい……!)


 心の内では饒舌になるのに、嬉しさは喉の奥で詰まってつんのめってしまう。

 そんな自分をもどかしく思いながらも気持ちを伝えようとしていると、ヴァレリーに抱きすくめられた。


「リディ、よかった。君がここにいてくれて。……これを愛しい君に」


 顔を上げると、体を離したヴァレリーが背後に控えていた部下らしき軍服の青年に目配せをする。部下はひと抱えもある薔薇の花束をヴァレリーに渡した。


「受け取ってくれ。誕生日おめでとう、リディ」

「えっ……」


 リーディアは目をみはり、花束を受け取る。両手でも抱えきれないほどの花束は、ずしりと重い。その重みにようやく、今日が自分の誕生日であったと思い出した。


「そうでした……! すっかり忘れていました」


(家が没落してから、自分の誕生日なんて考えたこともなかったから……)


 それにしても、リーディアでさえ忘れていた誕生日を、ヴァレリーが覚えていた――というか、知っていたとは思いもしなかった。


「薔薇なんて、子どものころに父と兄にもらって以来……! こんなに嬉しい誕生日は初めてです。ありがとう……ございます……! さっそく飾りますね!」


 リーディアがはしゃぐと、ヴァレリーがふたたびリーディアを抱き寄せ、頬に優しく口づける。

 優しい口づけはこめかみや鼻の頭にもおよび、最後は唇が重なった。


「君の喜ぶ顔で、生き返った心地になった」

「大げさです……! しばらくは、こちらに?」

「ああ。その予定だ」

「ではこれから毎日、ヴァレリー様を生き返らせられますね」

「毎日、喜んでくれるのか」

「もちろんです!」

「そうか」


 ヴァレリーが目元を甘くする。ふたたび強く抱きしめられ、リーディアは身をよじった。


「せっかくのお花が潰れます」

「早く家令に渡せ。君を抱きしめるのに、とんだ伏兵がいたものだ」


 リーディアはヴァレリーとの久しぶりの再会にめまいがしそうだった。

 その夜、リーディアはオルゴールを使おうと、自室のチェストの引き出しを開けた。


「うそ、どうして……」


 空っぽの引き出しに顔がみるみる蒼白になるのを、リーディアは止められなかった。


     *

 

(もう一度、味わいたかったのに。一日が終わってしまった……)


 ヴァレリーの腕の中でまんじりともしないまま、リーディアは朝を迎えた。

 あんなに嬉しかった一日なのに、二度と繰り返せない。胸の内にぽっかりと穴が開き、さらさらと砂が漏れ出していくような気分だ。


(ヴァレリー様の情熱的なお言葉を、もっと聞いていたかった……)


 鼻の奥がつんとして、リーディアは目をしばたたいて涙を散らす。

 ヴァレリーは基本的にさほど口数が多くない。だからこそ、リーディアはループを繰り返したのだった。加えて、最近は会えない日も多くてヴァレリーの言葉に飢えている。

 リーディアは、ヴァレリーを起こさないように起き上がった。

 内扉から続く自室へ戻り、音を立てぬよう気をつけながら部屋じゅうを探す。チェストの引き出し、ローテーブルやソファの下、カーテンの裏やスタンドライトの奥をくまなく探す。しかしどこにも木箱はなく、リーディアはいよいよ途方に暮れた。


 最後に使ったのは初夜のとき。何回もループしたから間違いない。そのつど、リーディアは枕元にあの小箱を忍ばせたのだ。


(でも、最後はどうだったかしら……? 私、色々といっぱいいっぱいだったから……)


「リディ? どうかしたか」

 内扉の向こうからヴァレリーが顔を覗かせた気配がして、リーディアは内心の動揺を押し隠して振り向いた。


「起こしてしまいましたか? ごめんなさい、探しものをしていただけなの」

「探しもの?」

「ええ、手のひらに乗るくらいの箱で……底には窪みがあって、小さな摘まみがついている箱で……お見かけになりませんでしたか?」

「いや、見なかったが。なんの箱だ?」

「いえ、た、大したものでは、ありませんから。忘れてください」

 父からの贈り物だと言えば、ヴァレリーは血眼になって探してくれるだろう。けれど久しぶりに帰ってきた彼には、ゆっくり休んでほしい。

「力になってやれなくてすまない」

「とんでもないです、それより朝食にしましょう? ずっとヴァレリー様との朝食を、楽しみにしていました」


 オルゴールが見つかるまでは、一日を繰り返せない。なんとか、早いうちに見つけたい。


(それまでは、いただいたお言葉を心の中で反芻するしかないのだわ)


 リーディアは落胆を胸の奥に押しこめ、ダイニングへとヴァレリーの手を引いた。


     ***

     

 ヴァレリーはリーディアとの朝食を終えると、書斎に直行した。

 執務用の肘掛け椅子に腰を下ろして家令に人払いを命じてから、執務机の引き出しを開ける。

 中から、表面にすずらんの装飾が施された木箱が現れる。


 ヴァレリーは目の前にかざしたそれを、なにかに耐えるように口元を引き結んで、じっと見つめた。

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