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智さんとチャオ島

作者: スダ ミツル

昼下がりの、まぶしい海。

浜辺に、

ゆったりと打ち寄せる波は透き通っていて、中を小魚が泳いでいる。

僕は、

狭い砂浜の、

狭い木陰に腰掛けて、釣りをしている。

片手に竿、

片手にとうきび。

二十センチくらいの長さに切られたこの植物の茎は、かじると甘い汁が出てくる。

友達も近くでとうきびをかじっている。

彼の名前はチャオ。

細身で、毛足の短い中型犬だ。

……僕は、

きらめく海に浮かんだウキを、

なんとなく

見ている。

この島の浅瀬は、

ちょっと沖へ行くと深くなっていて、魚が多くいる。

満潮になるとそいつらは、

浅瀬にもやってくる。

今がちょうどその時間帯だ。

僕の座っているところは、草や木の根が層になっていて少し高いから、海中がよく見える。

釣りなんて、この島にきて始めてやったけど、結構集中する。

場所を変えたり、動かし方を変えたり、いろいろやってみている。

「取れるときは取れる。取れねえ時は取れねえ。」

漁師の湧さんがそういうんだから、自分はまぐれで釣れているんだろう。

一時間で五六匹釣れる。そのうち食べれるのは一~三匹。

どれもここにきてから初めて知った魚ばかり。

日が傾き、

木陰が海へと伸びていく。

潮が、逃げるように引いていく。

「チャオ、そろそろ帰るぞ。」

今日は三匹食べれる。

テントへ帰って調理する。

魚は中を取って、七輪で焼く。湧さんが貸してくれた七輪だ。これで野菜も餅も焼く。

チャオにはドッグフードを盛ってやる。

「まて。」

チャオはきちんとお座りして僕の目を見る。

「…よし!」

勢いよく平らげる。

僕は犬を飼ったことがないからよくわからなかったのだけど、湧さんが言うには、チャオは、『ちゃんとしつけられたいい犬』なのだそうだ。

「よーし、きれいに食べたな!」となでてやる。

チャオは身が細い。

触ると骨の形がよくわかるほど。

湧さんが見つけたときは、もっとガリガリだったらしい。

「偶然、この無人島のそばを通りがかって見つけたんだ。

船に乗せようとすると暴れたけど、なんとか医者に連れてってみてもらった。

二日で退院して、うちに来ることになったんだけどよ、あっという間に脱走して島のほうに泳いでくんだ。

船で追いかけて、網ですくってやらなかったら、途中でおぼれてたんじゃねえかと思う。

岸からこの無人島まで、二キロあるからな。

……それから……今まで、来れるときにきて面倒見てんだ。」

始めて湧さんの船に乗り、この島に来た時、彼はそう話した。

犬は、初対面の僕にも愛想よくしっぽを振って近づいてきた。

僕はしゃがんで撫でてやった。

「……名前は?」

湧さんは、水とドッグフードを置いてやってから、首を振った。


夜。

発電機を切り、テントの中で横になる。チャオも一緒だ。

静かな波の音。

潮の匂い、植物の匂い。

チャオの暖かさ。

……この小さな島に、たった一匹でいた犬。

「なあ…お前、本当は…」

何て名前なんだ…?

その名前で呼んでくれた人を、

彼は今でも、まっすぐにみている。






犬の吠える声で目が覚めた。チャオだ。

早朝の砂浜で、チャオが吠えている。

彼の吠え声なんて初めて聞いた。

テントを出て、緩やかな坂を下りながら木立を抜けて、砂浜に来てみて驚いた。

黒くて大きな塊。

「く、クジラ……⁉」

の、子供らしい。満潮の時、浅瀬に乗り上げて動けなくなったのか。まだ生きている。

「チャオ!お前もびっくりしたんだな。」

僕はしゃがみ、興奮気味の彼を抱えてなでる。

今日は湧さんが来てくれる日だ。でもあと三時間くらいある。

今日もよく晴れていて、朝日が巨体を温め始めている。

「……乾かないようにしたほうがいいんだろうな。」


「ははは!智、でっけえの釣ったなあ!!」

大声で笑う湧さん。バケツを上げ下げし続けてへとへとの僕は、さっさと日陰に行って水を飲んだ。

湧さんは船を浅瀬の溝に止め、ロープを引きながらこちらへやってきた。それを木に縛りながら、

「もう少しして満潮になったら船で引いて戻せるな。そのまま漁協持ってって捌くか。」

「え!?」

笑っているから冗談だ。


満潮。

木から解いたロープをクジラのしっぽに結わいた。クジラの子は、湧さんの船にひかれて大海へと帰っていく。

「元気で……!」

クジラは、人間と同じくらい生きるらしい。

「力強く海を渡るクジラに生まれたんだ。こんなところで力尽きるなよ。」

そう言って、バケツを開け続けた。

僕は、本物のクジラを見るのも、その黒い瞳を見るのも初めてだった。

湧さんが遠くでロープを回収している。

……元気でいてほしいと思う。







この小さな島の住人は、僕と、チャオと……虫とカニ。

チャオは、カニを見ると、歯をむいてうなる。

めったにほえない犬だけれど、カニには時々小さく吠えている。

前に、知らずにちょっかい出して、痛い思いをしたことがあるのだろう。

チャオがうなると、カニもハサミを挙げて威嚇したり、しなかったり……。

「またやってる。」

チャオとカニの攻防は、日常風景だ。






ここの海は内海で、たいてい波が穏やかだけれど、それでもゴミが流れつく。

なので浜のごみ拾いは日課だ。

流木や竹は、小屋を作る材料にとっておいて、プラスチック、ペットボトル、発泡スチロールなどを主に拾い、僕のごみと一緒にまとめて週に一度、湧さんの船に乗せてもらって陸へ持っていく。

僕が陸へ上がるのは、この時だけ。

観光客などまず来ない小さな漁師村は、とても静かだ。歩いていても、猫にしか会わない。


村に一軒しかない雑貨店へ買いものに行く。餅や缶詰、野菜、とうきび、ドッグフード、それから水と炭。

「ワンちゃん元気ですか?チャオくんでしたっけ?」

レジのほうから店主の百合子さんの明るい声。

「はい、そうです。元気ですよ。」

「あ、こないだクジラを釣ったんですって?」

「……ええ、驚きましたよ。」と、僕は笑う。

「智さんって意外とタフなのねえ。」

楽しそうに話す。

「クジラね、時々網にかかるんですよ。ブイが持ってかれて探し回って、村中総出で見つけて網から出したこともあったのよ。台風続きで村祭りが中止になった年だから、八年前ね。そうそう、クジラといえば……」

百合子さんは記憶力がよくて、話が面白い。長居しがちになる。

「だってねえ、知らない人と話したくなるのよ。何十年も同じ顔ぶれの狭い村に住んでるとねえ。ごめんなさいね、長くなっちゃって。」

「いえいえ、ところで、今日は向こうのお店は?」

「あいてますよ。今日は主人の両親が行ってますよ。」

「じゃ、お昼はそちらでいただきます。」

「いつもありがとうございます。」

レジを済ませ、笑顔に見送られ、店を出る。

まず、湧さんちによる。借りた洗濯機が止まっているので、洗濯物をお庭に干させてもらう。前に、持ち帰って島で干そうとしたら、湧さんの奥さん,真由美さんが、

「うちの竿を使て!」

と軽やかに言うので、ピンチハンガーを買ってきて、干させてもらっている。

「さて、昼飯!」

村唯一の定食屋は、海の幸が豪華でおいしい店だ。漁師の人も、自分で釣った魚を持ち込んで調理してもらうことがよくあるらしい。

二度ほど、僕もお相伴に預かったことがある。そして、魚を釣り上げた本人、くわえたばこの、日焼けした漁師さんとの会話を楽しむ。

「よお、犬、元気か?魚釣れてるか?ああ、湧から聞いたぞ。でかいクジラ銛で仕留めたってな、ははは、人は見かけによらねえな!おい、おめえ漁協に入らねえか?酒飲めよ。」  






気力、体力、振り絞って、私は泳ぐ。

一番近くにある、あの小さな島を目指して……。

恐怖に震えながら、

足がつりそうになりながら、

ひたすら泳ぎ、

ようやく島の渚にたどり着いた。

外した空気ボンベを引きずり、這いながら砂浜に上がる。

息も絶え絶え、ウエットスーツを半分脱いで、

木陰の岩に寄り掛かった。

はあ……

ああ……よかった……

怖かった……!

うう……

ああ、泣いちゃダメ!

もっとのどが渇いちゃう。

…………はあ、陸遠い……

……けど……あそこまで泳がなきゃ……。

……だって……この島には、たぶん水ないし……。

……人なんて、いないし……。

……だけど……もう動けない………。

……長い髪を絞る元気も……ない………。


青空と、

樹木の枝ぶりを、

ぼんやりと見上げる。


……ああ、怖かった……。


疲れた…………。


……のどからから…………


…………………………眠………………………。


……………。


…………………………………ん…………?


……何か……音が……するような…………?


低い振動音。


……エンジン音?

……!

てことは……!

人がいる……!

ああっ!神様……!!!




昼過ぎ。

「それじゃ、明後日また来るからよ。」

「ありがとう。」

手を上げ、湧さんを見送り、浅瀬を歩いて島へ行く。砂浜を通り、木立をくぐてテントのある所へ。荷物を降ろすと、チャオがしっぽを振って走ってきた。

いつもは船のエンジン音が聞こえるとすぐ出てくるのに、今日は遅かったな。

「いたいた。遊びに夢中だったのか?」

撫でようとすると、さっと走って行って振り返る。

「?」

まるで、ついて来いと言っているみたいだ。

「ん?何か見つけたの?」

速足のチャオについていく。

「やっほ~!ごちそーさまで~す!」

水着姿の女の子が、砂浜の木陰に座っていて、にっこり笑って缶ビールを揺らしていた。




「へー!チャオっていうんだ君!確かに、チャオって顔してる!」

ろれつの怪しい彼女は、笑いながらチャオをわしわしなでている。チャオは嬉しそうにしっぽを振っている。

僕はこっそりため息をつく。

ダイビングが趣味らしいこの人は、泳いでいたらいつの間にか流されてこの島にたどり着いたのだと話した。

……湧さん!!今!頼りたい!!けど、明後日まで来ない……!

まさかこんな、まさか……。ああ……どうしたら……

彼女の傍らには、からの水のペットボトル、からの缶ビール、冷蔵庫に入れておいた残り物のおかずなどの残骸が散らばっている。

僕はテントのところへ戻り、洗い立てのTシャツとハーフパンツを持ってきた。

彼女は、ふらつきながら立ち上がって砂を払い落としているところだった。

僕は服を差し出す。

「これ、着てください。」

「えっありがとうございます。けど、砂まみれになっちゃいますよ?」

「なっていいです。」

彼女は礼を言って、もそもそと服を着始めた。と同時に泣き始めた。

「う……ぐす。」

「……。」

「ここに来れてよかったあ……!どんどん流されてるとき、すっっごく怖かったから……」

子供みたいに声をあげて泣く。

はじけていたのはお酒のせいか。そりゃあ、相当怖かっただろう。かわいそうに。

彼女は泣きながら笑顔になって、

「ほんとによかった!神様にも会えたし!もちろんチャオにも!」

しゃがんでチャオを抱きしめる。

「……神様?」

「もちろんあなたのこと。」

「は?」

「私、力尽きてたから。人が住んでてほんっと良かった!」

輝くような笑顔。

……それはつまり、水と食料とビールが入った冷蔵庫が神様なのでは?

 「今度うちのお店に来てくださいね!お礼をさせてください!小宮駅前の花矢って居酒屋です!私そこの社員なの。ところで神様はどうしてこの島に住んでるんですか??」

僕は噴き出す。

「な、その呼び方やめて。僕は、河野智也といいます。」

「河野さん。智さん。智さんてよんでいいですか?」

僕はうなずく。

「私は楓。斎藤楓。」

彼女は深々とお辞儀をする。

「自己紹介が遅くなりまして。」

「あ、こちらこそ。」

僕もお辞儀する。

「斎藤さんですね。」

やれやれ、酔いがさめてきたか。

「楓って呼んでいいですよ。お店の人もお客さんも楓ちゃんって呼んでますし。」

「僕は斎藤さんが言いやすいです。」

「ふうん。いいですよ!」

ニコッと笑ってから、穏やかな表情になって、

「あ、さっきの質問だけど。智さん日に焼けてても、アウトドア派に見えないし……。」

「ここにいる理由?」

彼女はうなずく。

「僕も……流れてきたんだよ。」

「え?」

「いや、海じゃなくって。……こいつも」

とチャオをなでる。

「僕が来る前に、人に流されてここに来たんです。」

「え、智さんのペットじゃなかったんですか?」

「そう。」

言った瞬間心が痛んだ。彼女は体を傾けて笑って言う。

「そうだよね!誰のとかじゃなくって、チャオはチャオだもんね!」

チャオはしっぽを振る。斎藤さんは、にこっとしてから眠そうにあくびした。



斎藤さんが島の反対側の木陰で昼寝をしている間、僕は釣りをする。

「チャオ。お客さん、明後日までいるかもしれないんだ。どうしよう。」

チャオは熱心にとうきびをかじっている。

「ていうか、絶対今、必死に探してる人たちがいるよな。早く帰さないとニュースになるよな。居酒屋の人も家族の人も心配してるよな。」

だけど、この島は、電波が届かない。

「俺を呼ぶときはこれを使ってくれ。」

と、湧さんから渡されたのは、なんと打ち上げ花火。……正直使わずに済ましたい。本人元気だし。湧さんを心配させてしまうだろうし。いや、でも、ううん……。

「……僕が港まで泳ぐとか。」

プールでしか泳いだことがない。遠泳なんてしたことない。たどり着ける気がしない。

「いかだを作るとか?」

無理だ。

「はあ。……便利なものがない時代の人たちはすごいな。」

一から道具を作って生活していたんだ。厳しい環境で、やり一本で狩りをしたり、漁をしたり……たくましい民族に思いをはせる……。

浮きが沈んだ。

ん、ちょっと遠くへ行ってたな。



「ああ、いいねえ!こーゆうくらしも!」

さっきより芯がある感じの斎藤さん。

焼き魚と焼きおにぎりと焼きナスを食べながら夕日を眺める。

「レジ打ちも、声を張ることも、意味のない文を読むことも、騒音もない!」

「そうだね。」

起きてきた彼女に花火をあげるべきかたずねたけど、二人で考えているうちに腹が減ってきたのだ。

七輪で、トウモロコシにしょうゆをつけて焼いている。

……砂浜には知らない花が咲いている。

空には夕日色に染まる雲。

海は、今日最後のきらめきを浮かべている。

風は穏やかで心地よい。

「……私もここに……こういうとこに住みたいな……」

声のトーンに、表情に、寂しさがにじんでいる。

「別に僕の島じゃないし。」

「え、もしかして、住んでもいいの!?」

「や、あれっ?えっと、シェアできる場所あるかな?」

自分が何を言ったか気づいた。箸でつまんでいる魚の身を落としてしまった。

「一周一キロくらいありますし、大丈夫そうですよ。私キャンプも趣味で、たまに行くんですけど、さっき昼寝させてもらったとこなんか、十分テント張れますよ。」

「そうですか。ええと、それより……」

「はい?」

「…………チャオの許可かな。」

「チャオ、私もここに住んでもいい?」

チャオは澄んだ目で彼女を見、しっぽを振る。

「ありがとー!」

彼女は嬉しそうにチャオを抱きしめた。

さっきポリタンクの雨水ですすいだ黒髪が、さらさらとチャオにかかる。

僕は、ついさっきまで悩んでいたし、腰が引けていた。

なのに、いつの間にか楽しくなって微笑んでいた。

……もしほんとにお隣さんになったら、村の人たちの噂になるな。


話すうちに、同い年だとわかったので、基本タメでいいか。ということになった。

「ご家族が心配しているだろうね。」

「うーん、お母さんは心配してるな。お父さんも。お姉ちゃんはどうかな……智さん家族は?」

「両親とじいちゃんがいる。あと……妹がいた。昔事故にあってね。死んじゃったけど。」

斎藤さんは頬杖から顔をあげて、少し遠くを見る目をした。それから微笑んで、

「智さん、私、妹の代わりになってもいいよ。」

「……。」

彼女はにこっとして、

「おにーちゃん!」といった。

そんなことを言うなんて、思ってもみなかった。……僕は首を横に振る。

「いや、いいよ。君がさっきチャオに言ったとおり、楓さんは楓さんだ。誰の代わりにもならなくていい。」

笑顔の彼女の眼は、うるんでいるように見えた。



午前三時。

僕は村の港に向かってライトを振る。

漁船に明かりがともっているから、だれか気づくはずだ。






真昼の海のきらめき。

波の音。

肌を焼く日差しに

濃い、木陰。

僕は、風を感じる。

…あの日。

斎藤さんと会って話した夜……。

僕らはそれぞれに、そっと手を差し出していた。

そして、その手がつながった感触があった。

ずっとつないだままでいられたら……。

そんな願いが現れた。

彼女は僕を神様と言った。

思い出すたび、吹き出してしまう。

確かに、僕がここに住んでいたおかげで助かったのかもしれないけれど、僕はそんな崇められるほどいい存在じゃないんだ。

けど、なぜか彼女には優しくなれるし、心を開いて話ができる。

僕は、島を歩く。

彼女のいた場所に来て、立ち止まる。

浜辺に。

木陰に。

七輪のそばに。

…………僕にとっての神様は、彼女なんじゃないか…………。







僕は魚が好きだ。

この海でとれる魚は、最高にうまいと思う。

けど、時々肉が食いたくなる。

今日、隣町のスーパーへ買い出しに行った。

湧さんからの頼みで、奥さんの真由美さんと一緒に。

行きは彼女、帰りは僕が車を運転した。

ご近所さんの分も頼まれていて、二台のカートは見る間に満載になった。

僕も肉をのせた。

「あの村には宅配のトラックが来てくれないからねー。」

てきぱきと仕分け、六つのクーラーボックスはぎっしり詰まった。

「早く食べたいですよ。」

真由美さんは大笑いした。

「笑いすぎです。」

「だってーガッツリ焼肉食べてるとこ見たことなかったから……!」

確かに魚ばかりつついているけど……

「……湧さんほどじゃないですけど、僕も食べるときは食べるんですよ。」

と言ったのもツボったらしい。



七輪の上で、肉が焼ける。

「チャオ、待て。待てよ。」

いいにおいがしてくる。

チャオはドッグフードには見向きもせず、油の滴る肉を、何度もつばを飲み込みながら見つめている。

その目を見ていると、先に食わさずにはいられない。

焼けたのを吹いて冷ましてから、チャオにやる。

「まて。よし!」

ひとのみで平らげる。

二切れ、三切れ。いい加減、僕も食いたい。一切れ食べた。チャオが足踏みして鳴く。

うまい……!チャオ!これを味わわずに飲み込むなんて、もったいない!

もう一切れ。もう一切れ……。焼けたのを拾おうとしたら、チャオが食いついた・

「あ!待て!」

同時にチャオが悲鳴を上げる。

「待てっていっただろ!あー!もー!」

冷蔵庫から保冷剤を出して充ててやる。チャオは辛そうに鼻を鳴らしながら器の水を飲む。

でも、すぐに肉を見つめる。うるんだ目で。

「わかった!満足するまで食わせてやるから!」


……なんと、チャオは六切れも食べた。僕はそのあと最後の一切れを食べて終わり。

満足そうに寝転んで欠伸をするチャオ。

「僕も満足するはずだったんだぞ!」

ため息をついて寝転ぶ。

湧さんの言葉を思い出す。

「ちゃんとしつけられたいい犬。」

……いや?

僕は首をかしげる。






暴風雨が容赦なく吹き付け、家がきしんでいる。

小窓から見える海は、濁った色をしていて、高くしぶきを散らしている。

「台風十号は…。」

湧さんちの居間のテレビは、ずっと台風のニュースをやっている。

こんなに海が近いところで台風の日を過ごすのは、初めてだ。

昨日は湧さんと一緒に、近くの小山……というか、崖の上にある小さなお社へ行った。漁と海の神様なのだそうだ。

「船と村のために、しっかりお祈りしなくちゃな。」

僕も、何事もなく過ぎ去るようお祈りした。

台風の準備に追われた二日間だった。

チャオももちろん連れてきた。

船に乗せるのが大変だったし、湧さんちの庭でも帰りたそうにぐるぐる走っていたけど、風が強まると、おとなしくなった。

久しぶりにシャンプーしてやった。毛足の短い犬だけど、やはり洗うと違う。

「お、ちょっと太ってきたな、お前。」

ガリガリじゃなくなった。ということらしい。

……湧さん、まさかそれ、真由美さんには言ってないですよね?


台風の日の昼食。

「実はね、智君。」

と、真由美さん。

「来年ね、家族が増えるの。」

「え、」もしかして。

「子供が生まれんだ。」と湧さん。

「わー!おめでとうございます!」僕は拍手する。

「来年の何月ですか?」

「四月。」

「四月かあ……僕はそのころいるかわかりませんけど、いる間は何でもお手伝いしますので。」と頭を下げる。

「ありがとう!心づよいわ~。」

「お二人の子供なら、きっと優しくて強い子でしょうね。」

心からそう思う。

「ふふ、ありがとう!」

あきれたような笑い顔の湧さん。

「智はほんといいやつだな。」



雲の切れ間から、金色の光が幾筋もさしている。

ふと思う。

命がやってくるのは、あんな光の中からなのではなかろうか。

湧さんと真由美さんの子は、あの光からやってくるのだ。

……少し前の僕のように、苦しんでいる人たちがいるのだけれど、ここに一人、生まれてくる人がいる。

僕は願い、祈る。

生きているすべての人たちへ。






波打ち際のごみ拾い。

台風の後は、拾いがいがある。

流木やら、海藻やら、ごちゃごちゃしている。

今日、僕とチャオは島へ戻ってきた。台風から二日経っている。

波が落ち着くまで、村の家々の後かたづけを手伝っていた。

漁師のおじさんと知り合いになった。湧さんを含めて五人目だ。

「俺も一度、あの島にあがったことがある。」

彼はそう話した。

「海で亡くなったご先祖が、そこから村を見守ってるって、爺さんが言ってたな。……けどまあ、何にもねえただの島だな。」

……いや。いろいろある。

いろいろ流れ着いている。

「チャオ、クラゲには触るなよ!」

干されているが、念のため。

プラごみは、外国の文字が書いてあるものもある。

菓子の袋、ペットボトル、洗剤のボトル……ため息が出る。

今日はまた熱い。

チャオは息が荒いし、僕は汗まみれ。

やめだ。

「昼飯にしよう!」

今朝、真由美さんと一緒に、冷や麦を大量にゆでた。ほかにも、キュウリの酢の物、卵焼き、牛肉の甘辛煮も作り、スイカも切った。それらが昼食だ。

冷や麦を、そばつゆにつけてすする。

……最高だ……!

チャオも冷や麦を食べている。すすれないので食べづらそうだ。 

スイカも食わせた。


保冷材の上に伏せて、チャオはようやく舌が引っ込んだ。

僕は、傍らに置いといたワインボトルを手に取る。

コルク栓の、薄い青色の瓶の中身は、飲み物ではない。

傾け、日に透かして見る。

丸めてひもで結わいてある紙に書かれている文字は、英語のように見える。

「……けど、栓を抜く道具がないんだよな……。」




「英語?子どもの字?」

「読める?」

「ええと……」

湧さんちにはコルク貫がなくて、百合子さんとこに来てみたけど、やっぱりなくて、結局電動ドリルを借りて開けた。

真由美さん、百合子さん、百合子さんの旦那さんが注目している。

手紙の内容はこうだった。

「僕の名前はリチャード。

サッカーが好きな十歳です。

この手紙の送り方は、お父さんから教わりました。

読んでくれている人、どうもありがとう!

僕の手紙はどこについたのかな?うんと遠くだといいな。

僕は、想像しています。

このボトルが海を漂って行って、どこか外国にたどり着いて、だれかが興味を持って拾い上げて、持って帰る様子を。

もしこの手紙で外国の人と友達になれたら……!?そうなったら、僕はとてもうれしいです!

あなたはどんなところに住んでいますか?

どんな料理を食べていますか?

何が好きですか?

もしよかったら、お返事ください。」

それから大人の字で、住所と日付とフルネームが書いてある。

「海の向こうからです。一年近く前に流したらしい。」

海流に乗って大海を南回りに半周してきたことになる。

「へえ、おどろいた!」

「リチャード君っていうのね!」

皆さん目が輝いている。



リチャードに、返事を書こう。

「初めまして。僕は河野智也です。

君が海に託した手紙は、長い旅をして、遠く離れた島国までやってきました。

僕は犬のチャオと一緒に、小さな無人島で暮らしています。

この間、台風が来たので近くの漁村に避難し、戻ってきたら、君のボトルが浜に打ち上げられていました。

村で開けて、知り合いと一緒に読みました。

とても遠くからやってきた手紙だったので、みんな驚きました。

どんなところに届くか想像していると、君は書きましたね。ここの写真を同封します。

君が書いたように、僕も、この手紙で君と友達になれたら、とてもうれしいです。」






僕は同じ手紙を入れた瓶を六本用意して、二回に分けて遊覧船のデッキから海に投げた。

そのうち二本は、近くの砂浜に戻ってきてしまった。

後の四本はどこへ行ったか分からない。もしかしたら、全部沈んでしまったかもしれない。

でも、もし……。

僕は毎晩、海を旅する瓶を思いながら眠った。

星空を仰ぎ見ながら漂っている様子や、イルカの群れに遊ばれている様子……。

そして、運よくどこかの海岸に流れ着いて……誰かが拾う……

ある日、僕宛に知らない国の人からエアメールが届く……中には、初めて見る風景と、笑顔の人の写真が……。


新学期が始まって、新しい友達ができた。勉強して、クラブ活動に取り組んで、たくさん遊んで……あれから一年近くたった。

もうすっかりボトルメッセージ熱を忘れてしまったころ、その手紙は届いた。




河野さんへ。

お返事ありがとう!でも、正直言うと、届いた手紙を見て、少し古く感じたし、遅いよ!ってため息もついた。

だけど、河野さんの手紙を読んで、写真を眺めて、引き込まれたし、またわくわくした気持ちになって、思わずミラクル!って叫びました。本当につながった!って。

僕は、もっと知りたいです。河野さんのことも、チャオのことも。

河野さんとも、チャオとも友達になりたいです。

たくさん写真を送ってくださったので、僕も写真を送ります。

住んでいる町と、僕の家族の写真です。

ここも港町で、シーフードがおいしいです。僕はロブスターが大好きです。

河野さんとチャオは何が好きですか?

無人島にお住まいだそうですが、暮らしはどんなですか?




僕が手紙を読み終わると、斎藤さんが言った。

「リチャード~!会いたいなー!」

「斎藤さんは英語話せる?」

「全然。」

と、恥ずかしそうに、楽しそうに笑う。

「でも、もし来ることになったら私も呼んで!」

「うん、わかった。」

斎藤さんなら、片言でもコミュニケーションになるだろう。


先週、真由美さんから頼まれた買い物を済ませて帰ると、湧さんちで充電させてもらったスマホに、斎藤さんからメールが来ていた。

「近々キャンプしに行ってもいいですか?」


この島は、満潮の時、周囲一キロもない。

植物が茂っているし、テントを張るのにいい場所は、多くない。

「あ、ここよさそう。」

四畳くらいの広さに、樹木はなく、地面はほぼ平ら。僕のテントからは、三十メートルほど離れている。

「うん、ここにする!わあ~!私、キャンプ大好きなんだよね!」

「僕はここに来るまでしたことなかった。」

「そうなの?智さん、テントもシュラフもいいやつだから、経験者だと思ってた。」

「これがぶっつけ本番だよ。」

「あはは!……私はね、お父さんがキャンプとか山とか好きでね、よく二人で行くんだ~。小さいころからそうだったから、こういうの、割と慣れてるの。でも、無人島ははじめて!」と笑う。

「お父さんは山派だけど、私は海も好きだから、無人島でキャンプは夢だったの!」

「一人と一匹、先住民がいるけどね。」

「あ、今は、智さんとチャオ島ね!元・無人島で、二人と一緒にキャンプするのが楽しいの。」

とにっこりする。

……あれ?何照れてんだ自分。

「そう。えっと、じゃあ、まずはテント張るの手伝うよ。」

夜。

斎藤さんが買ってきてくれた肉で、バーベキューした。チャオも僕も大満足だ。

今日一日、会話が弾んで二人ともよく笑った。

空もよく晴れていて、星がきれいだ。

「こっち来て。」

僕は彼女を岩場へ誘う。

「この上に寝転ぶと気持ちいいんだよ。」

彼女は岩に寝転び、僕は近くの砂地に座ってビールを飲む。

「本当だー!岩があったかくて、星はきれいで、いいね~!」

「うん。いいでしょう。」

僕はちょっと酔っている。気分は軽く、楽しくて、体は重い。僕も寝転んだ。

瞼が重い……。

……気配がして目を開けると、いつの間にか彼女がすぐ近くにいて、僕の顔にかがみこんでいる。

そのまま僕の目元にキスした。

「智さんありがと。また明日ね。おやすみなさい。」

軽やかに立ち上がり、歩き去った。

僕はあわてて起き上がり、振り向く。もう見えない。

……ああ……

「おやすみ!」

ため息をついてまた横になる。

……今夜は星がとてもきれいで…………暖かい……。





「すみません、駅まで送ってもらっちゃって。」

「いいって!買い物頼まれてるしな。」と湧さん

花屋の前で止めてくれた。

「んじゃ、帰りの電車何時か電話くれれば来るからよ。」

「あぁ、ありがとうございます。」

笑顔で去っていった。

僕は花屋に入り、束になっているのを四本買う。どれもかわいらしいのを選んだ。

今日は妹の命日なのだ。

ここから電車と特急を乗り継いで三時間。

揺られながら、花を見る。

妹はタンポポが好きだった。朝顔も。けど、花屋にある中で何が好きか、僕が知る前に亡くなってしまった。

だからいつも、店の中で一番妹らしい感じの花を選んでいる。

僕と五つ違いだから、生きていたらもう成人している年だけど、亡くなった人は年を取らなくて、いつまでも小さい妹のまま思い浮かぶ。


水をくみ、お墓へ向かう。

先客がいた。母だ。

「あ、だれかと思った。」

僕が黒くなっているから驚いたらしい。

「今日は仕事は?」

「やめたの。」

「……え。」

父も母も仕事人間で、家族と過ごすより仕事を最優先にする人たちだ。

子どものころ、それがまるで捨てられたみたいに感じられて、つらかった。

僕は、妹の手を引いて歩いた。

妹は、遊ぶのも、おけいこの送り迎えも、休んで風邪の看病をするのも僕があいてだった。

『聞いた?どう思う?……病気なのかも……?』

僕がお墓に手を合わせている時、母が言った。

「……私はひどいことをしたんだわ。」

僕は目を開ける。

「あなたたちを、ほったらかしにしてた。」

まさか。この人がそんなことを言うなんて。後悔するなんて。

振り返り、目を見て、本心だとわかった。

「今更って思うわよね。」

僕は立ち上がって、母をそっと抱いた。

母も、僕の背に手を。

「……。……。」




夕方、僕は島に帰ってきた。

「チャオ。おいで!」

僕はチャオを両手で抱く。

そして、彼と、彼をここに置き去りにしていった人のことを思う。






朝、島の浜を散歩していると、湧さんの船がすごい勢いでやってきた。

湧さんが大声を出す。

「怪しい船見なかったか!?」

「いや!何かあったの!?」

「魚泥棒だ!」

また船を飛ばして沖へ行く。

見ると、ほかにも何隻も船が出ている。

後から湧さんから聞いた話はこうだ。

漁から帰った仲間が、養殖の囲いの網がなくなっているのに気付いた。浮きも重しも切り落とされていた。

警察に通報して,自分たちも探し回った。

湧さんは、ふと思いついた場所があった。

……湧さんが子供のころ、祖父がこのあたり一帯の海を毎日のように船で連れて行ってくれたらしい。そのとき偶然、群島の一つに横穴が開いているのを見つけた。

だれも好んで近づくひとのいない島々。漁場ではないし、岩礁で危険だし、穴は上陸しようとしない限り、樹木がかぶさっていて見えない。

そこに、いたのだ。怪しい船が。

湧さんが無線で知らせて海上警察船が来て、犯人はお縄となった。

「俺は風下の岩陰から様子をうかがってた。なげえロープがあって、海の中の網につながってたんだ。今日は山卸の風で、海の音が聞こえづらかった。夜中に遠くに船を置いといて、潜って盗んだ魚を引っ張ってったんだろう。」

湧さんがこんなに怒りに燃えているのは、はじめてだ。

「そんなことできんのは漁師だ!ふざけんな!」

罵倒しつつ、鯛のおつくりと、白米をかき込む。

鯛は、被害者の漁師から贈られたものらしい。夕方、それと炊いた米の入った土鍋を持って湧さんがやってきた。

「今晩ここに泊めてくれ。」

湧さんは散々食べまくって、浜にシートを敷いて、寝た。

夜中過ぎに起きて漁に行ったらしい。

……置いていった鯛の荒は、朝ごはんの汁物に使わせてもらった。






小屋が、ほぼ完成した。

自生する木をそのまま柱に使って、流木の梁、竹の床、屋根はシートを張って、その辺のヤシ科の葉で葺いた。ホームセンターで買ってきた木材で作った壁とドアと、窓もある。

四畳あるかないかの狭さだけれど、テントよりずっと広い。

「今日からここが家だ!次はお前の家も……」

犬小屋?別に要らないじゃないか・

「ここが、僕とお前の家だよ。」

テントは物置になった・

今までは、雨の日はテントから出られず、窮屈だった

小屋の中なら、雨の日も快適だ。冷蔵庫もあるし、机もある。棚も作った。床はゴザを敷いた

かろうじて電波の入るラジオでジャズを聴きながら、英語の勉強をする。

辞書をめくりながら、文を書き、読む。

英語は割と好きな方で、単語を覚えるのも苦にならない。英語にすると、ニュアンスの範囲がずれたりして面白い。

リチャードと話したり、手紙を書くことを想定しているけれど、英語に興味があるから、しばしば脱線する。勉強するたび、テストや英会話であまり役に立たない知識が増える。

雨の匂い。

紙の匂い。

僕はペンを動かしながら、昔のことを思い出している。


「お兄ちゃん、あのね、お父さんとお母さんを許してあげよう。」

雨の日に絵本を読んでやっている時、妹が言った。

僕は……父母を恨んでいた。

僕たちに無関心で、仕事ばかりでいつも不在。約束も仕事が理由でいつもつぶれる。生返事ばかりで忙しそうに出ていく。ドアの閉まる音はいつも、僕と妹をつらくさせた。

「紗良は、二人を許してあげるの?」

妹の紗良は、うなずいた。

「だって、やさしくならなきゃ、私もお兄ちゃんも痛いから。」

「……」

声ははっきりしていたけれど、少し震えていた。

妹は、涙をこぼしはじめた。

「お兄ちゃん、寒くて泣いてる。あったかくしないと、死んじゃう!」

震えてしがみついてきた。

その時まで、僕の心には吹雪が吹き荒れていた。

「……ごめん……紗良!ごめん!泣かないで!」


僕と紗良は、手をつないで歩き始めた。

いつか両親が、僕たちを大切にしてくれる日が来るかもしれないし、けどそれは、奇跡というやつかもしれない。

僕たちは、二人だけで毎日を楽しんで過ごしていた。






湧さんは、船で往復する手間料を受け取らない。

「だって、友達んちまでスクーターで行き来するのと同じだからよ。」

湧さんは週三回島に来てくれているのに、僕は、週一度隣町への買い出しを手伝うことくらいしかできていない。

ある時、彼はグローブと白球を持ってきた。

「元野球部。」

と白い歯を見せた。

「キャッチボールしようぜ!」

バシ!

グローブに、というか手の骨にボールがめり込む。

ボールもグローブもひとつずつだから、湧さんは素手でキャッチしている。

僕は球技はからっきしだめで、教えてもらった通り投げても湧さんを走らせてしまう。

「もうちょい引いて!」

走ってった先から投げてくる。吸い込まれるようにグローブにはまる。

湧さんのほうが運動量多いのに、へたばるのは僕のほうが先。

ボールが行き来するたび追いかけていたチャオに、湧さんはオレンジ色のボールを投げる。

やわらかいボールも持ってきていた。

僕もそっちのほうがよかった……。とは言えない……・

木陰で休んでいると、ようやく湧さんがやってきた。

「どっか痛めなかったか?」

「いや。大丈夫。」

「見してみ。」

僕の手と腕を持って、曲げ伸ばしする。

痛くない。左手がジーンとしていたけど、それもほとんど引いている。

「おし。ほらよ。」

と、柔らかいボールをよこした。僕は、ふっと笑う。

「練習しとくよ。」

笑顔でうなずく湧さんの横顔に言う。

「強かったんでしょう。」

「……子供のころは、野球選手になりたかったな。」

小学校から高校までやっていたそうだ。高校の時は県大会でベスト4に入ったらしい。

たくさん思い出があるのだろう。そういう表情をしている。

「お、そろそろ帰んなきゃ。」

さわやかに帰っていった。

かっこいいな……。

笑顔で見送り、彼の言葉を思い出す。

「強かったんでしょう。」

彼は笑って首を振った。

「俺が投げ続けられたのは、信頼できるキャッチャーと野手がいたからだ。」






「……米だ!」

白飯が炊けた。

炊飯器を買ったのだ。米はもちろん無洗米。

七輪で米が炊けないわけではないが、餅を焼くより燃費が悪い。

取説には、様々な調理例が載っている。

僕はこういうのを見ると、無性に作りたくなる。ちゃんと分量道理に作れば、おいしいものができる。

赤飯、五目御飯、酢飯にして、ちらしずし、いなりずし……スープも作れるらしい。

まずは明日、鳥ごぼうご飯を作ってみよう。

七輪で焼いた貝とたらこで、白飯をかきこむ。

また一つ、手放せないものが増えた。





「来る…!」

ブルーシートを広げ、いつもの四本の木に四角を縛る。

少したって、夕立が降り出した。

ばらばらと、大粒の雨がブルーシートをたたく。

僕はその真下にいるから、結構うるさい。

シートの真ん中には穴を開けてあって、網と、漏斗と、ホースをくっつけてある。僕はホースの先がポリタンクから抜けないよう見ている。後、漏るところをテープでふさぐ。

「風が弱くてよかった。」

風が強いと、この作業ができない。

「満タンになりそうだな。」

僕は、雨を浴びようかどうしようかと迷っている。

チャオはとっくに駆け回っている。

まだ雲は途切れず、雨は弱まりそうにない。

……やっぱり浴びることにした。

からのポリタンクにホースを移し、ジーンズと、羽織っている半そでシャツを脱いでシートの下から出た。

……暖かくて気持ちいい。


……子供のころを思い出す。

妹と公園で遊んでいたら、夕立が来て、遊具の中で雨宿りをした。

こんな感じのぬるい雨で、僕も妹も、手だけ出して雨で洗った。

また別の時の大雨を思い出す。

小学校の帰りだった。

坂が川になっていた。

マンホールがガタゴト言っていて怖かった。

僕は妹のランドセルを前にしょって、妹の手を引いて歩いた。

手が雨で滑って不安だった。

無事に家のマンションについて、傘をたたんだときは、ほっとした。

……一度だけ、マンションのすぐ近くの公園で、こんな風にざーざーと降る雨を浴びたことがあった。

髪も服もびしょぬれになって、妹はおかしそうに笑っていた。


……どれも、十年以上前のこと。


でも、ずっと変わらないものがある。


チャオが、雨の中で体を揺さぶっている。意味ないだろうに。

僕ももう全身ずぶぬれだ。

……こんなこと、夢にも思わなかったな。

無人島で、土砂降りの雨に打たれているなんて。

なんだかおかしくて、僕も笑ってしまった。






僕らは空港のゲートで紙を広げる。

『ようこそリチャード!』

リュックをしょった少年が、大柄な男性とともに、こちらへやってきた。

「君がリチャード君だね。」

「はい。河野さん?」

「そうだよ。はるばるようこそ!」

目がキラキラしている。気持ちが弾んでいるのがわかる。

湧さんが、車を貸してくれた。レンタカーを借りる予定だったけれど、

「乗ってけよ!」と言ってくれた。

僕と斎藤さん、リチャードとお父さんが載って、村へ出発した。

「こっちは暖かいですね。」

とリチャード。空港ではセーターを片手に持っていた。

「十月の初めだから、まだ暑い日もあるよ。リチャードの国は春先だよね。」

「はい。キルティングコートを着て出ました。」

生え変わり途中の歯を見せてにこにこ笑うリチャード。

助手席の斎藤さんも、今のところ会話についてこれているようだ。楽しそうにうなずいたり、振り向いたりしている。

隣町につき、ショッピングモールで一休みすることにした。

食べれないもの、苦手なものがないか、リチャードとお父さんに聞いてから、お店に入る。

「リチャード、キャンプの用意してきた?」と斎藤さん。

「もちろん!」

今日はこの四人でキャンプする予定だ。斎藤さんが二人のために、大きいテントを父親から借りてきてくれた。

「天気がいい予報だから、きっと楽しめるよ!」

「うん、これ、すごくおいしいね!」

昼食の焼うどんとたこ焼きを、二人とも気に入ってくれたみたいだ

「会ったら聞こうと思ってたんだけど、河野さんはどうして無人島に住んでいるんですか?」

僕は微笑んで話す。

「旅行してた時にね、偶然入った写真館に、あの島の写真があって、行ってみたくなったんだ。それで来てみたら住みたくなったんだよ。」

そして、チャオのことを話した。

車で、村についた。

今度は湧さんが漁船で島まで連れて行ってくれた。砂浜に立つなり、リチャードは言った。

「わかるよ!僕もこの島に住みたい!」

「智さんとチャオとリチャード島ね!」

うれしそうに笑うリチャードと斎藤さんは、先に探検に行った。

僕はリチャードのお父さんに話す。

「僕がこの島に住んでいるのは、本当はもう一つ理由があるんです。……死んだ妹が、南の島に住みたいと言っていたのを思い出したんです。」

紗良は、南国の島の絵や、写真が大好きだった。

よく二人で、南の島にいる空想をした。

かわいい鳥たち、おいしい果物、怖いワニ、美しい海、おおらかな住民たち、愉快な王さま。

……この島よりもう少し南を想像していた。でも、ここも近い雰囲気があるのだ。

リチャードパパは、うなずいて肩を抱いてくれた。

「亡くなった人たちを思っていると、今まで気づかなかったことに気づくんだ。それは彼らがのこしたメッセージなんだ。それらは私たちを成長させてくれる。きっとここには、妹さんからのメッセージがあるよ。」

「……あなたが父親で、リチャードは幸せだと思いますよ。」

「さあ。リチャードにとって何が一番いいかは、いつも手探りだよ。あの子はよく私を驚かせるんですよ。こうして河野さんと会えたこともね。」

と、片手を差し出す。僕らは握手した。

斎藤さんが、リチャードと楽しそうに笑いながら、僕らを呼んでいる。






海で、島で、村で、たくさん遊んで様々な出会いがあったリチャード。

私もたくさん、楽しい思い出ができた。

「またね!」

何度も手を振ってお見送りした。私は再び日常に戻らなければならない。

「斎藤さん、今回ほんとありがとう。」

歩きながら智さんが言う。私はにっこりして首を振る。

「私こそ、誘ってくれてほんとありがとう!すっごく楽しかった!」

「そうだね。」

智さんの嬉しそうな横顔。

「本当に送ってもらっちゃっていいの?」

「うん。もちろん。」

私の車を、うちのマンションまで運転してくれるというのだ・

「そのくらいさせてください。」

「じゃあ、お願いします。」


智さん。私は智さんのおかげで変わったの。

以前の私は、繰り返しの毎日に、むなしさとか、甘い死にたさを抱えていた。

でも、本当に死にかけてあの島にたどり着いて、智さんに救われて……

今私が生きているのは、智さんのおかげ。

あの島に住んでいたのが、ほかでもないあなただったということ。

私は時々、涙が出そうになる。

智さんのことが大好きだから。

近くにいられたらな、と思うから……。






斎藤さんは、明るくて、親切で、近くにいると、なんというか、わくわくする。

信号で停車した時、僕は言う。

「僕はね、大学を出てから今年の冬まで、都会で会社員をしてたんだ。」

彼女を見る。

「うん、そんな気はしてた。……黒くない智さん想像するの、むずかしいけどねー。」

と目をすがめた。僕は笑う。

「まじめに働いてたけど、ストレスで体調崩すようになって、やめたんだ。……バスの停留所で、何本もバスを見送って、ぼんやりしてた。そしたら……ここから出て、どこかへ旅行に行こうって思ったんだ。」

信号が変わり、車をはしらせる。彼女は、にこーっとしている。ふっと元に戻って、

「智さんって、どこか行くとき、先に結構調べる?」

「多少は調べるけど、着いた駅でパンフレットもらったり、見つけたお店で話を聞いたり。」

「ふうん、最初はどこ行ったの?」

「雪が見たかったんだ。見たことないくらい、きれいな雪が。」

「どうだった?」

「……スキー板で歩いていくと、ジャケットが熱いぐらいだった。細かくきらめいてて、すごくきれいだったよ。」

車がトンネルから抜けた。一瞬のホワイトアウト。

彼女は少女のように笑う。






美しい自然を感じて、食べて、歩いて、いい空気を吸って、感じのいい宿に泊まって。

ボロボロだった心身が、少しづつ回復していった。

胃が重く、心が痛くて、できることの少なかったのが、一か月旅をするうちに、軽くなっていった。

北から南へ。

ある写真館の前で足が止まった。

やっていた展示で、小さな島の写真を見た。正確には、チャオと出会った島より、近くの群島がメインの連作の写真だった。かわいい島だし、海がいい色だなと思って、どこで撮った写真か訪ね、次の目的地にした。……一枚買いたかったけれど、非売品だった。

……村のバス停で降りたのは、僕一人。空はのんきに晴れていて、静かな漁村には猫しかいない。

商店を見つけたので、そこの店員さん、百合子さんに群島のことを訪ね、船を出してくれそうな人がいないか訪ねた。

「お客さんと同じくらいの若い漁師さんがいるわよ。」

湧さんのことだった。彼は、

「ちょうどあの島に用があるんだ。」

と、水とドッグフードを船に積み、僕を乗せてくれた。

……そして……僕は、チャオに出会った。

……群島を見て回り、二時間ほどして港へ戻った。

村に宿はないとのことで、隣町へ行くバスに乗った。湧さんは、うちに泊まればいいと言ってくれたけど、丁寧に断った。

ビジネスホテルの部屋で、シャワーを浴び、コンビニ飯を食べた。

……僕にも湧さんにも飛びついて歓迎する、やせこけた犬の姿が、一晩中、頭から離れなかった。

次の日。

僕はアウトドア専門店の自動ドアをくぐった。





「なんだよチャオ?」

隣で伏せているチャオが、僕をじっと見ている。

「遊んでほしいのか?僕は勉強してるんだけど。」と本をはじく。

浜辺に腰掛けて、もう二時間ほどページを繰っている。

釣りの本、木工の本、犬の飼い方の本、いろいろある。今読んでいるのは、アウトドアとアウトドア料理の本。

「それとも、BBQに興味が?」

ページを見せる。チャオは、舌を見せてから口を閉じる。

「……仕方ない。」

本を木の根に置く。

「チャオ!お座り。」

チャオは飛び起きて、きちっとお座りする。

「お手。」

左右、ちゃんとお手をする。

『Goodboy!』

僕はジーンズのポケットからジャーキーを引っ張り出して、チャオにやる。チャオはそれを一飲みにする。今日何度目だろう?

「はあ……天気もいいし、少しは運動もしなくちゃな。」

立ち上がって砂をはたく。

「チャオ、散歩に行くぞ!」

合図すると、チャオは嬉しそうにしっぽを振ってついてくる。







冷え込んだ朝。

起きて外に出てびっくりした。

真っ白に霧が出ているのだ。

遠くの海鳴りと、潮の匂いがなければ、山の中にも思える。

「何にも見えないな。」

チャオと顔を見合わせる。

砂浜に出てみた。波打ち際しか見えない。

「これじゃあ、漁は休みかな。あ、でも位置がわかる機械とかあるのか。」

僕もチャオも防水のパーカーを着た。今日も日課の散歩をすることにした。

砂浜で小枝を立てて、倒れたほうに島を回る。

先が見えないと、慣れた砂浜も、歩調が遅くなる。

しばらく行くと、海上にぼんやりとした黄色い明かりが見えた。船の明かりだ。

「あれ、湧さんだ。」

今日は来ない予定だったのに。

近づこうとしたら、人の気配がして、渚を歩く水音がした。

こっちからは姿が見えない。だから、向こうからも、僕が見えていない。

「湧さん!」

と声をかけたけれど、返事がない。

水音もピタッと止まった。

何か変だ。

そういえばここは、いつも湧さんが船をつける浜じゃない。

湧さんじゃないのかも。


じゃあ、だれだ。


チャオを見る。戸惑っているのか、じっとしている。

僕はしゃがんで彼の背に手を置いて、気配がするあたりを注視する。

低いほうが霧が薄いかと思ったけど、そうでもなかった。

目を凝らしても、波打ち際から向こうは真っ白だ。

もしかして、また泥棒かもしれない。

海霧と船と盗人って……。

息をひそめて様子をうかがう。すると、


パシャン。


何かを落とした。


また歩く水音がする。


今度は遠ざかっていく。


遠くなり、聞こえなくなった。


少しして、船の明かりも、フッと消えた。


だんだんと霧が晴れていき、すっかり見晴らしがよくなるまで、僕たちはその場でじっとしていた。

船も、人もいない。島を見て回ったけど、だれもいない。

二人とも冷えてしまったので、小屋に戻って湯を沸かし、熱いインスタントスープを飲む。チャオも体をふいてやって、小さい湯たんぽと一緒に毛布でくるんでやった。

朝食を食べ終わるころには、いつも通りのいい天気になった。

翌日、来てくれた湧さんに、出来事を話した。すると、動じずにこういった。

「何を置いてったか、見たか?」

「いや。」

例のあたりを湧さんが見て回る。すると、何かを見つけたらしく、かがんで拾い上げた。

やってきた湧さんの手には、鍵が載っていた。

「船のキーだ。」

お守りの袋も二つ付いている。

「こっちのは、みんなつけてるやつだ。岬の神社の。」

「もう一つの大きいのは?」

湧さんは黙っている。

「ご家族に返さないとな。」

胸ポケットに丁寧にしまうと、

「ありがとな。」

暖かくて、悲しい笑顔。

……あの船は、カギを落としてどうやって去っていったのか。

湧さんは、置いてったと言った。あの船は、エンジン音も、水音も、聞こえなかった。

昨日の怖さに再びぞっとする。

「やっぱり海賊……」

湧さんは、ふっと笑って、

「そんじゃ、明後日は買い出し頼むよ!」と帰っていった。





海から網を引き揚げる。

もがく魚たちを手早く網から外し、氷水に投げ入れる。

冷たい水の中で、魚の動きは鈍くなり、やがて動かなくなる。

たくさん採れるほど俺は喜んだが、先輩は違った。

氷水の中の魚をじっと見ている先輩に、声をかけた。

「今日は大漁っすね。」

彼は力なく笑ってから言った。

「湧はさ、生まれ変わるとしたら何になりたい?」

「ん?そっすね、イルカですかね。先輩は?」

「俺は、植物になりたい。」

新鮮な答えで、ちょっと驚いた。

「へえ!なんか先輩らしいっすね。」

彼は口元を少し上げた。



うまい魚をとってきて漁協へ売る漁師。それを支える人。家族。

この村は、みな何かしらの形で漁に携わっている。

俺も先輩も、代々漁師の家に生まれた。そしてどちらも一度は他の職業を考えたけれど、結局漁師になった。

俺は、海の幸が好きな人たちに取ってきてやりたいし、やりがいのある仕事だと思っているけれど、先輩はいつも淡々としていた。

けど。二年ちょい前くらいから、妙に積極的というか、熱心に海に出るようになった。

漁協が休みで、だれも出ない日も、先輩は船を出した。

なんか心配で、一度一緒に乗ってったことがあった。

「先輩、休んだほうがいいんじゃねっすか。」

「いや。……あれに……」

「はい?」

「あれにもう一度会いたいんだ。」

祈っているような横顔だった。

あれが何か聞いても、言葉にならないようだった。

親父さんたちがよく集まっている小屋で、その話をした。

「湧。みんな何かしら見たり聞いたりしてるのさ。言わねえだけでな。」

「何かってなんすか?」

「……あいつのことは、気を付けて見ててやるしかねえんだよ。」


俺は先輩に、こぶしを差し出した。

「これ、持っててください。」

手を開く。父から譲り受けたお守りだ。

「え、なんで。大事なものだろう。」

「そっす。大事なもんです。貸しますから。」

先輩が手に持っている船のキーを取って、無理やり付けた。

「とりあえず一年たったら返してください。」


ある日、漁の帰りに、久々に海霧が出た。

気を付けて操舵するよう無線でやり取して、白くかすんでいる漁協へ向かった。先輩の船だけ、やけに遅れていた。俺はなるべく離れないように気を付けた。

漁協でどよめきの声があがる。

最後に来た先輩の船に、大物ばかりが詰まっていたからだ。

先輩自身も驚いているのが不思議だった。

帰り道、一緒に歩きながら先輩が嬉しそうに言った。

「やっとわかったよ。海の生き物がどこから来るのか。」

「え?どこから??」

「海であって、海でないところだ。知りたくならないか?」

「??」

「俺は知りたいし、行ってみたい。」


数日後。濃い海霧が出た。

真っ白で、自分の足元しか見えない。

俺は変な胸騒ぎがして、港へ行った。もちろん漁は休みだ。ひとつずつ船を、というか、つないであるロープを数える。一本足りない。場所からして、先輩のだ。

仲間に知らせたけれど、危なくて船を出せない。霧が晴れるのを待って、探した。警察にも連絡した。

けれど……どこにもいなかった。


掌に載せた、先輩の船のキーを眺める。

「一年か……。」

キーから、貸していたお守りを外す。ふと、何かが違うと気づいた。開けてみると、中にはお守りの木片のほかに、見たこともない、美しい光沢の大きなうろこが、何枚も入っていた。






「はあ……天国……!」

湧さんちの風呂を借りている。

冬に入り、あの島も寒くなった。たっぷりの湯につかるのが待ち遠しくなった。

「風呂最高!」

最近村の家々から、何かと頼まれることが多くなった。掃除の手伝いや、粗大ごみの運び出し、病院の送り迎え、植木の選定、などなど。村に来る日が増えた。村の一員に認められたようで、うれしい。

空き家を片付けてくれたら使っていいと言われ、少しづつ手入れして、そこに泊まらせてもらっている。

チャオはというと、ずっと島にいる。小屋は断熱材を張ったので、十度以下になることはないし、体重も標準まで増えたので、エサは一晩くらいやらなくても大丈夫そうだ。

「風呂好きでもないようだし……。」

のぼせないよう、かかとを湯船のふちに乗せる。


「どうもいいお湯でした。」

湧さんと真由美さんに頭を下げる。

「あ、中村さんからこれいただいたよ。雨戸直してくれたお礼だって。」

ガスボンベをいただいた。小屋で暮らすようになってから、ようやくカセットコンロを使えるようになったのだ。と話したんだっけ。

「智さんは、品があって、礼儀正しくて器用だから、人気だよ~。村の子になってくれないかしらってみんな言ってるよ。」

「うーん。」

ありがたい。チャオさえよければやぶさかでも……

「それはそうと、なんか出たって?」と真由子さん。

「え?」

ドキッとする。

「もしや、埋・蔵・金……!」と口を隠す。

「ああ、えっと……」

僕はたまに、島の地面に穴を掘る。トイレの穴だ。一メートルも掘れば、海水がにじむところが多い。昨日掘っていたら、三十センチほどのところで、硬いのにぶつかった。

「金だったら話したりしねえよ。」

「そうだね。話さないし、落ち着いてなんかいないよね。」

と湧さんの頭をはたく。

掘り出してみると、石だった。

「石?」

「石です。」

「漬物石よりでけえただの石だ。」

「なんだー。」

「でもよ、ちょっとくびれが彫ってあって。」

今度は手をはたかれる。

「ふうん、写真とかある?」

「あ、すぐ埋めちゃいました。」

「ああ~、その中に、財宝とか出してくれるイケメンの魔人が入ってたりしないかなあ!」

「うえ、ロマンのセンスねえ。」

こぶしを引く真由美さん。

「……つーか、イケメンでも金持ちでもなくて悪かったな。」

うつむく湧さんの頭を、真由美さんは大型犬のようにわしわし撫でた。



島に戻り、また別のところを掘った。すると、また固いものにぶつかった。

掘り出してみて、冷や汗が出た。

なんと、金の延べ棒がゴロゴロ出てきたのだ。

「おい。」

背後から銃を突き付けられ、茂みからチャオが吠えながら走り出てきた。

「くるな!チャオ!」

パン!パン!

「うう……」

よかった下手だ。僕もチャオも死んだふりをする。スーツの男が後ろを向いたすきに、シャベルを大きく振りかぶって……

奴がはじかれたように穴の中に倒れる。白球が転がった。浜の船に湧さんが。

「っしゃあ!ストライク!」

いい笑顔……。

目が覚めた。寝返りを打つ。

「ううん、さすが。……でも早く警察呼ばないとネコババするかも……」





近づいてくるチャオに言う。

「何度も言うけど、これはおもちゃじゃないんだぞ!」

前に一度、ストラップをくわえて引っ張ったことのあるチャオは、散々叱られてこりているはずである。

バッテリー良し。タイマー良し。後は露光。

浜に近い木立に三脚を立て、カメラを固定した。

高校の時、バイトして買った一眼レフだ。

これからこいつで夜通し定点撮影するつもりだ。

日の入り日の出は、一コマずつシャッターを切り、暗くなった後は、露光時間をめいいっぱい伸ばし、尾を引いて天をめぐる星々を、一枚の絵にする。

どうなるだろう。楽しみだ。

僕の目とカメラの眼は違うから、こいつにどう見えているかは、大きい画面か、焼いてみないと正直わからない。

夜中でも、露光を調整すれば、月夜よりもずっと明るくくっきりとした絵が撮れる。

定点撮影は好きだ。

高校の写真部の時、よくやっていた。

部員それぞれ撮り方や被写体が違って、みんなの作品を見るのが楽しかった。

「智也のはスケールでかいよな。撮ってるときは、釣りしてるおっさんみたいなのにな。」

雲が流れていく様子、日が沈む様子、月の満ち欠け。いつもの景色にも、天体のドラマがある。

空き教室や屋上にカメラを据え、タイマーをセットし、撮影中の札を下げといて、休み時間のたび走ってって面倒を見ていた。

なつかしい。

久しぶりに同じ手法でとる。

「日が傾いてきた……!」

もう一度ファインダーを覗いてから、連続タイマーをスタートさせた。





島にはえている植物の大半は、名前がわからない。

そのうちの一本の木に、かわいい黄色い花が咲いた。

「これは、ええと……なんてったっけな。ハマなんとか……」

と湧さんは頭をかく。

「そーゆーのはばーちゃんが詳しかったな~。」


今日は買い出しじゃなく、私用でバスで隣町へ行く。

船の上で湧さんに言う。

「植物図鑑を買って調べるよ。……湧さん、何か買ってくるものある?」

「んー、シュークリームとカステラ!」

彼は、どちらも一口で食べる。

「わかった。」

持てるだけ買ってこよう。真由美さんの分も。


後日。

「えっと、この木は……」

図鑑をめくる。

「あった。ハマボウ。」






僕はファインダーをのぞき、シャッターを切った。

カメラを降ろすと、湧さんの驚いた顔があった。

「あ、ごめん。今度送るよ。」

少し慌てる。人は撮りなれない。

「あ、いや。」

湧さんは黙ってしまった。まずかったかな。彼は少し考えてから、

「写真撮るなら、俺よか村の人たちを取ってくんねえか。」

「え?」

「写真撮る人間なんていねえ村だからよ。ガラケーすら持ってねえ爺さんばあさんばっかりだし。もし智がとってくれたら、将来それを見て懐かしく思ったり、話の糸口になると思うんだ。それに、村で育った人間だったら撮れねえような写真が撮れると思うんだ。」

「……ありがとう。」

「あ、俺が勝手にそう思っただけだから、別にそうしなくてもいいからよ。」

僕は微笑む。

「今度奥さんの写真撮りに行くよ。」






夜中の三時半。

僕は湧さんと一緒に、彼の漁船に乗った。

漁の写真を撮るためだ。

まだ真っ暗で、人の顔は撮れない。

漁師たちの船の明かりを、次々撮る。

走る船の上で撮るのはなかなか大変だ。

湧さんが操舵する様子も、漁をする様子も、写真に収めた。

夜明け近くの薄明るい中、陸へ帰っていく船も。

島に帰った後、眠ろうとしたけれど、かなり疲れているのになかなか寝付けなくて、横になったまま、繰り返し今日見た漁を思い出していた。





「おめえよ、船いらねえか?」

知り合いになった漁師さんの一人が話しかけてきた。

「えっと……」

船と聞こえた気がした。

「船っつうかボートだけどよ。使わねえんで転がしてあんだ。エンジンがいかれてんけど、それさえ直しゃまだ使えんだ。いるんならおめえにやるよ。」

「え、あ、ありがとうございます。でも僕に操縦できるでしょうか。免許とか……」

「ああ、いらんよ。俺が教えてやるから。今暇か?見に行くか?」

「はい、じゃあ是非。」

そんなわけで、僕は一双、ボートを持つことになった。

うまくなったら、湧さんに頼らなくてよくなる。

翌週、ボートの修理が終わって戻ってきた。

「何、簡単さ。難しいのは接岸だけだ。」

タバコをくゆらす師匠を載せて、僕はボートのエンジンをかける・

冬だが、春のような日差しを浴びて、必死にボートを操る。

「時計回り。……反対。……接岸……離岸。……あのブイから先は出るなよ。あっちは潮がはええんだ。……まあ、初めてにしちゃあいいほうだ。この辺で休憩。」

群島近くでそういうと、師匠はおもむろに釣り針のついた糸を取り出して、海に垂らす。

僕がぐったりしながら見ていると、あっという間に魚を釣り上げた。

ふいに師匠が言った

「おめえ、あの島で穴掘ることあるか?」

「…たまにあります。」

「古いラジカセが出ってこなかったか?」

ラジカセ……?

「いえ。どうしてですか?」

「前に一度だけあの島に行ったことがあるって話したの、覚えてるか・」

「はい。」

「ラジカセは兄貴の遺品なんだ。しょっちゅう聞いてたラジカセだった。兄貴が死んだとき、親父はつらかったんだろうよ。棺に入れらんなかったそいつを、海に沈めて来いっつったんだ。けど俺はあの島へもってって埋めた。親父に話したら、そうか、とだけ言ってたな。もう三十年以上前の話だ。」

「……。」

「あの時ああしてよかったと思ってるし、おめえがあの島に暮らしてよかったと俺は思ってる。」口元をあげてみせた。

「……。」

「まあ、そんなわけだ。もし出てきたら、埋め戻しといてくれねえか。」

「はい……わかりました。」

港へ戻った。

師匠を昼食にお誘いしたが、

「家に女房が作った飯があるからよ。けどありがとな。」

くわえたばこで帰っていった。






智君があの島に住み始めて間もないころ、私は一度、湧に島へ連れて行ってもらったことがあった。

「あれ!」

と、智君は笑顔で出迎えてくれた。

「君がチャオね!」

尻尾を振って飛びついてくる華奢なワンちゃんと初めて会った。

我が家の窓から、いつも遠くに見えていたこの島に、近づいたのも上陸したのも初めてだった。

自然と生えた草木、浜辺で咲く小さな花、緩やかに打ち寄せる波。

心地よくて落ち着く。私は思った。

ひさしの深いあずまやのような小屋を立てて、泊まりたい……。

そんなせいか、次に行ったとき、既視感を覚えた。

智君が建てた、感じのいい小屋。

走り回るチャオ。

日焼けした智君が、釣竿を持ってやってくる。

既視感はすぐに、温かいなつかしさに代わって、私は驚いた。

なんだかとても安心したのだ。

私の内面の、どこか迷子のような暗く不安で不確かなところが、この島の自然と、智くんとチャオの暮らしぶりに照らされた。

なぜか、彼らがこの島に暮らしていることがとてもうれしかった。

智君もチャオも、この先どこへだって行ける。なぜかそう思った。

「二人に救われたみたい。」

湧に言ったら彼は、

「……そうかよかったな。」

と寂しそうに言う。私の気分の良さを、何か勘違いしているらしい。こういうところがかわいいやつだなと思う。

「湧のほうが十八倍かっこいいし、十八倍救われてるのよ。」

「十八倍かあ。…。」

腕組みして悔しそうに照れている。






ボートで島へ戻る途中、異様なことに気づいた。

海から、犬の鳴き声がする。

気のせいだと思った。

思いたかった。

遠くに、水上バイクが走り去るのが見えた。チャオはそのあとを追いかけるように、波間を泳いでいた。

僕はボートで近づき、チャオを拾い上げた。

今は真冬。どれほど寒いか。どれほど海水を飲んだか。

上着でくるんだチャオは、振りほどいて水上バイクの去ったほうへ行こうとして吠えている。尻尾をびちびちと振って。

興奮しているチャオを落ち着かせるには、どうしたらいいだろう。

ボートを島へ付けるやいなや、チャオは島中の浜を駆け回って吠えた。

水もドッグフードもろくに口にせず、夜通し浜を行ったり来たりしていた。

次の日、ようやくチャオは落ち着いた。というより、元気をなくしてしまった。

寝床に横になったまま何も食べず、ほとんど動かなくなってしまった。

僕は初めて、打ち上げ花火を放った。


船の上で、湧さんが言った。

「飼い主!?」

「うん。チャオは、今でもその人が飼い主だと思ってる。だからだ。」

「……そんな奴、忘れちまえばいいのに!」

吐き捨てるように言った。

「また戻ってくると思うか?」

「わからない。」

「湧さん、チャオは、死のうとしてる。」

抱えているチャオは、ぐったりと目をつぶっている。


車でチャオを動物病院に運んだ。

獣医の先生が言った。

「点滴をして、回復を待ちましょう。」

チューブにつながれて、タオルにくるまれ、弱々しく息をしているチャオ。

「チャオ……」

僕は涙が止まらなくなった。

チャオは、自分が捨てられたことに気づいてしまった。

もう二度と、愛された日々は戻ってこないのだと。

「俺は明日休みだからよ、うちに泊まれ。」

湧さんがそういってくれた。けれど全く眠れないだろうし、チャオのそばにいてやりたいので断った。獣医の先生に無理を言って、待合室に泊めてもらうことになった。

……水上バイクの人は、なぜ今頃あの島に近づいたのか。

元気なチャオを見たはずだ。

迎えに来ることを信じて疑わなかったチャオの、あの鳴き声を聞いたはずだ。

なのに、走り去った。

わからない。

ただ、あいつは何度でもチャオを捨てるようなやつなのだということが分かっただけ。

そのショックが、チャオの生命力を弱めている。


……チャオ!僕がいる!

僕がお前の家族として、支えるから!

そうだチャオ、いろんなところへキャンプに行こう!斎藤さんをさそって!

うまい肉も時々食わせてやる!

チャオ。

僕は、お前とずっと一緒にいたいんだ……!



夜中。

チャオがもがくように足を動かして、鳴き始めた。寝言だ。

たぶんあいつを追いかける夢を見ているのだ。

僕は、そっとさすってやる。

ほどなくして、チャオは静かに寝入った。





夜が明けてきた。

朝日が、待合室の窓とガラスドアから差し込み始めた。

チャオが目を開け、頭をあげてあたりを見回す。

「チャオ。」

僕は微笑んでチャオに近づく。

「調子どう?水飲むか?」

皿に、ペットボトルの水を注いでやる。

チャオは少しふらつきながらお座りして、僕の眼を見る。

いつもより奥行きのあるまなざしをしている。

「よし。」

そっと行儀よく飲み始めた。

僕は微笑んで言う。

「チャオ、退院したら風呂に入ろうな。」



自分で歩いているし、午後に退院だと話したら、湧さんも真由美さんもとても喜んだ。



ゆうさんちの風呂。

浴槽に浅く湯を張って、きれいに洗ったチャオを入れてやる。

「どうだ?気持ちいいだろう」

湯気が立ち、石鹸の香りがしている。ぬるめの湯の中で、チャオはおとなしくしている。

「そろそろ出るか。」

湯から出してやる。急いでタオルをかけるけれど、チャオは体を揺さぶって、湯もタオルも振り飛ばす。

「あー!あー!」

タオルを拾って拭いてやる。立ち上がり、ドアを開けて出て、

「ドライヤーするぞ。」

けれどチャオは動こうとしない。僕をじっと見つめている。

「どうした?」

僕は風呂場へ戻り、しゃがむ。するとチャオは近寄ってきて、僕の膝に前足をかけ、顔をなめた。

こんなことは初めてだ。

けど、何が言いたいのかはわかる。

「うん、チャオ。僕のほうこそ、これからもよろしく。」






どこまでも、砂浜が続いている。

緩やかな波が、薄く打ち寄せては、引いていく。

僕は、この長い、長い砂浜を、ずっと歩いてきた。

昔は妹が隣にいて、手をつないで歩いていた。

はるか遠くの砂浜だ。

僕は足裏に、時には手のひらに砂を感じながら、

時折高波をかぶりながら、

その時々なりに進んできた。

今はチャオが隣にいる。

歩きながら、時々僕を見上げる。

背中をなでてやると、温かい。

「智!」

「智さん!」

顔をあげると、湧さんと斎藤さんも近くにいる。

「智君!」

真由美さんも。そして、村の人たちも。

僕はいつの間にか漁村にいる。

空き家を借りて、暮らしていて、なじんでいる。

「ただいまチャオ!」

夕方、職場の漁協から帰ってきて、待ちわびていたチャオを散歩に連れ出す。

いつものコースを通り、バス停へ向かう。

バス停で、楓さんの帰りを待つ。

楓さんは居酒屋をやめて、今は隣町のアウトドア専門店で働いている。

ほどなくやってきたバスから、彼女が下りてくる。

「ただいま智さん。ただいまチャオ。」

「お帰り楓さん。」

チャオは、いつかしっぽを振り飛ばしてなくすんじゃないかと思うくらい、ブンブン振り回している。

「ねえ、この次はどこ行こうか。」

キャンプの行き先を考えながら、僕たちは、夕餉の香りが漂う村の路地を歩いて、わが家へ向かう。






チャオと楓さんと一緒にこの村に引っ越して、半年がたつ頃。

一通の手紙が届いた。

送り主の女性は、隣の県に住んでいるらしい。開けて読むと、こういうことだった。

「偶然手に取ったカメラ雑誌に、貴方の写真が載っていて、それがとても気になるので、お話を聞きかせていただけないでしょうか。」

確かに僕は、島暮らしをしていた時に取った写真をカメラ雑誌に投稿して、掲載されたけれど。

「映っている犬が、行方不明の愛犬に似ていて、どうしても一度会ってみたいのです。」




待ち合わせの日、僕と楓さんとチャオは、村のバス停で彼女を待った。

ゆっくりとバスがやってきて、僕らの前に止まった。

開いたドアから、女性が一人おりてきた。

「河野さんでいらっしゃいますか。」

「そうです。こちらは斎藤さん。」

「初めまして。」

「初めまして。」

「それでこちらが……」

と、僕はチャオを見やる。チャオはお客さんをちらっと見て、また僕を見る。

「……こうちゃん?」

彼女はしゃがんでそっと手を伸ばす。差し出された手に、チャオは鼻をつけた。瞬間、彼女に飛びついた。

尻尾をビュンビュン振って、体を擦り付け、顔をなめ、鼻を鳴らし、全身で喜んでいる。


僕らの家の居間で、こたつを囲む。

「二年前、お付き合いをしていた方がいたんですけれど、続けるのは難しいと思いまして、お別れを言ったんです。そしたら幸太郎を連れて行ってしまって……」

チャオ……幸太郎君は、リラックスして女性のそばで寝転がっている。

僕は、チャオと島暮らししていた時の写真をおみせした。

島を駆け回るチャオ。とうきびをかじるチャオ。カニに唸るチャオ。夕暮れのシルエットのチャオ。

僕とツーショットのは、湧さんや楓さんがとってくれた。

リチャードとみんなでとった記念写真。

彼女は何度も笑ったり泣いたりして、

「よかったね。」

と幸太郎君をなでた。

「よかったな、チャオ。大好きな飼い主さんと、また一緒にすごせるな。」

「あの、そのことなんですけれど……」


「え…飼えない?」

「なんというか、私にはもう幸太郎を幸せにしてあげられる自信がないんです。なので、河野さんがこのまま可愛がってあげてください。どうか、お願いします。」

「……。」

彼女は幸太郎君をなで、抱きしめた。


「じゃあね、チャオ君。」

「本当に、またいつでもいらしてください。」

僕が言うと、彼女は笑顔で、

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。」

そして路地の角まで行き、丁寧にお辞儀をした。角を曲がり、見えなくなる。

幸太郎君は、僕たちと、路地の角を交互に見る。

僕と楓さんは、顔を見合わせてうなずく。

チャオの首輪とリードを外した。そして、

「ありがとう。チャオ。」

「チャオ~元気でね!」

二人で抱きしめた。腕をほどき、

「さあ、行きなさい。」

僕は両手でそっと、肩を押した。

チャオは駆け出す。

けれど一度立ち止まって振り向いた。

僕はうなずき、楓さんは手を振る。

舌を見せているチャオは、笑っているように見える。

チャオは、踊るようにクルリと回った。

そして、爪を鳴らしてまっすぐに追いかけて行った。




チャオと飼い主さんを、お家まで車で送り届けた。

「この子のことは、今まで通り、チャオと呼んで接してあげてください。河野さんたちと過ごした時間は、この子にとっても、私にとっても、大切なものですから。」

「そうですか。それじゃあ早速、チャオ、またな!」

頭をなでてやった。

帰り道。

「はあ……すがすがしい。」

楓さんは笑顔でうなずく。

それから体を傾けて僕を見て、

「ねえ、智さん。」

「ん?」

「犬飼わない?」

僕は笑う。

「同じこと考えてた。」

彼女も笑う。

「チャオのお友達になったらいいよね~!」

「そうだね。うん。よし!犬を飼おう!」
















チャオを散歩中、遠くから湧さんが僕を呼んだ。

崖の上のお社から降りてきて、雑木林を抜ける道の先のほうだ。五十メートルはあるだろうか。

「おーい智!謎が解けたぞー!」

え?謎?

湧さんは時々、奥さんの真由美さんの言動が謎だと言っているけれど……。

それがわかったからって、なぜ喜び勇んで僕に??

「こっちこっち!」

と港に連れてこられた。

「まずはこれだ。」

いつもと同じ、何の変哲もない港。へ下りる階段の上。

「昔は、今立ってる上段のとこが船着き場だったって話したよな?」

「ああうん。六十年位前の大地震で地面が隆起して、船がつけられなくなったから、下に新しく港を作ったんだよね。」

「そうそう。もっと昔はあの小屋のあるあたりが港だったらしい。」

振り返り、親父さんたちがいつも入り浸っている小屋を見やる。

僕はうなずく。どうやら真由美さんの話じゃないらしい。

「海ん中もそうだ。昔はもっと深い海だったんだと。だから当然、智とチャオ島も、群島も、ほとんど海ん中だったわけだ。

「うん?」

「あの辺だけ岩礁になってたわけだから、あぶねえだろう?船がぶつかんねえように、目印になるようなもんがあったはずだ。」

目印?僕はまださっぱりわからない。

すると突然、湧さんが伸びをした。

「あー!今日もいい天気だったなー!」

そして気持ちよさそうに引き返して歩いていってしまう。

「え、湧さん、謎の話は?」

「考えりゃわかんだろ。あー俺ももっと早く閃いてりゃあな~!」

と、帰ってしまった。

「ええ~。困るよなー……」

チャオを見る。チャオは舌を出してこちらを見上げる。



謎の答え。

島から出土した石。

あの、溝の彫ってある石は、大昔、暗礁の目印に置かれたブイの錨だったのだ。

……ということに気づくまで、僕は二日かかった。

気にしたこともない地中の石のことなど、きれいさっぱり忘れていた。

「どうも失礼いたしました。」

島のほうに頭を下げる。

ちなみに楓さんは話を聞いてすぐにわかったらしい。


六十年前のある日、

つい昨日まで港だったとこが使えなくなり、遠くの群島も背が高くなり、数も増えた。

そんな光景を目の当たりにした人たちがいるのだ。

もしかしたら、数百年後には、港はきれいな砂浜になっていて、この村はちょっとしたリゾートに変わっているかもしれない……。






暖かな夜。

木立の向こうのいつもの場所に、斎藤さんのテントがある。

まだ明かりがともっている。

僕は発電機を切り、小屋に入る。

ドアががたつかないよう、ストッパーを挟む。

風がなくても、自分が動くたびにどこかがきしむ小屋だけれど、居心地はいい。

チャオは自分の寝床に伏せていて、あくびしている。

ビニールを張った窓から、斎藤さんのテントが見える。

まだ明かりがついている。

僕はシュラフに寝転び、ランタンの明かりで本を読む……。






智さんがキャンプ暮らしをする最後の日。

私は手伝いに呼ばれた。

チャオは一足先に、湧さんちにいる。

智さんのボートに、私の冬用シュラフとテントを載せてもらい、島へ向かう。

着くと、てきぱきと荷造りし、浜へ運び、片付いたころ、日が暮れた。

解体した小屋の一部を使って焚火する。

缶ビールを開け、

「お疲れさま!」

と、ぶつけあう。

「あ、あと、就職おめでとう!」

「ありがとう。」

彼は漁協で働くことになったのだ。

「あ~、とうとう明日引っ越しか~。一軒家かー。家具とかは?買ったの?」

「まだ何も。ざっと確認したら、給湯器が壊れてたよ。」

と、智さんは笑う。

その家というのは、村の人のご実家だそうだけど、ご両親はとっくになくなっていて、子供たちのために、十五年程前建て替えたのだけれど、みな都会へ行ってしまって、空き家のままになっているのだそう。

智さんが住まいを探していると聞いて、家族全員、快く承諾して貸してくれたらしい。

「へえー、私、次の休みも来るよ。手伝えることあったら何でも言って!」

「うん、ありがとう。……合鍵渡すから、いつでも来て。」

「えっ」

ドキッとする。

「というか、もしよかったらだけど、一緒に住まない?」

「!?」

そ、それって!……それとも聞き間違え??

彼は微笑んで、澄んだ目をしてまっすぐに私を見ている。

「楓さん。僕は、楓さんが好きだ。大好きだ。僕と、付き合ってくれませんか。」

すべてがにじみ、頬が熱くなる。

「……ほ……ほんと……?」

彼はうなずく。

「ほんとに?智さん……」

「うん。ほんとに。」

「……私も、智さんが、大好き……!」


私の涙は、智さんのジャンパーに、

ビールは砂に、

しみこんでいく……。


鼻をすすって言う。

「ねえ、智さん。」

「何?」

「給湯器、早く治そう?」

と彼を見ると、笑って、

「うん。」

幸せそうにうなずき、自分のマフラーで涙をぬぐってくれた。

そして私の髪をなでて、キスを……。

けど、私はあわてて離れて、

「ごめん智さん!」

後ろを向きつつ、ポケットからティッシュを引っ張り出して、鼻をかむ。

彼の明るい笑い声。

「う~、はずかし~!」








夜。

僕は二階の部屋で

窓越しに空を眺めている。

さっきまで布団に寝そべって本を読んでいたけれど、

満月が上っていることに気づいた。

明かりを消して

ちょうどよく見えるところに座って

月を見上げている。


……とても……綺麗だ……。


一階から、楓さんが階段を上がってきた。

「…智さん?」

明かりが消えてるので、どうしたのなかと思ったらしい。

「あ、月がきれいで。」

と、僕は微笑んで窓を指さす。

彼女は階段の明かりを消し、僕の隣にやってきて座る。

空を見上げて、

「ほんとだ!綺麗……!」


……あの島にいたときも、こうして二人で……後、チャオと一緒に月を眺めた……。


昔……、妹の紗良とも、こうして眺めた。マンションのベランダで……。


「あ、戸締りしておいたよ。」

と、僕は伝える。

「ありがと!お湯止めてきたよ。」

「ありがとう。」

僕は微笑み、彼女の髪をなでる。

乾かして、とかしたばかりの髪……。

彼女も微笑んで、僕に寄り掛かる。

……暖かい……。

僕は、彼女の肩をそっと抱く。

僕は言う。

「チャオ、元気そうだったね。」

「うん。湯原さんも、とっても幸せそうだった。」

「うん。」

湯原さんは、チャオの飼い主。

昨日から今朝にかけて、三人と一匹で、キャンプをしてきた。

初心者の湯原さんは、

「新鮮で、楽しかったです!」

と言って喜んでくれた。

チャオも、楽しそうに駆け回っていた。

「ねえ、智さん。

智さんとチャオ島に、湯原さんをお誘いしてみたらどうかな?

湯原さん、何も言わないけど、きっと智さんとチャオがどんなところで暮らしてたか、見てみたいんだと思う。」

「そうだね。お誘いしよう!……チャオは……」

あの島を離れることになった出来事を思い出し、チャオを連れて行っていいものかと、思ってしまった……。チャオは、あの日以来一度も島に渡ってない……。

「もちろんチャオも一緒に。

……悲しい思い出もあるけど、でも、みんなで行けば、また楽しく過ごせるでしょ?

楽しい記憶が重なれば、それはチャオにとっていいことだと思うけど、どうかな?」

「……うん。そうだね!楓さんの言う通りだ!」

僕が迷った時、彼女は必ず、はっきりと良い判断をしてくれる。

とても心強くて、ますます好きになる……。

僕は笑って、楓さんの頭に頭をくっつける。

「ふふ!」

彼女は幸せそうに、くすぐったそうに笑う。

……今、あの島はどうなってるだろうと、僕は想像する。

「……みんなでごみ拾いしなきゃ……。」

きっとたくさんたまってる……。

「そうだね!」

彼女は僕の頭をなでている。僕は言う。

「魚を釣って、とうきびをかじって、写真を撮って……」

それから……。楓さんが言う。

「ビールも飲んで!」

彼女と初めて会った時を思い出した。

木陰で水着姿で酔っ払ってた……。

「ふふふ!」

「何?智さん。私、笑われてる?」

はなれて、彼女を見て言う。

「君とあの島で出会えて、本当によかったなと思って。」

心の底からそう思う。

「……智さん……!」

月明かりで見る美しい君は、泣きそうな顔をして喜ぶ。


僕たちは

キスをする……。


……はなれると

彼女は甘いため息をついた。

僕は言う。

「思い出した……。」

「……何?」

少し酔っているような、彼女の頬を、そっとなでる。


「君は……僕の……神様だよ。」


「……え……⁉そ、そんな……!」

彼女はたじろぐ。

「智さん!?急に何!?」

「はは!君はそれぐらい素晴らしい人で、愛してるってことだよ。」

「!!」


「楓さん。結婚しよう。」


「!!!」


そっと抱きしめると、彼女の脈拍が早いのが伝わってくる……。

……苦しそうに息をしている。

「智さん……!」

震えて泣いている。

「うれしい……!」

抱きしめられた……。


「ありがとう!智さん……!」


「それを言うのは僕のほうだよ。」


僕は離れて、彼女の眼を見てほほ笑んで言う。


「僕と一緒になってくれて、

ありがとう。楓さん。」


「……う……う……」

彼女は

ぽろぽろと涙を流して、

首を横に振り

「わ、私のほうこそ……!」

僕に寄り掛かった。

熱い体温が伝わってくる。

彼女に抱きしめられる。


「智さん!……愛してる……!」


「……うん。」

僕は彼女の背中をなで、髪にキスする。


「僕も、愛してるよ……!」


彼女の髪をなで、頬を寄せ、抱きしめる……。


それから片手を伸ばして、ティッシュの箱を取る。

数枚引き出して、彼女の顔をふいた……。

彼女は恥ずかしそうに、

「うう……ありがとう……!」

両手で受け取る。



とても大切で……

とても愛しい君は……

泣き止むと、幸せそうに言った。


「ねえ、智さん……。


私、智さんの子供を産みたい。


……智さんは?子供、欲しい?」



紗良の……


明るい笑い声が


聞こえた……。



僕は……


涙がにじみ……


溢れ……


こぼれた……。


彼女は気づき、


「智さん……?」


僕は、震えて泣いている……。


彼女の手を握って言う。


「楓さん……!ありがとう……!」


君は笑って、僕をそっと抱きしめた。


君が、そう言ってくれるなんて


幸せで……


幸せで……


涙が止まらない。


……こんなに泣くのは、いつ以来だろうと思った。


……紗良が、亡くなった時以来だと、気づいた……。



……呼んでいる……。


僕らの未来が……


明るく呼んでいる……。



僕は、今ここから

未来を見る。


そして、誓う。


紗良に。


僕自身に。


楓さんに。


僕らの未来に……。


……顔をあげ、目を合わせ、僕は微笑んで言った。



「……会いたい。


僕たちの子供に、会いたい!」



君は嬉しそうに笑ってうなずいた。


「うん!」


抱きしめられ、ほおずりされた。


「智さん!」


「……楓さん……!」





何度も写真で見た……

小さな島に……

私は初めてやってきた……。


砂浜に

きれいな色の波が、緩く打ち寄せている。


おおらかに、枝を伸ばしている樹木。


流木の陰に、小さなカニ。


幸太郎は、カニに向かってうなっている。


「聞いてた通り……!」

私はくすっと笑う。

 

カニが穴に引っ込むと、彼はあきらめて、砂浜を元気に走り回り始める。


河野さんと斎藤さんは、慣れた手つきでテントを張っている。


私はそのほかの荷物を開けて、バーベキューの道具をシートの上に並べている。


幸太郎が、しっぽを振って、私の周りをまとわりつく。


「チャオ!邪魔しちゃだめだよ!」

河野さんが、オレンジ色のゴムボールを放った。


幸太郎は、嬉々として拾いに走る。


テントを張り終わり……

バーベキューを楽しみ……


午後は釣りをしたり……

ゴミ拾いをしたり……

テントで昼寝をしたり……。


夕方になった。


美しい、雄大な夕焼け空……。

夕日色にきらめく海……。

心地よい風……。


私を見上げている幸太郎……。

私たちの、長い影……。


私は、涙があふれてくる。


一緒に、ここに来れてよかった……。


彼を抱きしめる。


私の中のたくさんの気持ちを

言葉にならない思いを

幸太郎は、感じ取っているみたいで

やさしく頬をなめてくれた……。



街中では見られないような、満天の星空を眺め

穏やかな波の音を聞きながら

私と幸太郎は、ひとつのテントで眠った……。


神様がくれた

大切な宝物。

大切な時間。


私は……愛しています……。



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