表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四葉のクローバー  作者: とある貝
9/9

四葉のクローバー

どれくらい、涙を流していただろうか。

体中の、おそらくほとんどの水分を使ってしまうと、涙はやっと止まってくれた。僕の心は、まるで台風が過ぎ去った後の空のように、すっきりと晴れやかになっていた。涙が、心を覆っていたものを洗い流し、クリーンにしてくれたような気分だった。あるべきものがあるべき形で、しっかりと収まったような感じがした。僕はくしゃくしゃに泣きはらした顔で、母を見た。

目が合うと、母はしっかりと微笑んでくれた。優しさの中に、茶目っ気がほんの少し隠し味のように含まれた微笑みだった。その笑顔を見ると、僕の体から、風船がしぼむようにふっと力が抜けていった。僕はこの上なく無防備な状態で、母の腕の中に抱かれながら、笑い返した。

「…どうして、ここにいるの?」

母は再び、くすりとおかしそうに笑った。

「敬太が呼んだからに決まっているでしょう?息子が会いに来てくれたのに、迎えに来ない母親なんていないよ」

母の言葉は、深い森に降り注ぐ霧雨のように、僕の心に優しく染み込んでいった。それは僕に勇気と、根源的な安心感を与えてくれた。

「ここは、どこなの?」

僕はゆっくりと、周囲の景色に目を向けた。あたりには相変わらず純白の光が、空気のように広がっていた。

「どこ、か」

母はそっと、右手で自分の耳に触れた。小さいころから目にしてきた、何かを考える時の、母の癖だった。

「そうね、何て言えばいいのかな。死者の世界、というのでもないし、あなたがもともといた生きる者の世界ともまた違う。ここは、そうね…、境界のような場所なのよ」

「境界?」

「そう。世の中には、色々な区別があるでしょう?生きるものと死んだものとの区別があって、こちらの世界とあちらの世界との区別がある。敬太と、敬太以外の存在との区別がある。そういう区別があるところには、決まって境界があるものなのよ。国と国とがあったら、その国境があるのと同じように」

僕はもう一度、周りの景色を見渡した。その一様過ぎて、意味を置き忘れてしまったような光景に、境界、という言葉は不思議と、しっくりとなじんだ。

「ここが境界ってことは、ここを過ぎると、別の世界に行けるってこと?」

「そう。この道は、その別の世界へと続いているの」

母はそう言って、後ろを振り返った。そこにはやはり、先が見えないほど長い真っ白な道が伸びていた。

「この道の先には、扉があるの。この道幅くらいの、やっぱり真っ白で綺麗な扉。そこを抜けられるのは、ある一定の資格を持った人だけ。母さんは、その扉の向こう側から来たんだよ」

僕は母の視線の先を見つめ、それから母の姿を見つめた。母が着ている純白のワンピースは、どこか特別な場所へ行くための、特別な衣装のように見えた。

「僕も、そこに行くことができる?」

母はほんのわずか、驚いたように目を見開いた。

「…敬太も、向こうに行きたいの?」

僕は黙って、頷いた。

母はしばらく、僕の目をじっと見つめていたが、やがてふっと相好を崩して、僕の頭を優しく撫でた。

「多分、敬太にはまだ早いと思うよ。敬太にはもう少し、もとの世界でやることがあるよ」

小さなとげのような痛みが、僕の胸を鋭く刺した。母の言葉に込められた愛が、頭に置かれた手の温度が、僕にもたらした痛みだった。僕の心の奥に、あの日からずっと、根付き続けていた痛みだった。

「…僕は」

言葉は、重い何かに憑かれたように、なかなか出てきてはくれなかった。

「僕は、色々なものを、壊してしまった」

想いが、心の底からこみあげてきた。胸が締め付けられ、息が詰まった。僕は自分のこぶしを、強く握った。

「母さんがいなくなって、すごく寂しかった。母さんが死んだときは、本当につらかったし、悲しかったし、苦しかった。どうして母さんが、って思ったし、正直、どこかで怒ってすらいたよ。なんで僕たちを遺して、死んじゃうんだよ、って。勝手に僕たちを置いて、遠い所へ行かないでって」

母は黙って、僕の話を聞いていた。僕はこみ上げる感情に任せて、喋り続けた。

「それでも僕たちは、三人で何とか頑張ってきたんだ。僕たちはまだ幼かったし、決して強い存在ではなかったけど、でも僕らなりに何とか、ベストを尽くそうとして生きてきた。母さんがいなくても大丈夫だ、っていうのを、もし母さんが見ているのなら、三人で天国に向かって教えてあげたかった」

枯れたはずの涙が、再びこみあげてくれるのがわかった。それは激流のような強い力で、僕を押し流そうとしていた。

「でも、僕は、そんな僕たちの絆を、香代と父さんとの信頼を、踏みにじってしまったんだ」

声が揺れた。鼻が熱くなり、視界がにじんだ。血を吐くように、言葉を喉の奥から絞り出した。

「僕は父さんに、ひどいことを言ってしまった。父さんと香代を、取り返しがつかないくらい、深く深く傷つけた。三人で築き上げてきた並木家を、バラバラに崩壊させてしまった」

死んだ母さんより、仕事のほうが大事なのかよ。

あの日に放った僕の言葉を、その瞬間の父の表情を、消し去ることはできなかった。どれだけ悔やんでも、どれだけ戻りたいと願っても、壊れてしまった大切なものを、元に戻すことはできなかった。母があの時どう感じたか、それを想像すると、身を切られるような思いがした。

「僕は…」

涙と嗚咽にかき消され、言葉はそれ以上続かなかった。後悔、ふがいなさ、無力感、様々な感情の奔流に飲まれ、僕は顔を上げられなかった。ここまで僕に会いに来て、僕をしっかりと抱きしめてくれた母を、直視することができなかった。

泣き続ける僕を、母はゆっくりと、力強く、抱きしめた。僕をすっぽりと包み込み、あらゆるものから護るような抱擁だった。母の両腕は、僕の存在をそのままの姿で容認し、そのすべてを受け止めてくれていた。

「本当」

耳元で、呟く声が聞こえた。春の日差しのもと、小さな花を揺らすそよ風のような声だった。

「不器用に育ったのね。誰かさんに似て」

母は僕の肩を抱き、正面からじっと僕の目を見つめた。その目にはとても穏やかで、慈愛に満ちた光が宿っていた。それからそっと手を伸ばし、僕の左頬に、優しく触れた。

「敬太にはもう、わかってるはずだよ」

静かに、あるべきものをなぞるように、母は言った。

「並木家は、壊れてしまってなんかいない。バラバラになってなんかいない。どれだけ辛いことがあっても、どんなすれ違いがあったとしても、私たちが家族であることに変わりはない。私たち四人は、何があっても分かつことのできない、太くて硬い絆で結ばれているんだよ」

頬に触れた母の手から、母の意思が、感情が、伝わってくるような気がした。それはとても温かくて、僕の心の芯の部分を、じわりと少しずつ解かしていった。

「あの日の夜、確かに敬太はひどいことを言ったよ。敬太は故意に、人を損なう意思を持った言葉を放った。その結果、香代も、父さんも、それから私だって傷ついた」

僕の胸に、また小さな痛みが走った。でもそれはもう、僕一人だけの痛みではなかった。僕一人だけの苦痛ではなかった。母の声は、手のひらは、その痛みすらも受け入れてくれていた。

「でもね、それは何も、敬太だけのせいじゃない。父さんのせいでも、父さんの会社のせいでもない。全ては仕方がなかったことだし、あの状況では、ああなる以外の選択肢なんてなかったんだよ。敬太も、香代も、父さんも、誰もが最善を尽くそうとして、努力した結果があの夜だった。それがわかっているから、香代も父さんも、もうとっくに敬太のことを許しているんだよ。」

母は手を離し、そっと僕の頭にのせた。

「敬太も、わかっているでしょう?」


お兄ちゃん、お帰り。


学校はどうだ。疲れてないか。


今日の夕ご飯はカレーだよ!


まだ起きてるのか。無理はするなよ。


見て!美術の先生に褒められた!


…たまには、家に帰ってこい。


…そうだ。

香代はずっと、明るく振舞ってくれていた。あの事件の後でも、以前と変わらず、僕を慕ってくれていた。それはぎくしゃくした僕と父との関係をどうにか補い、並木家のバランスを保つためだと思っていた。

父の言葉に、耳をふさぎ続けていた。まっすぐ見つめてくる瞳から、ずっと目を背けて過ごしてきた。弱くて、臆病だった僕は、向き合うべきだったものから、逃げ続けたのだ。僕は二人のことを顧みないで、勝手に一人で、壁の内側に閉じこもった。

二人は、ずっと僕のことを、ちゃんと見ていてくれたのに。

「重かったでしょう」

優しく、諭すように、母が言った。

「寂しかったでしょう」

僕は、唇を噛んだ。涙は溢れてきたが、声を上げては泣かなかった。右手で目頭を押さえ、左手のこぶしを、強く握った。

「もう、自分を許していいんだよ」

溢れようとする涙を、懸命にこらえた。もう、母にすがることもしなかった。僕は瞼を抑えながら、倒れることなく、崩れることなく、必死に自分を保っていた。

僕は、壁から出ないといけないのだ。外の世界に生身で羽ばたき、生きていかないといけないのだ。自分自身を信じて、世界と向き合わないといけないのだ。それは母のためであり、父と、香代のためであり、そして何より、僕自身のために。そして今の僕なら、母から全てを受け取った僕なら、それができるだけの強さをすでに、得ているはずだ。

僕は顔を上げ、母を見つめた。母も、まっすぐ僕を見つめ返した。その目の中には確かな愛と、確固たる信頼が宿っていた。僕は歯を食いしばり、嗚咽を抑え、力の限りで、頷いた。

母は笑って、それから僕を思いっきり抱き寄せた。苦しいくらいに強く、硬い抱擁だった。僕を抱きしめた母の頬を、一筋の涙が伝うのがわかった。僕も母の小さな体を、しっかりと強く抱きしめた。

腕を離し、涙をぬぐう母は、とても満たされた表情をしていた。そしてそこには、ぬぐい切れない寂しさが、溶け切らなかった雪のようにわずかな影を落としていた。今の僕は、その表情の意味を、理解することができた。母が感じた寂しさを、僕の大切な一部として、引き受けることができた。

「ありがとう」

強く、はっきりと、母に言った。その言葉がきちんと母に届くように、母の心の中に、しっかりと像を結ぶように。

母は唇を持ち上げ、確かな微笑みを口元に浮かべた。大切な人に贈る、一通の手紙のような微笑みだった。そして僕の瞳を、じっと見つめた。

「…そろそろ、時間だね」

僕は小さく、頷いた。

母はワンピースの、裾についたポケットに手を入れた。そしてそこから、何かをそっと取り出した。

「持っていきなさい」

それは、四葉のクローバーだった。柔らかい若葉色の、幸せの象徴のようなクローバー。僕が今日一日、ずっと探し求めていたクローバーが、母の手の中で眩い光を放っていた。その光は、紙片を通してみた時よりも、一層明るく、美しかった。心の底から湧き上がってくる喜びのように、光は幸福を伴ってほとばしり続け、幻想的に輝いていた。僕は我を忘れて、その光景に茫然と見入った。

「…これって」

ようやくそれだけ言って、母を見た。

「探していたんでしょう?」

僕は曖昧に頷いた。母はちらりとクローバーに視線を落とし、それから僕を見て、小さく笑った。

「敬太が小さい時、いつも四葉のクローバーを見つけて、持ってきてくれたよね」

懐かしそうに、母は言った。その表情は昔、僕が四葉のクローバーを渡したときの、あの笑顔にそっくりだった。

「保育園からの帰り道、近所の草むら、家の狭い裏庭。いろんなところで四葉を見つけて、それを母さんに渡してくれた。もうずいぶんと、昔のことだけどね。覚えてる?」

忘れるはずがなかった。それは僕の人生で、最も美しい記憶の一つだった。僕が四葉を見つけるたび、母はいつも変わらず、同じように喜んでくれた。それがうれしくて、その笑顔が見たくて、僕は何度も四葉のクローバーを、探して歩いた。

「あの頃、敬太が持ってきてくれるクローバーが、母さんは本当にうれしかったんだ。あんまりにたくさん持ってきてくれるから、いくつかのものは枯れちゃったけど、でもなるべく、形にして残しておきたかった。だから、いろんな小物を作ったんだよ。」

しおり、ブローチ、キーホルダー。母はいつも、僕が見つけたクローバーを、簡単なアクセサリーにしてくれた。時には香代がそれを手伝ったり、完成品を父にプレセントしたりもした。僕がクローバーを見つけるたび、そこから特別な空気が充満していくかのように、家じゅうに笑顔が広がっていった。あの頃は、クローバーを通して家族四人がぴったりと、親密な形で繋がっていたのだ。

「母さんにとって、それらは全部、愛しくて大切なものだった。できることなら、ずっと肌身離さず、持っていたかった。だから母さんがこっちに来る時、一緒に棺桶に入っていたキーホルダーを、こっちに持ってきちゃったんだ」

母の葬儀の時、確かに棺桶には、四葉のキーホルダーが入れられていた。そしてそれと同じものが、父の携帯電話にもストラップとしてつけられていた。あのキーホルダーを入れたのは、おそらく父だったのだろう。だしぬけに、そう直感した。

今でも父の携帯には、四葉が揺れているのだろうか。

「死ぬって、やっぱり結構寂しいものなんだよ。一人ぼっちだし、大事な人はみんな涙を流してるしさ。また会おうね、くらいの気持ちで、軽く手なんか振ってくれてもよかったのに」

母はそう言って、少女のようにはにかんでみせた。

「だから、この子に一緒に来てもらっちゃった」

四葉のクローバーは相変わらず、母の手の中で堂々と輝いていた。自分が一人の人間を笑顔にし、幸せをもたらしていることに誇りを持っているかのように。

「…僕がそれをもらったら」

母は微笑みを湛えたまま、こちらを見た。

「母さんは、また寂しくならない?」

わずかな、必要最低限の分だけの沈黙があった。母はゆっくりと口角をあげ、何かを言い聞かせるように、笑ってみせた。そして僕の右手に手を重ね、光輝くクローバーを、握らせた。

「私はこの子に、もう十分幸せを分けてもらった」

母の長い髪が、静かに瞼の上に落ちた。まるで懐かしい思い出を棚に戻すような手つきで、母は落ちた髪を耳に掛けた。

「敬太が、これを見つけてくれた時。父さんとお揃いで、これを使っていられた時。こっちの世界で一人、どうしようもなく寂しくなった時。いろんなときにこの子に頼って、支えられて、勇気をもらえた。」

クローバーの光が、握った手からにじみ出ていた。母に包まれ、クローバーを掴んだ右手は、すごく温かく感じられた。

「だから、次は敬太が、この子から幸せを受け取る番だよ」

母はそっと、握っていた両手を離した。僕は手を開いて、そこで光に包まれているクローバーを、じっと見つめた。

クローバーの光には、確かな強さと、確信があった。それは僕の手の中で、まるで夜の海原を照らす灯台の灯のように、褪せることのない確固たる輝きを放っていた。その光は僕の心に眩い朝日のように差し込み、そこに一本の道を浮かび上がらせた。ずっとそこにあったのだが、今までの僕にはおそらく、見つけることのできなかった道だった。僕が僕自身として、ゆるぎなく生きていくために、踏み外すことのできない道だった。

僕は、戻らなければならない。

その時、僕の体が、柔らかな白い光に包み込まれた。

まるで背景に溶けていくように、僕の体から一つずる、存在のかけらが零れていった。体が末端から軽くなり、宙に浮いていくような感覚があった。僕がここに来る時に、哲学の道で僕に降りてきたものと、それは同じ光だった。

「…敬太」

母が僕に向かって、ゆっくりと手を差し伸べた。何かを掴もうとするかのように、最後に何か、大切なものを確認しようとするかのように。

差し出された陶器のような白い手に、僕はそっと、自らの手を重ね合わせた。僕の淡く輝く右手が、母の右手の指先に触れた。右手からはもう、感覚のほとんどが消えてしまっていた。触れている、という感触すら。今にもなくなってしまいそうだった。しかし僕は、母の想いを、感情を、すべてをその指先から、確かに感じ取ることができた。僕と母は、儚く消えかけた指先を通して、どんなものよりもはっきりと、触れ合うことができていた。

「母さん」

声は、淡い吐息のように、すぐに空間に吸い込まれた。それ以上、言葉は続かなかった。意識は徐々に朧気になり、感覚が少しずつ、世界から丁寧に剥がされていった。母の目から、涙が一筋、頬を伝った。

母は唇を噛み、涙をぬぐった。僕は何かを伝えたかったが、言葉はまるで手から落ちる砂粒のように、僕の思いを拾うことはできなかった。ぴったりと合わされた指先が、どんな言葉よりも雄弁に、僕の全てを伝えていた。

光が、ひときわ大きく輝いた。眩しい白色と共に、僕の意識は完全に、この場所から消え去ろうとしていた。体全体が舞い上がり、どこか遠いところへ飛んでいくような感覚があった。

意識が、完全に消え去るその刹那、母が大きく、はっきりと笑った。まるで欠けることのない満月のような、何一つ失ってはいない、完璧な笑顔だった。涙がその頬を、流星のように落ちていった。母は笑顔のまま、僕の心の芯の部分に直接投げかけるような声で、たった一言だけ、遺してくれた。

「愛してる」

母は、ずっと笑ってくれていた。目元に残った涙が、光を反射してきらりと光った。その笑顔を最後に僕の意識は、光の中に、吸い込まれた。


気が付くと、僕は再び、哲学の道に立っていた。

空からは、夕焼けの名残は完全に消し去り、夜がその空白を埋めていた。細い三日月の切れ長の光を、薄く伸びた雲がぼんやりと滲ませていた。ちりばめられたいくつもの星は、割り当てられた役割を淡々とこなすみたいに、思い思いの光を放っていた。

僕の周りには、小さな三つ葉のクローバーが浮いていた。彼らは今朝と変わらない様子で、穏やかにふよふよと揺れていた。少し冷たい風が吹くと、まるで身震いするかのように、大きく動いた。

(帰ってきた)

(帰ってきたね)

軽やかな声が、頭の中に降ってきた。僕は彼らを見上げて、少しだけ微笑んでみせた。

(見つかったのかな)

(見つかったみたい)

(失くしたもの)

(忘れていたもの)

僕の手の中には、あの四葉のクローバーが、眠りに落ちた白雪姫のように穏やかに横たわっていた。それは相変わらず光に包まれていたが、その光は先ほどと比べて、やや小さなものになっていた。役割を終えたろうそくが、その火を少しずつ絶やしていくように、クローバーを包んだ光も、徐々に消えていくのだろう。やがてはまた、普通の四葉のクローバーに戻るはずだ。

(彼が来る)

(彼が来るよ)

クローバーたちが、楽し気な声で囁いた。

彼はやはり、クローバーの茂みの奥から、その姿を現した。シルクハットに、片メガネ。マントに蝶ネクタイ、そしてステッキ。出会った時と、何ら変わりのない恰好だ。彼は僕の姿を見ると、あの時と全く同じように、ぴょこッと帽子を上げて見せた。

「お帰り」

怪盗はそう言って、チャーミングな微笑みを浮かべた。僕も彼に、微笑みを返した。

「ただいま」

クローバーたちが、何かを祝福するように、さわさわと揺れた。怪盗はシルクハットを頭に戻し、それからじっと、僕の顔を見た。

「いい顔をしている」

怪盗はそう言って、綺麗にウィンクしてみせた。

「探し物は、見つかったようだな」

僕は手に持った、四葉のクローバーを怪盗に見せた。彼はお辞儀をするようにそれを見て、それから納得したように頷いた。

「美しい」

まるで宝石でも見るかのように、彼は目を細めた。

「簡単な道のりでは、なかっただろう」

さらさらと、木々が小さく葉を鳴らした。

「確かに」

僕は笑って、正面の怪盗をまっすぐ見つめた。

「でも、たくさんの人が、物が、僕に協力してくれた」

透き通るような虫の鳴き声が、どこか遠くから聞こえてきた。その声は象徴的な鈴の音のように、静けさの中に紋を作った。

「それは君自身が、君の内側に持っていた資質だ」

怪盗はそう言って、手に持ったステッキをくるりと回した。

「世の中には、差し伸べられた手を、うまくつかめない者もいる。そもそもそこに手があることに、気づくことのできない者もいる。彼らは想像力が足りていなかったり、狭いところに囚われていたり、自分が知らない領域に踏み出すことを、必要以上に恐れたりする。そういう特性はもしかすると、場合によっては優れた資質になるのかもしれない。しかしことこの世界においては、自らの枠を取り払い、未知に対する恐怖を乗り越えることが、何よりも重要になってくる」

怪盗は僕に、おそらく最高級の微笑みを向けた。その表情には敬意と、祝福とが込められていた。

「君は、それを成し遂げた」

ばさばさと、大きな羽音が静謐な空間を切り裂いた。見ると、一羽の巨大な鳥が、春の夜空に堂々と羽を広げていた。

怪盗と僕は、しばらくその大きな鳥を見つめていた。鳥は二、三度強く羽ばたき、迷いなく空高くへと昇っていくと、上空で切れ目ない大きな円を描いた。何度かそこで同じように旋回し、それから何かの使命を成し遂げようとするかのように、どこか遠くへと飛び去って行った。

鳥がいなくなると、あたりには何事もなかったかのように、静寂が元通り降り立ってきた。夜空には先ほどよりも多くの星が光っていて、三日月が空に切れ目を入れるように輝いていた。世界はまるで、今この瞬間を保ち続けようとするかのように、穏やかな沈黙の中にいた。

「さて」

怪盗はもう一度、僕にぱっちりとした瞳を向けた。

「君はこの世界で、見事に役割を達成した」

彼は僕の手の中の、四葉のクローバーに視線を向けた。僕もちらりとそれを見て、それからもう一度、怪盗を見た。

「君はもともと、吾輩が盗んでこの世界に連れてきた。そしてここで役割を与えられ、それを文句なく完璧に全うした。そのことは、空に浮かんでいる三日月の光のように明らかだ」

怪盗の片メガネが、月明かりを反射してきらりと光った。

「そろそろ、元の世界に戻るときだ」

少し冷たい風が、僕らの間を吹きぬけていった。

僕は視線を落として、手の中の四葉のクローバーを見つめた。クローバーの光はもうほとんど消えかけていて、その光は僕に、昔捕まえた一匹の蛍を思い出させた。僕の手の中で少しずつ小さく弱くなっていき、やがて淡い光の名残を残して、静かに息絶えてしまった蛍を。

僕はクローバーを、シャツの胸ポケットに丁寧にしまった。怪盗を見ると、彼もまた真っすぐな目で、僕を見ていた。

「寂しいね」

怪盗は軽く、シルクハットに手をやった。

「何かが変わるときには、寂しさが決まってそこにあるものだ。出会いがあるならば、必ず別れがあるのと同じように」

怪盗の所作や、言葉には、相変わらず優雅さと茶目っ気がアクセサリーのように見え隠れしていた。僕は笑って、彼に言った。

「また盗んでよ。こっちの世界は、すごく楽しかった」

怪盗はじっと僕の目を見つめ、それから表情をほころばせた。

「君をもう一度盗み出すのは、とても難しい作業になりそうだ」

僕は笑顔のまま、彼にウィンクをしてみせた。うまくできたかどうかはわからないけれど、怪盗はやっぱり、笑ってくれた。

(戻るの?)

(戻るんだね)

(お見送りしないと)

(お見送り)

頭上から、クローバーたちの声が降ってきた。僕は上を見上げて、彼らに言った。

「君たちは知らないかもしれないけど」

首をかしげるみたいに、彼らは軽く、左右に揺れた。

「向こうの世界では、クローバーは、喋らないんだ」

彼らは一瞬きょとんとして、それから体を揺らして、くすくすと笑った。

(それは大変)

(退屈だよね)

(退屈だね)

(つまんない)

小鳥のように、口々にそんなことを口にした。その様子がおかしくて、僕はまた、小さく笑った。

僕は改めて、怪盗に向き直った。

「いろいろありがとう」

怪盗はすました顔で、胸元の蝶ネクタイをきゅっと締めた。

「君を盗みに行くときは、改めて予告状を送らせてもらう」

二次元の彼が、いったいどうやって予告状を書くのかには興味があったが、彼ならそんなこと、当然のようにこなしてしまうような気もした。もしかすると、完成された予告状をどこかから盗んでくるのかもしれない。

「楽しみにしてる」

怪盗は直立の姿勢で、ぴょこっとシルクハットを持ち上げた。

(そろそろだね)

(そろそろ時間だ)

(お別れの時間)

(準備はいい?)

クローバーの、可愛らしい声が降ってくる。

僕はもう一度、周囲の景色を見渡した。

あたりにはやはり、人影はなく、桜もなかった。疎水が暗闇の間を縫うように流れ、たくさんの広葉樹の並木が、夜の中にひっそりと息をひそめていた。彼らにも、草花にも、夜空に浮かぶ星々にも、それぞれの役割が与えられているのだろう。そしてその役割を、また次の日も淡々と、人知れず果たし続けるのだろう。僕は目を閉じて、この世界の全てに、その生きていく姿勢そのものに、想いを馳せた。

僕は目を開け、クローバーたちを見上げた。それからゆっくりと、一つの句点を打つみたいに、頷いた。

(さよならだね)

(さよならだ)

ひときわ、大きな風が吹いた。

ごう、といううねりの後に、僕の視界は一面の、鮮やかな緑に覆われた。クローバーたちが渦を巻き、僕を包み込んでいた。風がぶわっと巻き起こり、小さな草花が舞い上がった。僕は緑色の嵐の中で、何かを祈るみたいにぎゅっと、目を閉じた。


目を開けると、満開の桜が広がっていた。

夜闇のなか、街灯に照らされた桜並木が、哲学の道をすっぽりと包み込んでいた。天から降りてきた桃色の天の川のようなその光景に、僕は一時立ちすくみ、我を忘れて見入っていた。堂々と枝を広げた溢れんばかりの夜桜は、前置きも余白も何もなく、ただ純粋に、美しかった。

僕は花見客でにぎわう道を、ゆっくりと家に向かって歩いた。ひどく腹が減っていることに気づいたので、目についた売店で草餅を買った。そしてふと思い立ち、そこでもう一つ、買い物をした。

家に帰り、電気をつけると、いつの通りの僕の部屋が迎えてくれた。これといって特徴もない、一般的な八畳一間の一室だ。懐かしさすら感じた部屋に、僕は小さく一言、「ただいま」と言った。僕の心はもう、バラバラではなかった。

椅子に座って、筆箱からペンを取り出した。先ほど買った袋を取り出し、丁寧に包装を解いていった。中から桜模様の、きれいな封筒と便箋が出てきた。

僕は胸ポケットから、四葉のクローバーを取り出した。輝きはもう完全に失われ、今ではもうただの、普通のクローバーになっていた。小さいころ、僕が一生懸命探した、あの時のままの姿だった。

少し考え、押し花にして便箋に張り付けることにした。ティッシュペーパーと新聞紙を敷き、クローバーを綺麗に広げてから、重しになりそうなものを探す。本棚に分厚い英和辞典があったので、それを使うことにした。母が作るときも、よく辞書を重しとして使っていたな、と思い出した。

僕は改めて、ペンを持って便箋に向き直った。横書きの便箋の左上と右下、二か所に舞い散る桜の花びらがプリントされている。シンプルだけど、洗練された綺麗なデザインだった。

いざ考えてみると、言葉はなかなか出てこなかった。話したいこと、聞きたいこと、伝えたいことはたくさんあるのに、それにふさわしい言葉は、僕から隠れているかのように見つからない。頭のなかで、いくつか書き出しを考えてみるが、そのどれもが何かが足りなかったり、あるいは過剰であるような気がした。

僕はゆっくりと息を吸い、それを十分に時間をかけて吐いた。

大丈夫。時間はたっぷりある。自分のペースで丁寧に、一つずつ言葉を紡げばいい。

僕を抱きしめてくれた、母の姿を思い出した。その匂いを、温もりを、愛情を今でもありありと、現実のものとして感じ取ることができた。何を恐れることもなかったし、何かを気負う必要もなかった。僕は肩の力を抜いて、それから大切なものを刻み込むように、静かにペンを走らせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ