母
ぐにゃりと、世界がスライムのように大きく歪んだ。
流動していた色彩が一斉に渦を巻き、引力のようなものが僕を襲った。僕は束の間平衡感覚を失い、目の前が瞬間的に真っ白になった。それからまるで、潮が引くようにすべての感覚が正常に戻った。視界に映った景色はきちんと輪郭を持っていて、僕は自らの二本の足で、しっかりと大地を踏みしめていた。
僕は一通り、あたりの景色を見回した。周りには並木があり、草花があり、水の流れがあった。空には細く鋭い三日月が浮かんでいて、おぼろげな光を放っていた。時折吹く風が、さらさらと木々の葉を揺らした。そこは紛れもなく、普段から見慣れている、あの哲学の道だった。
夕闇に沈んだ哲学の道は、水を打ったように静かだった。あたりに響くのは疎水のせせらぎと、透き通った風の音だけだった。まるで生き物の絶え果てた暗い深海の世界のように、哲学の道はひっそりと、無機質な沈黙を保っていた。
僕は漠然と、その静謐な道を歩いた。道はわずかな街灯と月明かりに照らし出され、どことなく形而上的に続いていた。靴が小石を踏みしめる音が、やけに大きくはっきりと聞こえた。肌寒い風が僕を刺し、小さな羽虫が僕の横を、無関心に通り過ぎた。まるで明確すぎる夢を見て目覚めた直後のように、僕の頭はぼんやりと滲んで、うまく何かを考えることができなかった。目に映る景色は、僕に何も訴えてはこなかったし、訴えるべき何事かを持ち合わせているようにも見えなかった。僕は抜け殻のようになって、哲学の道を歩き続けた。
あの流動的な世界で、僕は結局、四葉のクローバーを見つけることはできなかった。
流れる色彩の波を見下ろしながら、僕はずっと目を凝らし、四葉のクローバーを探し続けた。あらん限りの想像力を使って、一つの小さなクローバーを探して広大な世界を飛び続けるのは、並大抵のことではなかった。酷使した頭はわずかに熱を帯びていたし、体中の神経が疲れて悲鳴を上げていた。それでも僕は自らを鞭打ち、世界中を飛び回った。心に巣食ったあの影に追いつかれないように、僕は自分自身を必死に鼓舞し、奮い立たせた。あの時に見た四葉のクローバーの印象は明確に脳裏に焼き付いていたし、僕はそれを見つけることができると、心から強く信じていた。
僕は何周も世界を巡った。見落としがないように、何度も同じところを探し回った。代り映えのない風景が続いたが、時折その中に、息を飲むような建造物や、圧倒的な大自然の存在を感じ取ることはできた。しかしどこにも、クローバーの姿はなかった。幸福の予感も、親密な美しさも感じることはできなかった。どれだけ探し回っても、あのメアから送られてきたクローバーの輝きだけは、どうしても見出すことはできなかった。そうして再び、京都の上空に戻ってきた時、僕の中で張り詰めていた一本の糸が、ついに切れた。
まるで車のガソリンが尽きるように、僕の想像力は底をついた。僕の脳は思考することを拒否し、その活動を停止した。全ての神経が一気に弛緩し、途方もない疲労感が僕の体を支配した。僕の心には影がにじり寄ってきていたが、そこから逃げるだけの気力はもう、僕にはなかった。影はついに僕の心をとらえ、薄黒い靄となって胸の中に広がった。その影は僕の手から想像力を奪い取り、そして僕はあの流動的な世界から、はじき出されたのだ。
疲れた体を引きずるようにして歩いていると、道端に何か、三角形のオブジェのようなものが落ちていた。二つの小さな物体が、暗闇の中にどこか寂し気に転がっていた。それらはまるで、大きすぎる世界におびえて身を寄せ合うみたいに、ぴったりと寄り添いあっていた。僕は立ち止まり、かがんでその物体をじっと見つめた。
それは二つの、ソフトクリームのコーンだった。コーンはカラカラに乾いていたが、その底のほうには溶けたアイスのわずかな名残が、過ぎ去った時の残滓のように残っていた。片方はマシュマロのような白色で、もう片方は日に焼けたような茶色だった。僕はそれらを手に取り、じっくりと眺めた。宿主を失った二つのコーンは、とても空虚で力のない存在のように見えた。それらは何も語らなかったし、何を生み出すこともなかった。空中を駆けまわり、鬼ごっこを楽しむことももうなかった。僕の手の中にあるのは、ただの干からびた、意味のないアイスのコーンだった。
僕は手に取った二つのコーンを、ゆっくりと傾けてさかさまにした。液体になったアイスが、ぽたぽたと頼りなく、数滴落ちた。それらは寂しそうに宙を滑り、それから燃え切らなかった線香花火のように、音もなく地面に吸い込まれた。あとには本当に空っぽになった、二つの入れ物だけが残った。
突然、ふわっと白い光がともり、二つのコーンを柔らかく包んだ。
コーンはすっぽりと、その淡い光に覆われた。そして僕の手の中で、ゆっくりとその形を失っていった。二つのコーンはまるで、風に吹かれた砂の城が徐々に崩れるみたいに、静かに段階的に溶解した。それに伴って白い光が、いくつもの小さな粒に分かれていった。やがてそれらは星屑のように、無数の光の粒子となって宙に浮かんだ。そして現れた時と同じように、ふわりと穏やかに、優しく、消えていった。
僕はしばらく、何もなくなった自分の手のひらを眺めていた。先ほどまで確かにあった存在は、今では完全に消えてしまった。僕の手の中に残っているのは、乾いたコーンのざらりとした感触のわずかな記憶と、コップ一杯分くらいの虚しさだけだった。冷たい風が、僕の空虚な手のひらをなでた。
僕は道端の茂みの中に、仰向けになって寝転んだ。草花のひんやりとした感触と、独特のムッとするにおいが僕を覆った。無造作に茂った草むらの中で、僕の心は不思議と落ち着き、静かにそこに安定した。まるで太古の昔の、僕らの存在の源泉となった密林の中に包まれているような感覚だった。わずかに冷たさが残る空気や、草いきれのかさかさとした感覚はとても心地よく、懐かしくすらあった。視線の先に広がる深い空には、剃刀のような三日月と、数えきれないほどの星々が浮かんでいた。
僕を捕らえたあの影は、今ではすっかり心の中を満たしていた。影はその特性として薄暗く、欠落を伴うものだったけれど、そこには絶望や悲しみはなかった。重苦しさもなかったし、まとわりついてくることもなかった。それは不完全な暗闇のように、どこか透明であり、無感覚だった。影は僕のばらばらの心の破片を、干渉することも傷つけることもせず、ただ包み込んでいた。どんな主張も強制しない、単純な一つの事実のように。
僕は夜空に向かって笑った。小さな名もない花のような微笑みを、誰に見せるというわけでもなくそっと口元に浮かべてみた。そうしてみると、今まで僕が背負い続けていた何かが、すとんと消えてしまったような気がした。僕の心を押さえつけ、呪いのように僕を縛っていたそれらは、まるで朝露のようにあっけなく、ひとつ残らず姿を消した。心を圧迫していた何かが消えてしまうと、僕の胸にはゆとりと、慈しみを持った余白が生まれた。バラバラになった心の破片は、小さなネズミが適切な巣穴に身をひそめるように、その余白に落ち着くことができた。僕の心には余計なものは何一つなく、すっきりと整理されていた。僕はこの上なく軽やかな気持ちで、空を見上げた。混じりけのない真空のように整頓された胸の中には、一つの明確な結論が浮かんでいた。不要な物事をすべて取り除き、全てを極限までシンプルな形にした時に、おのずから生じた結論だった。それは陰に包まれた心の中で、夜空に瞬く星のように、確固たる真実の光を放っていた。僕はその結論を、ごく自然なものとして、何の抵抗もなく受け入れることができた。一度それを受け入れてしまうと、三日月の浮かぶ春の夜空は、この世の何にもまして綺麗で、美しく見えた。僕はもう一度、大切な何かを丁寧に包み込むみたいに、夜空に向かって微笑んだ。そして心の中で煌々と輝く、確信を伴った一つのテーゼを、しっかりと胸に抱きしめた。
四葉のクローバーは、この世界には存在しない。
どこからともなく、白い光が降りてきた。
光は僕の体をすっぽりと包んで、穏やかな輝きを放ち続けた。光の中で見る光景は、一つの和やかで、温かな夢のようだった。幸福の余韻だけを残して、目覚めたら記憶から消えてしまうような類の夢だ。僕は優しい光に包まれながら、そっと目を閉じて、体中の力を抜いた。
ふわっと体の一部が軽くなり、綿毛のように舞い上がった。その感覚は指先から始まり、手首や足首、腕やふくらはぎなどを伝って、徐々に全身に広がっていった。僕の存在が水に溶かされていくように、少しずつ薄くなるのがわかった。まるで温水のプールに浮かんだまま、静かに眠りに落ちていくように、僕の意識は段階的に、ゆっくりと失われていった。僕は恐怖も、焦りも感じなかった。光の中はとても心地よくて、とても安心感があった。僕は目を閉じたまま、淡く輝く光の意思に、身を任せた。
薄れていく意識の中で、僕の脳裏に様々な情景が帰来した。
僕はコイを思い出し、真珠を思い出し、バニラとチョコ、欅の木、怪盗、クローバーを思い出した。朝日の下で歩いた哲学の道を思い出し、心がばらばらになった瞬間の奇妙な違和感を思い出した。フィルムが巻き戻されるように、僕の想像は加速しながら、僕の人生を辿っていった。
入学式の日の、心から嬉しそうな香代と父の笑顔が浮かんだ。僕の合格祝いに、忙しい仕事の休みを取って、香代と一緒に調理場に立った父の姿を思い出した。僕と父との間に流れる、冷たく攻撃的な空気を感じ取った時の、香代の寂し気な瞳の色が目に浮かんだ。あの日に香代を怒鳴りつけた自分の声を、父に言葉を放った時の、内臓をえぐるよう手ごたえを、そして大切な何かが、粉々に砕け散ったその瞬間の絶望を、僕ははっきりと、手に取るように感じ取った。全ての映像は鮮明で、力強く、打ち寄せる波のように次々と、僕の心に押し寄せた。
僕は蘇る記憶と共に、様々な痛みを、悲しみを、そして絶望を思い出した。僕の人生を包んでいたのは、多くがそのような暗い感情であり、喪失を伴う記憶だった。それらを受け止めるには、当時の僕はあまりにも幼すぎたし、あまりにもちっぽけな存在だった。しかし今では、僕はそれらの感情を赦し、全てを受け入れることができた。僕の心に生じた余白は、それほどまでに深く、寛大だった。僕は抵抗もしなかったし、負の感情から目を背けようともしなかった。何物も拒まなかったし、何物も否定しなかった。僕は僕を包む光のように、あらゆる存在をその手に抱いて、煌々と輝くことができた。
(敬太、敬太)
おぼろげになった意識の中に、母の声がこだました。
(敬太、ほら見て。桜がきれい)
僕の目の前に、鮮やかな桜が広がった。桜は堂々と枝を広げ、ほとばしるような桃色で僕の視界を埋め尽くした。無数の小さな桜の破片が、風に吹かれて滝のように舞い踊っていた。僕は降り注ぐ桜の雨の、その真ん中に立っていた。
幼い香代が、桜を見上げてはしゃいでいた。大きく腕を広げて、舞い散る花びらを祝福するように、満面の笑みを浮かべていた。父が香代の頭に手を置いて、慈しむように微笑んでいた。そしてもう片方の手に持った杯を、大切そうに傾けた。
僕は、声のした方に視線を向けた。周囲は幸せな喧騒に満ちていて、僕は一瞬その方向を見失いかけた。でも、僕の隣には、しっかりと母の姿があった。母は目を細めて、香代と父とを眺めていた。そこには安らかな充足感と、まばゆいほどの愛しさが込められていた。僕の視線に気づくと、母は確かめるようにこちらを見つめ、それから心からの幸せを含めて、笑ってみせた。
そうだね、母さん。今ならわかるよ。
薄れゆく意識の中で、僕は母の姿に語り掛けた。
あの頃にはわからなかったけれど、今ならわかる。母さんが、毎年家族みんなで花見をしようといった理由も、桜を見るたびに本当に、幸せそうな表情で笑っていた、その理由も。僕は子供だったから、気づくのが随分と遅くなってしまったけれど。でも今なら、ちゃんとわかるよ。
僕たちが、家族四人で眺めた桜は、本当に、本当に美しかったんだね。
満開の桜が、風にあおられて大きく揺れた。無数の花びらがまるで、空間の海に泳ぐみたいに、華やかに空中にちりばめられた。隣にあった母の姿は、降りしきる桜のヴェールに包まれて、少しずつ遠く、霞んでいった。その存在は徐々に僕から遠のいていき、桃色の嵐に飲み込まれた。桜に吸い込まれてしまう直前、母が僕に向かってもう一度、何かを確かめるようにしっかりと、微笑んでくれたような気がした。
きらりと、光がひときわ大きくきらめいた。目を閉じていてもはっきりとわかる、とても明るい確固とした輝きだった。何かを象徴するようでもあり、また何かを切り離すみたいでもあった。その光を最後に、僕の意識は、どこかに吸い込まれるように、ふわりと消えた。
淡い光が、瞼を通して差し込んできた。
目を開けようとしたが、瞼は何かで固定されたみたいにずっしりと重く、なかなか動かすことができなかった。意識には長い眠りから覚めた後のように、ぼんやりと靄がかかっていた。手足の感覚は曖昧で、僕はまだ自分が存在しているという事実を、うまく呑み込むことができなかった。
重い扉をこじ開けるように、うっすらと目を見開いた。視界はじんわりと滲んでいたが、やがて少しずつ焦点を結び、徐々に現実が追い付いてきた。視界が安定するにつれ、おぼろげだった意識が、霧が晴れるようにはっきりとしてきた。五感がゆっくりと働き始め、四肢の感覚が戻ってきた。僕は時間をかけて、注意深くあたりの景色を見渡した。
周囲は一面、ほのかな白い光に包まれていた。まるで深く清らかな雪の世界に迷い込んだかのように、見渡す限り純粋な白色が広がっていた。光のほかには、何もなかった。音もなかったし、においもなかった。空間にあるのは概念的な輝きだけで、白以外の色を持っているのは、僕だけだった。そこにいると自分がどこか、異質なものであるような気がした。
僕の足元には、一本の白い道が伸びていた。道幅は一メートルに満たない程度で、それはずっと遠くまで続いていた。先端は光の海に吸い込まれ、その長さを確認することはできなかった。その道の色もまた、混じりけのない純白だった。色という枠の中からはみ出してしまいそうなほど、その白色は完璧で、超然としていた。
僕は目の前に伸びたその道を、ゆっくりと一歩ずつ歩いて行った。その無音の空間においては、わずかな衣擦れの音や靴音、僕の心臓の音までをも、はっきりと聞き取ることができた。普段は気に留めることもないそれらの音は、無造作に僕の心を掻き立て、落ち着かなくさせた。景色は全く変わることはなく、僕は自分が進んでいることに、だんだん確信が持てなくなった。それでも僕は機械的に、淡々と足を動かした。
一体ここはどこなのだろう。
僕は歩き続けながら、ぼんやりとこの場所について考えた。
あたりに満ちている光は、哲学の道で僕を包んで、ここに導いた光に似ていた。とても穏やかで、柔らかい。ソフトクリームのコーンが消えてしまう時、あるいは空から降ってきた紙片が再び元いた場所に帰るとき、放たれたものとおそらく、同じ光だ。
『役割を放棄したものは、消えてしまう』
三つ葉のクローバーたちに囲まれたあの場所で、怪盗は確かにそう言っていた。深く静かな水底で、死んだ魚たちは光に包まれて消えていくのだと、真珠も僕に話してくれた。
僕は哲学の道で、自分の役割を放棄したのだ。リセットボタンを押したみたいに、跡形もなく。そして美しい白い光が、僕を迎えに降りてきた。そしてその光に包まれて、僕の存在は砂糖が溶けていくように、ぱらぱらとほどけて失われていった。僕は、消えてしまったはずだった。
向こうの世界においては、僕は確かに消えたのだろう。僕の肉体は跡形もなく消滅し、僕の精神ももう、あちらの世界には存在しない。それが消えるということの意味であり、本質であるはずだった。「死」よりもある意味では優しくて、ある意味では絶対的な片道切符。
僕はもう一度、あたりをぐるりと見回してみた。景色には相変わらず変化はなく、白い光が空気のように静かに満ちているだけだった。意味や、差異といったものが取り払われた、中立性の極限のような光景がそこにはあった。
ここは、死後の世界なのだろうか。あるいは僕が迷い込んだ世界において、消滅後に導かれるべき空間なのだろうか。
そうかもしれない。「死」とはつまり、世界間の不可逆的な移動であって、僕はメアの統率する世界のルールに従って、あちらの世界からこちらの世界へと移された。その考えは、「死」についての僕の仮説の一つだし、比較的妥当で、筋が通っているように思えた。
でも、だとしたら、この道はいったいどこへ続いているのだろう。僕が今いるのは死後の世界で、元いた世界で何かしらの条件を満たすと扉が開き、ここに来るための片道切符が与えられる。そこまでは確かに、僕の仮設で説明できる。でもそこから先のことは、僕には何一つわからない。僕は今、どこに向かっているのだろう。
わからないまま、僕は黙々と足を動かした。僕にわかっていたのは、僕は何一つわからない、ということだけだった。無知の知。ソクラテス。欅の木が喜びそうだ、と思って、僕は一人で小さく笑った。どのみち僕に今できるのは、目の前の道を進むことだけなのだ。いくら考えたところで、取りうる選択肢なんて、初めから一つしか用意されていなかった。
ふと、前方に人影のようなものが見えた。
真っ白な道の先に、誰かが座って、こちらを見ている。まるで濃密な霧が立ち込めているみたいに、光の中でその姿は、ぼんやりと薄くぼやけていた。人影はじっと正座したまま、その場にとどまって動かなかった。その人物は、静かに瞑想をしているようにも、何かを待っているようにも見えた。
僕は、少しだけ歩調を速めた。吸い寄せられるように、足はその人影に向かった。その姿をもっと近くで、もっとしっかり確認したいと思った。
近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。真っ白なワンピースを身にまとい、長い髪をゆったりとおろしていた。その顔には、とても淡い微笑のようなものが浮かんでいた。何も示していない白紙の表情の中に、微笑みの線をほんの一本、調和を損なわないように引いたような微笑みだ。女性の周囲は、とても穏やかな空気に満ち溢れていた。どことなく人を安心させ、無条件に幸福を感じさせるような雰囲気が、女性の内側からにじみ出ているような気がした。まるで春の木陰に落ちた陽だまりのような、そんな優しさに満ちた気配が、そこにはあった。
気づいたら僕は、駆け出していた。考えるより先に、体が動いた。僕の目からは、勝手に涙があふれてきた。涙はとめどなく、滝のように流れ落ちた。ぬぐっても、ぬぐっても止まらなかった。滲んだ視界の中で、その人物がゆっくりと、僕に微笑みかけるのがわかった。僕は全力で走り、それから僕の存在の全てで、その人物の胸の中に飛び込んだ。
僕は泣いた。喉がかれ、涙で何も見えなくなり、それでも僕は泣き続けた。喜び、怒り、感謝、悲しみ、ありとあらゆる感情が、僕の心の奥底から湧水のようにあふれ出した。そのすべてが涙となり、嗚咽となって、僕の心を揺さぶった。まるで砂漠に水が染み込むように、空っぽだった僕自身が、優しく満たされていくのがわかった。もう、何も怖くなかった。何を求める必要もなかった。僕はその人物の腕の中で、赤子のようにずっと、泣き続けた。
「母さん…」
言葉は、それ以上出てこなかった。母はありったけの力を込めて、僕の体を抱きしめた。そのぬくもりが、力強さが、魔法のように僕を癒し、潤してくれた。母はその、陶器のように白い手で、僕の頭を優しく撫でた。母に触れられるたびに、粉々に壊れていた何かが、奇跡のように修復されていくのがわかった。僕の胸に空いた空白が満たされ、バラバラだった心が、あるべき場所へと集まっていった。ずれた歯車が、再び正確にかみ合う音が聞こえた。崩れていた調和が正しい形に戻り、世界が大きな音を立てて、もう一度動き出そうとしていた。
「敬太」
大切な何かを、そっと箱にしまうように、母は言った。
「よく頑張ったね」
涙が再び、洪水のように溢れ出た。母のワンピースを思い切り握りしめ、ありったけの声を上げて僕は、慟哭した。母はただ優しく僕を抱きしめ、僕という存在を確かめるように、髪を丁寧になで続けた。その手には限りない慈愛と、限りない優しさが込められていた。僕らを包む光は、どこまでも潔白で、どこまでも美しかった。
僕達は真っ白な、完結しきった空間にいた。そこには綻びも、欠落も、恐怖もなかった。僕はその、二人だけの世界に身を横たえ、母の両腕に抱かれながら、涙が枯れるまで、泣き続けた。




