真珠の輝き
あの日から、僕は父と、まともに口を利いていない。
僕たちは最低限、事務的な日常会話以外には、ほとんどどのような話もしなかった。時々父が学校のことや、部活のことなどを質問することはあったが、僕はそれに対して必要最低限の返事だけを返した。僕らの間には深く、暗い、修復不可能な溝が横たわっていた。
僕らのそんな様子を、香代はいつも悲しそうに、ポツンと一人で眺めていた。香代は僕とも、父とも、いつもにこやかに気さくに話してくれたが、そこにはどうしてもぬぐい切れない、ある種のぎこちなさがあった。その笑顔は入念に形作られたものだったし、声のトーンは香代の自然な声色よりも、いつも幾分かうわずっていた。香代の態度は、僕と父との間に生じた溝を埋めるために、彼女が懸命に、精巧に作り上げたものだった。
香代は並木家の崩れた歯車を、一人で必死に回そうとしていた。今まで、並木家の内側に満ちていた親密で、協力的な調和の空気が果たしていた役割を、香代は一人で引き受けようとしたのだ。しかしそれは、大規模な自然が作り出す美しい秩序や輪廻といったものを、一人で再現しようとするかのような試みだった。何年もかけて作り上げられた、協力と信頼感に裏打ちされた堅強な調和を、香代個人が代替することは難しかった。香代の能力如何ではなくて、もともとそれは人間一人には、どうしようもない類のことなのだ。
香代は何も言わなかった。そろそろ仲直りしたら、とか、いい加減お父さんを許してあげなよ、とか、そういったことを口にしたことは一度もなかった。香代はただ静かに、僕と父との仲立ちをし、一度崩壊した並木家を、懸命につなぎとめていた。しかし何も言わなかったからこそ、彼女が僕と父とが和解し、以前のような穏やかな調和が戻ってくることを望んでいるのを、僕はより明確に感じていた。香代の笑顔の中に時折見え隠れする、夕方の枯れ木が落とす影のような悲しみの色は、僕の心の芯の部分に、小さな鋭い痛みを与えた。まるで道端に咲いた、とても大切な可憐な花を踏みにじり、台無しにしたような気持だった。僕は香代と顔を合わせるたびに、並木家をバラバラに打ち砕いたあの日の、残酷な手ごたえを生々しく思い出した。
そのような並木家の状態は、僕にとっても本当に辛いことだった。もともとそこにあった調和を、三人で守り抜いてきた大切な絆を、あの夜に僕が粉々に壊したのは、火を見るよりも明らかだった。そこに責任というものが生じるとしたら、それは迷いなく僕に求められるべきだったし、また僕もできることなら、以前の三つ葉のクローバーのような並木家に戻りたいと、心の底から思っていた。
しかし僕が苦しかった本当の理由は、僕たちは絶対に以前のように戻ることはできないと、どうしようもなく肌で感じていたことだった。僕は頭でははっきりと、理解していた。父が母の命日に遅れたのには、抜き差しならぬ事情があったのだろうということも、理想的な解決法は、父としっかりと和解して父の話を聞くことだということも。それは嵐が去り、自然に冷却された頭で考えれば、簡単にわかることだった。香代はずっとそれを望んでいたし、その望みは間違いなく正しいものであり、反論を差し挟む余地は何一つなかった。
にもかかわらず僕は、自分は絶対に父と話し合うことなんてできないと、悲しいくらいに確信していた。それは生まれた瞬間から、僕の本能に根源的に刷り込まれていたかのような、強固で、絶対的な確信だった。理想は相変わらずそこにあったが、それはどこまで行っても、理想でしかなかった。僕は罪の意識を抱えたまま、それを償うことのできない囚人だった。僕の心は堅牢な壁に囲まれていて、その奥にある現実的な解決策に、手を伸ばすことはできなかった。
香代の態度や、壁の向こうに存在感をもって横たわった正論は、僕を日々息苦しくさせていった。高校三年生になり、受験勉強が本格的に始まると、僕は家にいる時間のほとんどを、部屋に閉じこもって過ごした。それまでは漠然としていた志望校を、京都のとある国立大学にしっかり定め、僕はそこに向かって必死で勉強し続けた。僕はその大学に、特別な魅力を感じたわけではなかった。僕がそこを選んだ理由は、学費が比較的安いこと、そして家から遠く離れていること、その二つだった。卒業したら早急にここを離れて、一人で自らの生活を支えたかった。
僕は家にいる間、家族の誰ともほとんど喋らずに、ただひたすらに勉強した。受験勉強は、僕にとっては苦ではなかった。理論の迷路をわずかな手掛かりを頼りにひも解いていくプロセスは僕の性分に合っていたし、何より一人で部屋で勉強している時間は、罪悪感やいたたまれなさを感じずに過ごすことができた。僕は安心して、自らの壁の内側にこもり続けることができた。
僕は家でも学校でも、次第に孤立していった。口数は目に見えて減っていき、誰かと深くかかわりあいになることを避けた。自分はいざとなったら、大切なものを残酷に踏みにじる人間なんだどいう意識が、僕を周囲の人々から遠ざけた。自分の中にいる怪物が、また誰かを容赦なく傷つけることを、僕は恐れた。僕を囲む壁は次第に厚くなっていき、季節を追うごとに、世界との距離が遠のいていった。
僕が受験に合格すると、父と香代は心から、喜んでくれた。二人で協力して、僕の好物を集めた夕飯を作り、盛大なお祝いをしてくれた。その温かさが、愛情に満ちた白い光が、僕にはあまりにも眩しかった。壁を通してなお僕の内側に差し込んできたその光を、受け取る資格は僕にはなかった。僕はそこから目をそらし、壁の内側から出ないままで、二人の気持ちから逃げ続けた。そして春になり、僕はいろいろなものに背を向けたまま、家を出た。
引っ越しを済ませ、入学式があり、惰性のように大学生活が始まった。大学に入ってからも、僕は機械的に、無機質に日々を消化した。与えられた課題を淡々とこなし、必要以上の人間と関わることはしなかった。僕は人との関係に怯え、暗く光の届かない壁の内側で、一人で過ごした。そのうちに寂しさも、悲しさも、感じなくなった。その代わりに、誰かと何かを成し遂げる喜びも、人と接することの温かさも、僕は忘れてしまっていた。僕は中身のないブリキの人形のように、ただ目の前の日々を、事務的に、無感動に過ごしていった。
そして大学二回生の、今年の春。
僕の心は音も立てず、悲鳴も上げずにひっそりと、バラバラになった。
目の前で、ひときわ大きな光が閃いた。
その光は一瞬、目が眩むほどの輝きを放ち、それから静かに収束した。光は徐々に弱くなり、やがて夏の終わりの線香花火のような、淡い残滓がぼんやりと残った。僕はそこに向かって、水中を蹴りながら沈んでいった。
光は暗い湖底を、包み込むように優しく照らしていた。その光には穏やかな、愛情のようなものさえ感じられた。暗闇の中に浮かび上がった琵琶湖の底は、氷のように静かだった。いくつかの岩礁がごつごつと突き出していて、小さな砂粒がひっそりと湖底に積もっていた。岩礁は所々が不規則に削れて窪んでおり、そこに落とされたわずかな影が、概念的な奥行きを生み出していた。そこには優雅に揺らめくイソギンチャクも、色とりどりのサンゴ礁もなかった。けれど静寂の中に浮かび上がったその景色には、まるで整然と並べられた一つの論理のような、洗練された美しさがあった。
山脈のように連なった岩礁の隙間のある一点で、光がひときわ強く、明るく輝いた。その光はまるで何かを焦らすように、すっと突然暗くなったり、再び大きく光ったりした。湖底を満たす光の源はどうやら、その岩影のところにあるらしかった。僕は水中を満たす淡い光を損なわないように、ゆっくりとその岩陰に、近づいた。
大きな岩礁の根元の、ちょうど岩穴のように窪んだところに、その光源は隠れるように存在していた。そこにあったのは、一粒の可愛らしい真珠だった。真珠は見事な、絵にかいたようなアコヤ貝に収まっており、その中で気まぐれな、優美な光を放っていた。貝の中で堂々と輝く真珠には、凛と咲き誇った一輪の白百合のような、気品と高貴さがあった。
真珠が僕に、気づいたのがわかった。一瞬驚いたように光を強め、それから僕をおそらく、じっと見つめた。音も、動きも、何一つなかった。水中にあったのは、洗練された形での、静寂だった。
(見てのとおり)
真珠が僕に語り掛けた。その声は、今までのどの声とも違う、奇妙な響き方をした。
(ここには特に、何もないわよ)
真珠の声はくぐもってはいたが、落ち着きと独特の冷ややかさがあった。それは僕を突き放したり、拒んだりするようなものではなく、ただ必要以上の温度を持っていないだけの、暫定的な冷ややかさだった。
僕は声を出そうとしたが、言葉はポコッ、という音と共に、泡となって昇っていった。水中で会話をするには、どうやら特別なコツが必要なようだ。僕は意識を集中し、伝えたい言葉を頭に浮かべた。そして言葉が波となって水中を伝わり、真珠にきちんと届くところを想像した。
(ここには、君一人しかいないの?)
僕の思念は声となって、周囲の水を震わせた。通常の声ではなく、水中で会話をするための特別な声だ。真珠はどうやら、その声をきちんと受け取ったようだ。表情も、音声もなかったけれど、雰囲気でぼんやりと察することができた。
(そうね。あとは岩があって、時折死んでしまったお魚さんが降ってくるだけ)
僕は周囲を見回してみた。しかしあたりに、魚の死体のようなものは見当たらなかった。岩と砂と水に囲まれた世界で、生命と呼べそうなものは僕と、目の前の真珠くらいだった。
(彼らはもういないわよ)
僕の心を見透かしたように、真珠が言った。
(役割を果たせなくなったお魚は、消えてしまうの。光に包まれて、儚い夢みたいにふわっと。だから死んでしまったお魚さんが、ここに残ることってほとんどないわ)
(なるほど)
僕は頷いた。確かに死体は、役割を果たすことはできない。
(お魚さんたちは大体、落ちてくる途中で消えてしまうのよ。柔らかく、美しい光の中で、水中に穏やかに溶けていくように。そういう光がキラキラと、瞬きながら降ってくる景色って、すごく綺麗よ)
僕はあの、四葉のクローバーを包んだ光が、湖底に降り注ぐところを想像してみた。真っ暗な湖底に、ダイヤモンドダストのように舞い散る魚の死骸たち。その光景には、ひんやりとした冷たさと、それゆえの鋭利な美しさがあった。
(雪のように)
反射的に、想像したことを口にしていた。
(雪?)
真珠の光が、若干弱くなった。湖底には雪が降らないと、その時気づいた。
(地上では、冬になると雪が降るんだ。白くて、冷たい、宝石のような雪。雪は太陽の光を受けて、きらきら輝きながら、地上に落ちる)
(どうして、雪が降るの?)
どうしてだろう。僕は地球を統治する神様か何かが、雪の粉をパラパラと落とす光景を思い描いた。
(冬は寒くて、いささか寂しいからじゃないかな。風景が閑散としてしまって退屈だから、そこに似合いの装飾として、雪を降らせるんだ。簡素な部屋に、かわいらしい植物を一つ飾るみたいに)
(素敵ね)
真珠は小さく、くすっと笑った。彼女の笑い方には、舞い落ちた花びらを手に取るような、そんなささやかな彩があった。
(真珠さんは)
わずかな水流に乗って、砂粒がふわりと舞い上がった。
(輝くことが、役割なの?)
真珠はひときわ大きく、光ってみせた。
(そう。私は、輝かないといけないの)
(一人きりで?)
(いいえ)
真珠の声にはどことなく、面白がっているような響きがあった。
(別に、一人でないといけないわけではないわ。お魚さんとダンスしながら光っててもいいし、地上に出て、お日様と手をつないで輝いてもいい。それは私の自由)
(でも、君は一人きりで、ここにいる)
(そうね)
僕はあたりを見回した。やはり周囲には、岩と、砂と、水しかなかった。
(寂しくないの?)
(寂しい?)
まるでその単語を初めて聞いたかのように、真珠は言った。
(君がいくら輝いても、この静かな湖底には、その輝きを褒めてくれるものも、愛してくれるものも、誰もいない)
(そうね)
真珠の声は、やはり少しだけ、おかしそうだった。
(それは、僕には凄く、寂しいことのように思える)
(わたしがいるもの)
真珠はきらりと、ウィンクするみたいに輝いた。
(私はちゃんと、私が輝いていることを知ってる。誰も見てなくても、誰にも褒められなくても、私だけはきちんと、私がきれいだってことを知ってるの。だから、寂しくはないわ)
真珠の言葉は、彼女の放つ光と同じように、まっすぐで、芯が通っていた。それは暗い湖底の孤独にも、重くのしかかる水圧にも、負けない強さを持っていた。彼女は完結した一つの物語のように、そこにしっかりと形をもって存在し、凛とした魅力を放っていた。
(なるほど)
僕はそう言って少し、考えてみた。彼女の光は僕の心の深くにまで差し込み、そこで僕自身に問いかけた。
あなたは、あなた自身で輝けている?
どうなのだろう。僕はいったい何を求めて、ここまでやってきたのだろう。僕はどうして、四葉のクローバーを探しているのだろうか。そもそもバラバラになった心の破片に、果たして『僕』は、いるのだろうか。
(あなたの役割は何?)
真珠の問いかけで、僕は我に返った。様々な夢想は水中に浮かんだ気泡のように、ぱちんとはじけて消えてしまった。
(僕の役割は)
理由はわからない。だがその時、かすかな迷いが僕に生じた。
(四葉のクローバーを、探すこと)
(四葉のクローバー?)
(そう)
僕はソフトクリームにした説明を、もう一度真珠に繰り返した。それが四枚の葉を具えたかわいい植物であること。普通は三つ葉と一緒にいるが、僕が探しているのは、少し特別なものであること。それは幸福の予感と、優しい光に包まれていること。
(君が発する光を見て、僕はもしかしするとと思って、ここまで来たんだ)
僕は言った。真珠は興味があるのかないのか、ゆっくりと光を点滅させた。
(でも、ここにいたのは私で、クローバーさんではなかった)
中立的に、真珠は言った。
(そういうことだね)
(残念?)
僕は彼女の質問について、少し考えた。言葉を切らすと、静寂が待ち構えていたかのように、水中を包んだ。
(四葉のクローバーを見つけられなかったという意味では、確かに少し残念ではある。けれど、僕はここで君に会えたし、こうして君と話している時間は楽しい。だから、残念なことばかりではない)
(そう)
あるべき句点を打つみたいに、真珠は言った。それから呼吸二つ分くらい、間を開けた。
(でも、あなたにはあまり、時間はないように見える)
(時間がない?)
僕はわずかに驚いて、聞き返した。静かな湖の底にいると、ある一定の温度を超えないように、感情が制限されているような気がした。
(どうして?)
真珠は、少しだけ光の出力を落とした。
(根拠はないわ。ただなんとなく、そう思ったの)
それから彼女は、揺らぎのない声で、付け加えた。
(探し物をしているのなら、急いだほうがいいと思う)
再び、沈黙が降りた。それは絵画の中に、効果的に設けられた余白のような沈黙だった。
真珠の言葉には、不思議な説得力があった。僕の役割は四葉のクローバーを探すことだし、そこには本質的に、時間の制限はないはずだった。しかし彼女の言葉は、まるで砂地に水が染み込むように、すんなりと僕の心に馴染んだ。それはどちらかというと、彼女個人の意見ではなく、単純な一つの事実の通告であるように、僕には思えた。
彼女の言葉を受け入れた瞬間、僕の中にかすかな、得体の知れない影が動くのを感じた。そこにずっと潜んでいた暗い何かが、真珠の言葉をきっかけに、はっきりと存在を現したような気がした。まるで一枚の紙片に隠されたメッセージが、一滴の水によってくっきりと浮かび上がるみたいに。その影はうっすらとした、漠然としたものだったが、同時に僕の心の奥深くに根付いた、根源的なものでもあった。
急がなければいけない。僕は改めて、ほとんど本能的にそう思った。
(君がそういうなら)
僕は顔を上げて、真珠を見つめた。
(僕は地上に戻って、探し物を続けるよ)
(それがいいと思う)
真珠の声は相変わらず、冷ややかだった。その冷ややかさはこの湖底にはぴったりで、心地よかった。
(ありがとう)
真珠は何も言わず、クールな光を放っていた。
(これはただの、一般的な事実の一つなんだけど)
僕は笑って、真珠に言った。
(君の輝きは、とても綺麗だ)
真珠はこれまでで一番明るく、鮮やかに輝いてみせた。
(知ってるわ)
ほんの少しだけ声が弾んで聞こえたのは、僕の気のせいかもしれない。
(でも、嬉しい)
僕は彼女に微笑みかけた。それから踵を返して、水上へ向かった。
(さよなら)
真珠の声が、こじんまりとした記念品のように、そっと置かれた。それは返事を必要としない、独立した言葉だった。僕は黙って、浮力にふわりと体を預け、昇り続けた。
上へと向かう道のりを、真珠の光が鮮やかに、照らし出してくれていた。水中は、来た時とは違って、ぼんやりとした淡い光に満ちていた。
真珠の強い光が、まるで夜明けを目前とした太陽のように、暗闇を薄く覆っていた。彼女の輝きは、力強く、雄大だった。その光に背中を押されるように、僕は水面を目指して水を蹴った。
上へ上へと向かいながら、僕はこれからのことをぼんやりと考えた。
真珠は僕に、急いだほうがいいと言った。僕には、時間はないように見えると。
確かに、僕にはおそらく、時間はなかった。僕の心には先ほどの影のようなものが、少しずつ忍び寄っていた。それは不吉であり、恐ろしくもあり、またどこか甘美でもあった。影は癌細胞が徐々に体を侵食していくみたいに、僕の心にゆっくりと、確実に広がっていた。僕の精神は必死にそいつから目をそらし、走り続けることを求めていた。理性が強引に精神世界の舵をとり、僕の体を駆り立てた。この影に追いつかれる前に、四葉のクローバーを見つけないといけない。僕は直感的にそう、確信していた。
けれど、僕にはプランがなかった。僕は欅と出会い、空を飛び、ソフトクリームに導かれ、真珠を見つけた。出会いと出会いは線になり、その一本の繋がりが、僕をここまで導いてくれた。
しかし今、その線は先端で途切れてしまい、行先のないまま僕は水中に放り出されていた。僕は今度こそ、地図を見失った完璧な迷子だった。目を凝らしても、耳を澄ましても、何も見えないし聞こえなかった。どこへ行けばいいのかも、何をするべきかもわからなかった。右も左もわからない水中で、僕は一人で、途方に暮れた。
(よぅ)
ふと、頭上から声が降ってきた。
見上げると、光の中に漠然と、一匹の魚が浮かんでいた。それは一メートルほどの大きさで、胸びれをちょこんと挙げていた。下からの光に照らし出されたその姿に、僕はわずかに、見覚えがあった。
(…もしかして、今朝の?)
(覚えていたか。嬉しいね)
それは今朝、哲学の道ですれ違った、あのコイだった。空中を悠々と泳ぎ、僕に親し気に挨拶をしてきた、鈍色のコイ。水中で見ると彼は、今朝よりも一層、コイらしく見えた。
彼はついっ、と水中を優雅に泳ぎ、僕の目の前にやってきた。
(何してるんだ、こんなところで?)
まるで十年来の旧友と話すかのような口調で、僕に聞いた。
(探し物をしているんだよ。僕の役割なんだ)
(何を探しているんだ)
(四葉のクローバー)
(四葉のクローバー)
彼は感触を確かめるみたいに、ゆっくりとその言葉を復唱した。それから胸びれを組んで(実際には、二つのひれがわずかに重なっただけだけど)、考え込むような仕草をした。
(それは、大事なものなのか)
一瞬、胸の中で、あの影がゆらりと揺れ動いた。
(おそらく)
(へぇ)
コイは口をパクパクさせながら、しばらく何事か考えていた。そうしてみると、彼の見た目はコイとしては、やはり一般的で、平均的だった。『コイ』というラベルを張ったショーケースに入れて、博物館に飾れそうなくらいだった。
(どこにあるんだ、それは)
淡々とした口調で、彼は言った。僕は小さじ一杯くらいの自嘲を含んで、笑ってみせた。
(それがわからないから、人はたぶん、探し物をするんだと思う)
(何もわからないのか)
僕は大げさに両手を広げ、ため息をついた。ため息はいくつかの気泡となって、解決されない疑問のように、ぽわんと浮かんだまま消えてしまった。
(何も。これだけまっさらだと、シャーロックホームズだって音を上げるよ)
(そうか)
コイはまたしばらく、口をパクパクと動かしていた。その動きはまるで、いくつかの言葉を試食して、口に合うものを探しているかのようだった。
(探すか)
(え)
いきなり言われて、僕はつかの間、何のことだかわからなかった。
(四葉のクローバー)
(ああ)
僕の声はひどく、間が抜けていた。まるで周りの水のせいで、声がふやけてしまったかのようだった。
(大事なものなんだろ?)
僕の中の影がまた、敏感に反応した。それを無視するように、僕はできるだけはっきり、頷いた。
(でも、どうやって)
(泳ぐのさ)
(泳ぐ?)
下から届く光が、すっと気まぐれに弱くなった。代わりに頭上の水面から、ほのかな明かりがさし込んできた。
(あんたは人間にしては、なかなか泳ぐのが上手だ。見込みはある)
(泳いでいれば、四葉のクローバーが見つかるの?)
(さぁな)
コイは無表情に、両方のひれを広げてみせた。
(大事なのは、想像すること、そして目を凝らすことだ。そうすればあんたは、世界中を泳ぎながら、探し回ることができる)
想像すること。そして、目を凝らすこと。
僕が口を開こうとすると、コイはついっ、と、水面に向けて泳ぎ出した。彼の泳ぎ方には、水とぴったりと結びついた、魚ならではの流麗さがあった。
僕は慌てて、彼の尾ひれを追いかけた。
(今俺たちは、水の中を泳いでいるだろう)
前を向いたまま、コイは言った。
(うん)
(俺たちが上に向かうと、景色は下に動くだろう)
(そうだね)
僕はとりあえず同意した。出来損ないの僧侶と、出来損ないの禅問答をしているような気分だった。
(景色が下に流れれば、俺たちは上へ進むことになるだろう)
(景色が下に?)
コイの尾ひれが作り出した小さなビー玉のような気泡が、僕をからかうようにすっと水面に昇っていった。
(お前がそこにいたとしても、お前以外の全てが滝のように下に流れ落ちていったとしたら、それはお前が上へ昇ったことと、何ら変わりはないだろう?)
(…結果的には、そうかもしれない)
禅問答が、本格的になってきた。コイは淡々と、話し続けた。
(てことは、俺たちが泳ぎながら、同時に景色も動いたとすれば、俺たちはもっと速く駆け回ることができるってことだ。沈もうとする夕日よりも、過ぎ去っていく時間よりも速く。俺たちが動くスピードに、景色が動くスピードが合わさる。すると俺たちがひとりで動く時よりも。より素早く、効率よく動くことができる。小学生でもわかる、単純な足し算だ)
(そんなことが可能なの?)
コイはこちらを見ずに、感情のこもらないプラスチックのような声で答えた。
(不可能な理由がどこにある?)
コイの言葉を聞いて、僕は一瞬戸惑い、それから小さく笑った。この世界は僕たちに対し、徹底的に自由で、寛大であるみたいだった。メアに与えられた役割という、ただ一つの不可侵の領域を犯さない限りは。
僕は僕の動きに合わせて、世界が流動していく様子を思い浮かべてみた。僕がぐっと、空気の階段を踏みしめる。それに押されるように、世界がぐんと後ろに下がる。僕はどんどん加速していき、世界も僕の動きを感じ取り、僕の望むように動いてくれる。僕が前に進もうとすれば世界は後ろへ流れていき、僕が右に行こうとすれば世界は左に向かって動く。僕は巨大な地球儀を回すみたいに、世界を蹴りながら進んでいく。
(全ては流動的で、全ては相対的)
僕はふと、今朝欅に言われた言葉を思い出した。
コイがちらっと、こちらを向いた。
(なんだそれは)
(ここに来たばっかりの時に、大きな欅の木が教えてくれた。読書家で、勤勉で、300歳の欅の木)
(ああ、あの爺さんか。ボロボロの本を、後生大事に抱えてた)
コイはふっと、軽い吐息のようなものを漏らした。もしかすると、彼なりに微笑んだのかもしれなかった。
(あの爺さんは老獪だからな。この世界の仕組みとか、何が大切なのかとか、その辺のことをよく承知してる)
水面は、ぐんぐん近づいていた。太陽の光を受けた湖面は、春にふと訪れる一時の心地よいまどろみのように、幻想的に揺らめいていた。
(お前に泳ぎ方を教えたのも、あの爺さんか)
前を向いたまま、コイが訊いた。
(うん。僕の場合は泳ぐっていうより、歩くって感じのイメージだけど)
(どっちだっていいさ。道理で、うまく泳げている)
コイの言葉が、なんだか無性に、嬉しかった。二人の関係について尋ねてみようと思ったけれど、先にコイが口を開いた。
(いいか。要領は、今までお前がやってきたことと同じだ。世界と親密に結びつき、そこを泳いでいる自分を具体的に想像する。今まで、そうやって泳いできただろう)
(うん)
僕は空中を歩く時の、あるいは水中を泳ぐ時の、心地よい調和の感覚を思い出した。その空間が僕を受け入れ、僕と通じ合っているかのような、安心感に包まれた感覚。僕と空間の呼吸がぴったりとかみ合い、そのままどこへだっていけそうな気がする、全能感にも似た心持。
(そこにちょっと、イメージを付け加えるんだ。お前が前に進もうとするとき、世界は後ろに流れていく。世界とお前とは分かちがたく繋がっていて、お前がそこを泳ぐことと、世界が逆側に流れていくことは、全く同じ意味を持つ出来事となる。そんな流動的で、相対的なイメージだ)
(大切なことは、想像すること)
コイは満足そうに、頷いた。
(そうだ。そして、目を凝らすことだ。お前は誰よりも早く泳ぎながら、その中で大切なクローバーを探さないといけない)
(うん)
僕は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。余計なものをできるだけ排除し、体の中を空っぽにした。そして意識を深く、静かに一点に集中し、先ほどのイメージをより明瞭に、より具体的に頭に描いた。
水面は、もう目の前だった。ゆらゆらと揺れ動く水の向こうに、オレンジ色に染まりつつある夕方の空が映っていた。
僕はこれから水面を飛び出し、世界中を探し回る旅に出掛ける。決して豊かとはいえないであろう想像力だけを携えて、僕は体一つで、僕の役割を全うするのだ。僕はこの旅で、この世界での僕の役割に、決着をつける。
僕の心の中で、またあの影がうごめくのがわかった。それは獲物をじっと待つ深海生物のように、ひっそりと息を殺しながら、僕の心をとらえる瞬間を待っていた。僕はその影の存在を確認し、それから自らを鼓舞するために、上を見上げた。
おそらく、これが最後のチャンスなのだ。
コイは水面間際で、くるりと振り返り、僕を見た。そのままついっと泳いでくると、僕の肩に胸びれを置き、目を合わせないまま、静かに言った。
(想像力を、手放すなよ)
僕はまっすぐ前を向いたまま、しっかりと、硬く、頷いた。
(ありがとう)
視界の端で、コイが頷くのがわかった。全身に力を込め、水を蹴った。
ぱしゃ、と心地よい音が響いた。地平線に沈もうとする、大きな夕日に照らされながら、僕は空中に飛び出した。
ぐっと、透明な階段を踏み込んだ。
今まで空中を歩いていた時と、何ら変わりない行為だった。空間は僕のために足場を設けてくれていたし、僕は何の疑問もためらいもなく、そこを進んでいくことができた。空を自在に歩くという行為に、僕は今ではすっかり慣れていた。僕は何歩か空中を駆けあがり、それからイメージを集中させた。今までの想像の中に、世界が流動していくというイメージを新しく組み込んだ。その感覚は、既存のシステムにプログラムを書き加え、カスタマイズしていく感覚とよく似ていた。バニラとチョコと鬼ごっこをし、空中をアスレチックに改造した時と同じだ。
一瞬ぐらりと、頭が熱に浮かされたようによろめいた。視界がわずかにゆがんだが、すぐにまた正常な状態に戻った。空中から見える景色は先ほどと全く変わっていないが、僕は自分の想像力が、しっかりと世界にリンクしているのを感じ取ることができた。僕は改めて空気の階段の感触を確かめ、もう一度それを踏み込んだ。
周囲の景色が、映像を早送りにするみたいに目まぐるしく変化した。琵琶湖は一瞬で視界の端に消えてしまい、たくさんの森や建物が、眼下をものすごい速さで通り過ぎた。僕がもう一度空気を蹴ると、それに呼応して景色がぐんと後ろに下がった。雲は作りかけの綿あめのように細長く伸びて僕の隣を過ぎ去っていき、風を切る轟音が僕を包んだ。僕は見えない力でひきつけられているみたいに、山を越え、川をまたいで、空中を飛び回ることができた。
走りながら僕は、眼下の景色に集中した。風景は曖昧な残像だけを残して猛スピードで過ぎていったが、目を凝らせばそのわずかな色彩の差を、かろうじて読み取ることができた。僕は弾丸のように駆けながら、金閣寺や銀閣寺、大文字山といったものをきちんと見分けることができた。
何度か京都の周辺を往復し、ある程度の感覚をつかむことができた。コイの言っていた通り、基本的なノウハウは空中を歩く時と変わらなかった。想像力をしっかり保ってさえいれば、特別なことは何一つする必要はなかった。世界がちょこっと協力してくれるだけで、こんなにも見える景色は変わるのだ。
僕は一度空中で立ち止まり、目を閉じた。それから大きく深く、深呼吸をした。肺がいっぱいになるまで空気を吸い込み、それを時間をかけて、ゆっくり吐いた。そして最後の仕上げとして、世界中を駆け巡る自分自身をもう一度イメージした。景色の流れは今よりもギア二つ分ほどスピードを上げ、僕は目のくらむような速さで、世界中を飛び回ることができる。僕は念入りに頭の中の映像を組み立て、それらを想像上のシステムに組み込んだ。そして自分のイメージが、世界ときっちり結びついていることを確認した。放浪に出ようとする旅人が、旅立ちの直前に手荷物を入念に点検するのと同じように。
僕はゆっくりと目を開け、前を見つめた。太陽は本格的に西に傾き、空は先ほどよりも濃いオレンジ色に染まっていた。僕の周りにぽつぽつと浮かんだいくつかの雲は、夕焼けの光を受けて印象的な影を作っていた。僕はそれらの風景を一通り眺め、それからしっかりと、前を見据えた。そして思い切り、空気を蹴った。
一瞬、世界の形がぐにゃりと歪んだ気がした。風景の全ては輪郭を失い、いくつかの色が混ざり合いながら滝のような速さで流れていった。それはあたかも、猛スピードで流れる天の川を見ているような光景だった。透き通った青が流れ、包み込むような緑が流れ、力強い黄色が流れた。僕の体は一瞬のうちに猛烈に加速し、流星のように空を切った。立っているのが困難だったので、僕はうつぶせに寝転ぶような体制になり、流されていくに身を任せた。
僕は眼下の、色彩豊かな激流と化した風景に目を凝らした。流れていく色の割合は、青と緑が多いように感じられた。そこから自分がおそらく、海の上を通り過ぎて、森林の上空を飛んでいたのだろうということを推察することができた。逆に言うと、僕が景色から読み取ることのできる情報は、その程度のものだった。自分がどこにいて、どこに向かっているのかもわからなかった。ましてや過ぎ去っていく景色の中から、一つ一つの物体を見分けることなんて不可能だった。僕は必死に目を凝らしたが、そこには鮮やかな色彩の群れがあるだけで、意味のある何かを見出すことはできなかった。
(大切なのは想像すること、そして目を凝らすことだ)
ふと、コイの言葉が頭の中にこだました。
どれだけ目を凝らしても、僕には何かを見つけることはできそうになかった。うねりを上げて流動する世界の中で、視覚から得られる情報というのはおそらく、ほんのわずかなものだった。それは重要な要因の一つではあるけれど、それだけでは不十分であるようだった。僕は目を凝らさなければならなかったが、それと同時に、想像することが求められていた。
僕は今朝、初めて出会った四葉のクローバーを思い浮かべた。
空から降ってきた真っ白な紙片。そこに描かれていた、美しい四葉のクローバー。
僕はあの時の光景を、ありありと思い出すことができた。手はあの紙片の滑らかな感触を覚えていたし、四葉のクローバーの放っていた、幸福を具現化したような輝きは目の奥にしっかりと焼き付いていた。あのクローバーは、この世のものとは思えないほど神聖で、同時に僕にとっておそらく、とても大切なものだった。理屈や論理を抜きにして、僕が手に入れる必要のあるものだった。だからこそ僕はあの瞬間に、あんなにも強く心を惹かれたのだ。
僕はもう一度、眼下の景色に目を向けた。
景色は相変わらず、轟々とダイナミックに流動していた。カラフルな色彩たちが絶え間なく流れていくその様子は、僕に止まることのない時間の流れを想像させた。その流れ方には、少しの留保も妥協もなかった。僕はその景色に集中した。じっと目を凝らし、耳を澄まし、肌に触れる空気を感じた。体中全ての神経を、まるで一つの宇宙のように過ぎ去っていくその光景に向けて、研ぎ澄ませた。僕はその色彩の激流の中から、四葉のクローバーのわずかな気配を、その幸福のかけらのようなものを、全身全霊で感じ取らなければならなかった。優れた作曲家が、ピアニストの演奏を五感の全てで感じ取るのと同じように。
僕は両手を大きく広げ、眼下の光景から受け取れるすべてを感じようとした。無造作にばらまかれた絵具のような色彩の中に、そこにあるであろう存在を見出そうとした。僕は僕にできる限りの力で、世界中の物質一つ一つが発しているはずの、何かを受け取ろうとした。
流れ続ける色彩の中から、何かの気配のようなものがぼんやりとにじみ出てきた。一匹の蛍の光のようにかすかで曖昧な何かが、研ぎ澄まされた神経の先端、最も敏感な部分にわずかに触れた。最初は漠然としていて、ほんのわずかな違和感程度のものだったが、徐々にぽつぽつと風景の、あらゆるところから灯り始めた。それはオーラのようでもあり、存在感のようでもあった。いうなればおそらく、この世にあるすべてのものが、自分が存在している証として発し続けているメッセージだった。一つ一つはとても小さく、儚い灯のようなものだが、それでも僕は確かにそのメッセージを感じ取ることができた。そこには存在するが故の、ある種の力強さがあった。
僕はじっと、そのオーラの一つ一つを感じ続けた。真っ先に僕の意識に飛び込んできたのは、包み込むように雄大で、複雑な思想のように深遠なものだった。それはこの世界のおよそ七割を占めている、広大な大海原の気配だった。それに続いて、確かな生命力を持った大自然のオーラが、僕の五感に流れ込んできた。静かで母性的な森林を感じ、河川の連綿とした繋がりを感じ、濃密な沈黙を保つ氷の層を感じることができた。全ての自然は、圧倒的な命の胎動でもって、僕に強く語り掛けてきた。
それからたくさんの、本当にたくさんの小さなオーラが、雪崩のように僕の頭を埋め尽くした。文化的な建物があり、たくさんの動物の群れがあり、荒れ果てて乾ききった砂漠があった。僕は色彩の激流の中から、それらの存在を一挙に感じることができた。空中を飛び回りながら、僕はまさに世界の全てを、それぞれの物体が語り掛けてくる生き生きとしたその声を、リアルで鮮明なイメージとして実感していた。僕はそれらのイメージを受け取りながら、これまでにない一体感を、世界と完全に結びついている感覚を感じ取ることができた。それは今まで感じたどんなものよりも、素晴らしい感覚だった。
いける。今の僕なら。
僕はその瞬間、確固たる確信を抱いていた。
僕は絶対に、四葉のクローバーを見つけることができる。それがこの世界のどこにあろうと、どんなに巧妙に隠れていようと、僕は必ず、探し出して見せる。
まるで絶え間なく電気が走っているかのように、僕はびりびりと世界中の存在を感じ続けていた。僕は大きく息を吸い込み、なだれ込んでくる膨大なイメージにもう一度、全ての意識を集中した。




