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四葉のクローバー  作者: とある貝
6/9

並木家の崩壊

「…お兄ちゃん、まだ起きてるの?」

香代の声だ。

パジャマ姿でリビングの入り口に立った香代が、不安げな瞳でこちらを見つめている。

降りしきる雨音が、部屋に篭った重い空気を揺らしていた。時計の針が、過ぎ去った時の残滓を数えるように、カチカチと無機的な音を立てた。時刻は、間もなく0時を回ろうとしている。

僕は手元のゲーム機を見つめたまま、香代に言った。

「香代は寝てていいよ。もう遅いし」

香代はしばらく黙って、部屋の入り口に立っていた。纏わりついてくる陰鬱な空気の中から、手探りで言葉を探しているような、そんな間があいた。

香代は何か言おうと、うっすらと口を開けたようだった。彼女の意識のわずかな揺れが、かすかに空気を震わせる小さな虫の声のように、微妙な波となって僕にも届いた。でも結局香代は、一度口にしかけた言葉を、喉の手前で飲み込んでしまった。生じた意識の揺らぎは、適切な言葉を与えられないままに、沈黙の中に吸い込まれた。

香代は飲み込んだ言葉の代わりに、比較的質量の軽い言葉を見つけた。

「…お兄ちゃんが起きてるなら、私も起きてる」

そう言って、僕の向かいのソファに腰を下ろした。ソファのきしむギシッ、という音が、何かの暗示のように暗く響いた。

僕はゲーム機を見たまま、顔を上げなかった。目の前の画面には何人かの敵キャラと、デフォルメされた爆弾の映像が映っていた。僕は積み上げられた書類に次々印鑑を押していくみたいに、淡々と、事務的に敵キャラを倒した。その作業は特別面白くもなければ、特別つまらなくもなかった。僕は便宜上、その場の空白を埋めるものとして。たまたまそのゲームを選んだだけだった。

香代はソファに座って、無感動にスマートフォンをいじっていた。僕にとってのゲーム機が、香代にとってのスマートフォンだった。二人はただ機械的に、そこに横たわった無為な時間を、無言のままで消化した。


母の死後、僕ら三人は毎年、母の命日には揃って墓参りをした。

最初に言い出したのは父だった。一年目の母の命日、重たい悲しみに押しつぶされていた僕と香代の手を引いて、父は僕らを母のお墓に連れて行った。

その日まで、母のいない日々を僕たちはある程度うまく消化してきた。時々頭をもたげる母の不在に胸を刺されることもあったが、それでも何とか新しい並木家に、時間をかけて自分たちをなじませることができた。母を忘れたことはなかったが、悲しみと上手に付き合っていくことに、一年である程度慣れてきていたつもりだった。僕と香代と父は、互いに互いを慮り、重すぎる悲しみを共有することで、なんとか自分たちの形を保ってきた。

しかし母の死後、初めて母の命日を迎えた時、僕は改めて突き付けられた空白に、飲み込まれた。

僕はあの日の、松井先生の悲痛な声を、病院の消えかけた蛍光灯を、そして泣き崩れる父の姿を、ありありと思い出していた。記憶は驚くほど鮮明に脳裏によみがえり、そこに伴った痛みや、絶望感までもが現実のものとして僕を襲った。それらの感情は一年たっても、全く色あせてはくれなかった。母の喪失に伴う痛みは、時の流れの中で薄らいでいたわけではなかった。それはずっと僕たちのそばで、息を殺してひっそりとうずくまっていただけなのだ。一年目の母の命日に、僕はその事実を、張り裂けそうな喪失感とともに思い知った。

その日、学校から家に帰ると、僕は部屋に閉じこもって泣いた。外はあきれるくらいの晴天で、春の初めの穏やかな風がカーテンを揺らした。世界は、今日が母の命日であることになんか、一ミリも関心を示さなかった。僕は切り裂かれ、かき乱され、ぐちゃぐちゃになった心を抱えて、一人ぼっちで枕を濡らした。誰も僕に寄り添ってはくれなかったし、誰も僕を抱きしめてはくれなかった。僕はベットの上でひたすらに泣き続け、そしてそのままいつの間にか、眠ってしまった。

どれくらい時間が経っただろうか。

「敬太、敬太」

眠りと覚醒の中間くらいの、滲んだ意識の中に、声が降ってきた。

ゆっくりと目を開けると、すでに部屋の中は暗くなっていた。現実感のないまま、僕は半開きの目でぼんやりとあたりを見回した。瞼には、号泣した後に特有の、腫れぼったいだるさがあった。

ぼやけた視界に、僕を見下ろす父が映った。父はあの日と同じ、湖のような深い瞳で、静かに僕を見つめていた。父の隣では香代が、こちらも泣きはらした赤い目で、僕を見ていた。

「お墓に行こう。母さんのお墓に」

落ち着いた、しかしよく通る声で、父は言った。


僕はもともと来ていた服に、厚手のウィンドブレーカーを羽織って、父と、香代と一緒に母のお墓に向かって歩いた。

春の初めの夜は、まだ少しだけ肌寒かった。冬の余韻をはらんだ風が、名残惜しそうに僕らの間を吹き抜けた。空では鋭い三日月が、空間に切り目を入れるような細い光を放っていた。

墓地に向かう途中、昔花見をした公園を通りかかった。

数本の控えめな桜の木は、まだ花を咲かせていなかった。それは夜の中でひっそりと蕾を蓄え、自分が咲くべき時を待っていた。じっと寒さに耐えながら、我慢強く。しかしその桜を、美しいと笑った母は、もうこの世界にはいなかった。桜はこの閑散とした公園で、誰に求められることもなく、一人で咲かなければいけないのだ。僕は桜に、教えたかった。ねぇ、君を待っていてくれた人は、もういなくなってしまったんだよ。君が咲かせる花を一番喜んだあの人は、もうどこにもいないんだ。

僕の声は、ぼんやりと白い吐息となって、初春の淡い空へと消えていった。古びた街灯が、何かを伝えようとするかのように、ジジジ、と点滅した。


5分ほど歩いて、近所の集団墓地にたどり着いた。

僕たちはそれまで何度も、母のお墓を訪れていた。僕らが進級した時、父の仕事がうまくいった時、香代の描いた絵がコンクールで、金賞をとった時。

たとえ小さな出来事であっても、母が喜びそうだと思った時には、すぐにここにきて報告した。お線香も、お供え物の花も持たずに、体一つでやってきて母にいろいろな出来事を話して聞かせた。時には一人で、時には香代と、そして時には父と一緒に。だから暗闇の中でも、通いなれた道を僕たちが迷うことはなかった。僕らは真っすぐに、母の名前が彫られたお墓にたどり着いた。

父が持ってきた瓶を傾け、母のお墓を水で清めた。静かな春の夜に流れる水は、まるでたった今雪から溶けたみたいに冷たく、透き通って見えた。母が寒がらないだろうかと、僕は少しだけ、心配になった。

父は瓶を置くと、手に持った新聞紙に器用にマッチで火をつけた。そして手早くお線香の束に火を移し、それを三つに分けて僕らに渡した。香代と僕がそれを受け取ると、父は大きく、新聞紙を持った手を振るった。勢い良く燃えていた火は、まるで断片的な白昼夢のように、ふっと儚く消えてしまった。

始めに香代、次に僕、最後に父がお線香を供えた。そして三人で揃って、手を合わせた。

僕は目を閉じたまま、そこにある僕らを包む空気に、耳を澄ました。

それはあのお花見の時の、親密さに溢れた空気に似ていた。僕は手を合わせたまま、確かに母の存在を感じていた。母の温かさそのものが、僕の心にそっと染み入り、欠けた空白をゆっくりと埋めていくような気持だった。僕は母の笑顔を、声を、僕を抱きしめる手の感触を、ありありとそこに見出すことができた。僕はその時、悲しくはなかった。寂しくもなかった。僕が、そしておそらく父と香代が、そのときに感じていたのは圧倒的な、安心感だった。母と父、それから香代と僕、四人がそろった並木家の、あの四葉のクローバーのような調和が、僕らを優しく満たしていた。

僕らは長い間、そこでじっと手を合わせていた。時折吹き過ぎる風の音や、遠くで響く虫の声も、この穏やかな調和の一部であるような気がした。時間ですら、僕らの心が満たされるのを、待ってくれているみたいだった。世界は大いなる優しさと、寛容さでもって、僕らを静かに見守っていた。

やがて父が立ち上がり、それに倣って僕と香代も目を開けた。視界にわずかな光とともに、現実の光景が映し出された後でも、あたりにはじんわりとした余韻が漂っていた。僕はしばらく、目に映る母の墓石や、いくつかの街灯の明かりなどを、うまく本当のこととして受け入れることができなかった。僕の頭の中にはまだ、母の温かさを帯びた名残が、部屋の隅に残った香水の香りのように、ひっそりと優しく残っていた。

「これから毎年、家族みんなで、ここに来よう」

父が言った。その声は僕たちに向けられていながら、そこにいる母に言い聞かせるような、そんな響きを帯びていた。

「毎年この日、俺たち三人で、必ず母さんに挨拶をしよう。俺たちは、きちんとやっているんだって。並木家は、いなくなった母さんも含めて、一つの家族なんだって」

僕と香代は、その時の気持ちの全てをこめて、父の言葉にうなずいた。その約束を絶対守ると、僕はこの時自分自身に、そして母に対して、固く誓った。

僕たちは何も言わずに、帰り道を歩いた。相変わらず気温は少し肌寒かったが、その寒さには以前ほどの鋭さはなかった。頭上には来る時よりもたくさんの星が、夜空の空白を埋めるように淡くきらきらと輝いていた。それらの星を見上げながら、僕はその時もう一度、毎年ここに戻ってこようと、心に強く、強く決めた。


時計の針が、無情に0時を指し示した。

短針と長針の重なる乾いた音が、何かにひびを入れるみたいに、部屋に響いた。その音はうっとうしいくらいに、僕の耳にはっきりと残った。香代がちらりと顔を上げ、僕の様子を窺うのがわかった。

僕はじっと、ゲーム機の画面を見つめていた。画面には敵キャラが溢れていたが、僕は何もせずにただそれを眺めていた。僕の指は十字ボタンに置かれたまま、電池の切れたロボットみたいに動かなかった。やがて間抜けな音とともに、紫色の「game over」の文字が、画面にでかでかと表示された。

僕はゲーム機の電源を切り、それを無造作に、テーブルに置いた。

あの日から、並木家は母の命日には一年も欠かさず、毎年全員で墓参りをしてきた。どれだけ父の仕事が忙しくても、どれだけ僕や香代が部活や勉強で疲れていても、それだけは絶対に欠かすことはなかった。それは僕たちにとって、間違いなく必要な行為だったし、並木家がきちんと保たれているという、証だった。母が昔、みんなで花見をすることで大切な何かを得ていたのと同じように、僕らも家族みんなで母の墓前に手を合わせることで、自分たちの気持ちを区切り、新しい一年を母とともに歩むことができた。

父が、母の命日に家に帰らなかったのは、この日が初めてだった。

僕は壁に掛けられた時計を見つめた。長針がわずかに短針を追い越し、秒針は淡々と休みなく、1秒ずつ時を刻んでいだ。その進み方には妥協もなければ、猶予もなかった。雨音とともに部屋に響くカチカチという音は、母の命日が着実に、ここから遠ざかっていく音だった。

香代は何か言いたげだったが、顔を上げただけで、一言も言葉を発さなかった。部屋に満ちた空気は重く澱んでいて、その質量はすでにいくつかの物事を雄弁に、的確に物語っていた。おそらくその時口にされていたら、たとえどんな言葉であったとしても、不適切な軽い張りぼてに成り下がっていたことだろう。香代はやがて、その重さに耐えかねたみたいに、目を伏せた。

僕は自分のスマートフォンを手に取り、メールフォルダを開いた。乱雑なチェーンメールや広告がいくつか入っていたが、そこに父からの連絡はなかった。父から来た最後のメールは、22時過ぎ頃に送られてきた「今日は遅くなる すまない」というたった一行の文章だった。僕は画面に映った掃きだめのようなメールの群れを意味もなく眺め、それからスマートフォンの電源を切った。

画面が暗くなるのと同時に、僕の心は厚い氷に覆われたように、急激に冷えた。それまで胸の中でざわめいていた様々な感情は、その氷の下に一手に固められたかのように、忽然とその姿を消した。僕の心に残ったのは、温度を失った凪だけだった。あまりにも冷たく、あまりにも静かなその凪を抱えて、僕はただじっと座って、父を待った。


時間だけが、刻々と過ぎた。

香代はいつの間にか、ソファに座ったまま眠っていた。手元には読みかけの本が、歴史の中で忘れ去られた事実みたいに、無造作に横たわっていた。僕は壁にかかった時計を確認した。時刻は2時40分を示していた。意識の表面でその情報を受け取り、それから視線をそらし、テーブルの一点を意味もなく見つめた。眠気は感じていなかったが、脳はすでに、思考することをやめていた。

降りしきる雨音の中から、聞きなれたエンジン音が耳に届いた。

胸の中で、何かがうごめくのがわかった。それは頑丈な分厚い氷の中で、得体のしれない怪物が目を覚まそうとする感覚だった。確かな熱と、確かな力を持った怪物だ。長い間押さえこまれていたその怪物は、十分なエネルギーを蓄えて、解き放たれる瞬間をじっと待っていた。僕の意識ははっきりと覚醒し、頭は一瞬でクリアになった。僕は腕を組んで、聞こえる音に耳を澄ました。

エンジン音が止み、ドアをロックする音が聞こえた。門を閉める重苦しい音がそれに続き、雨をかき分ける足音が響いた。どの音も不思議なくらい明確に、僕の耳に届いた。香代がソファでぼんやりと、目を開けるのがわかった。

ガラッ、と、玄関の開く音がした。

一瞬の静寂があった。それは何かしら迷いを含んだ、示唆的な静寂だった。

「ただいま」

抑揚を欠いた父の声が、リビングの重い空気を震わせた。その声は僕たちに向けられたというよりは、儀礼的にその場に置かれたような響き方をした。

僕は何も言わなかった。すっかり目覚めたらしい香代が、玄関のほうを振り返った。

父が靴を脱ぎ、家に上がるのが音で分かった。音がリビングに近づくにつれ、胸の中で目覚めた怪物はより熱く、より強大になっていった。それは僕の意思とは無関係に巨大化していき、暴れ、自らを覆う氷の層にひびを入れた。やがて廊下の電気がともり、重たい足音がこだました。リビングのドアノブに手が掛けられ、宿命的な音と共に、扉が開いた。

父の姿を見て、僕と香代は一瞬、息を飲んだ。

父は一目でわかるくらいに、疲れ切ってだった。頭髪はぼさぼさに乱れていて、目は異様に充血していた。顔全体に疲労が明確に刻まれていて、目はどろんと汚水のように澱んでいた。ネクタイは父の疲労を吸い込んだみたいによれていて、スーツにはみっともなくしわが寄っていた。全身が雨に濡れてぐしょぐしょで、至るところから雫が惨めに滴っていた。まるで家に帰る途中で、世界中の疲労を雨と一緒に、一身に浴びてきたかのような風体だった。

父の様子は、一瞬だけ僕の心に、水を差した。胸の中でうごめいていた炎にも似た怪物は、瞬間的にその温度を下げ、動きを止めた。かすかな迷いが麻酔のように僕の心に広がっていき、理性の入り込む隙間が生まれた。残っていたわずかな理性が、その怪物の動きを止めようと、必死に拘束しにかかった。

しかし、無駄だった。怪物は理性による静止を簡単に振り切り、再び熱をもって暴れ出した。成長したそれは、どす黒く、汚らしく、絶望的に醜かった。僕がそれまでの人生で出会ったどんなものよりも、その怪物は醜かった。しかしすでに力を持ったその怪物は、僕の心を容易に支配し、征服した。

「父さん」

気づいたときには、声が出ていた。

「昨日が、何の日だったか覚えてる?」

香代がおびえた表情で、びくっと体を震わせた。耳に聞こえた僕の声は、自分でも驚くくらいに、冷たかった。まるで人を殺すことだけに特化して作られたナイフのような、攻撃的に研ぎ澄まされた声だった。

父はスーツを脱いで、リビングに常備してあるハンガーにかけた。それからポケットからハンカチを取り出し、顔についた水滴を丁寧に拭った。その間、一度もこちらを向かなかった。

「母さんの命日だろう。もちろん覚えている」

父の声は、僕のそれとは正反対に、平坦だった。その静けさは、ある種の不気味さをはらんでいた。壊滅的な嵐が来る前の穏やかな晴天のような、あるいは避けがたい津波の予兆の小さなさざ波のような、そういった類の静けさだった。

「覚えていたのに、なんで帰ってこなかったんだよ」

父はネクタイを緩めた。みすぼらしくよれたネクタイのしわを丁寧に伸ばし、スーツと同じハンガーにかけた。

「仕事が忙しかったんだ」

父の答えに、僕の中の怪物が激しく反応した。それは明確に炎を上げて燃え上がり、周囲の氷を粉々に砕いた。氷の割れる暴力的な音と、炎が燃え盛る轟音とが、耳の奥でありありと響いた。

「仕事が忙しかったら、母さんの命日をすっぽかしてもいいのかよ」

父は何も言わなかった。腕時計をとり、シャツの第一ボタンをはずした。そしていつもと同じように、僕らに背を向け、台所へと向かおうとした。

父のその態度は、僕の心の炎をより一層激しく燃え上がらせた。怪物は完全に僕の理性を侵食し、僕の心を醜い黒一色に染めた。

胸の中はどうしようもなく、ぐちゃぐちゃだった。怪物に荒らされ、支配され、どす黒い渦が乱雑に逆巻き、手が付けられないほどの高熱を帯びていた。それはまさに、地獄のような光景だった。

しかし僕の頭はその時、不気味なくらいに澄んでいた。部屋を出ようとする父の姿も、泣きだしそうな香代の顔も、くっきりと輪郭をもって見えていた。真っ黒な炎を上げて燃え盛る心とは対照的に、頭はどこか遠い惑星の、太陽の光が全く届かない地中の氷の芯のように、冷たかった。

僕は冷静だった。頭の中で、いくつかの言葉を並べてみた。それらを子細に見分し、手に取り、その感触を確かめた。まるで殺し屋が淡々と、その日に使う拳銃を点検し、選び取るように。そうして父の背中を見つめ、そのうちの一つを、手に取った。

最も父の心を、えぐる言葉を。

「父さんは」

大切な何かが、粉々に割れて砕け散る音が、はっきりと聞こえた。

「死んだ母さんより、仕事のほうが大事なのかよ」

父の動きがとまった。香代が絶望的な瞳で、こちらを見た。僕は、父から目を離さなかった。

父は踵を返し、まっすぐこちらに向かってきた。父の目はしっかりと、僕の瞳を捕らえていた。その目からはもう、先ほどの静けさは消え去っていた。瞳の奥に見えていたのは、僕の心にあるのと同じ、熱く燃え上がり、醜く渦巻く黒色だった。

父は僕の前に立ち、思いっきり胸倉をつかんだ。引き延ばされた服の繊維がミシッ、と乾いた音を立て、首元に鈍い痛みを感じた。父はありったけの力で僕の喉元をねじり上げ、正面から僕を睨みつけた。その目はどんな刃物よりも鋭く、どんな金属よりも重たかった。煮えたぎった怒りや、暗く冷たい底なし沼のような絶望、そういった父の感情の全てが、その視線には込められていた。

雨音が、やけにくっきりと耳に響いた。

次の瞬間、頭にすさまじい衝撃が走り、世界が反転したかのように景色が揺れた。

頬に熱く残った痛みで、殴られた、とわかった。理解した直後、怪物が火山のように咆哮し、うねりを上げた。熱くどろりとした溶岩のような黒い感情が僕の心を埋め尽くし、抑えがたい破壊衝動がこみ上げた。父の胸倉をつかみ返し、力の限りこぶしを握った。もう、何も考えられなかった。

「やめて!!」

香代の悲鳴のような叫びが、時間を止めた。

僕は右手を振り上げたまま、静止した。僕の心で暴れていた怪物は、潮が引くようにすっと、その姿を消していった。僕の心は急激に冷やされ、黒い塊は静かに蒸発していった。あとにはぐちゃぐちゃに荒れて、どうしようもなく乱れた残骸だけが、心に残った。

僕は手を離し、足早にドアに向かった。ドアノブに手をかけた時、香代のすすり泣く声が聞こえた。僕は暴力的な音を立ててドアを閉め、逃げるように部屋を出た。

階段を登って、自分の部屋へ向かった。心は荒れ果て、頭は壊滅的に混乱していた。重なった天変地異のような感情変化のせいで、僕の心は大嵐が過ぎ去った後の荒野のように、散らかり、乱れ、あるべき秩序を失っていた。僕は疲れ切っていたが、それでも僕の頭には、興奮の名残が余熱のように残っていた。じわりと熱を持った僕の脳裏に、ボロボロだった父の姿や、殴られる直前の父の瞳が、次々にフラッシュバックした。僕は自分がどれだけ父を傷つけ、どれだけ大切なものを損なったかを、思い知った。僕の手には、父の心をえぐった生々しい感触がまだはっきり残っていたし、僕の耳にはその時の、何かが割れる悲惨な音が焼き付いていた。僕はこみ上げる嗚咽を、涙を、押さえられなかった。感情が追い付くよりも先に、とめどなく涙が溢れてきた。踏みしめる一段一段が、濡れた水彩画のように淡く、悲しく滲んだ。


部屋にこもって、僕はずっと、泣き続けた。

頬にはまだ、殴られた痛みが刻み込まれた彫刻のように残っていた。それは唯一具体的な、実際に確認できる痛みだった。僕にとってその現実的な痛みは、その時僕が感じたたった一つの、救いだった。僕が受け取ってしかるべき対価であり、僕が求めていたものですらあった。僕は自分の意志で、凶器で父を思いきり切りつけ、心の芯に深い裂け目を入れたのだ。その事実はどれだけ後悔しても消えなかったし、あの内臓をえぐり取るような残酷な感触は、おそらく一生忘れることはできなかった。僕は糾弾されなければならなかったし、もっと血を流すべきだった。自分が与えた痛みに対し、相応の痛みを背負い、受け止めなければならなかった。

だからその時、香代はそこに、現れてはいけなかったのだ。

「お兄ちゃん」

ドアの向こうから、香代が言った。その声はわずかに震えてはいたが、混乱してはいなかった。

香代は何かを確認するように一拍分の呼吸を置いて、それから言った。

「これ、湿布。お父さんが、持ってけって」

…やめろ。

荒廃し、混乱しきっていた心が、大きくぐらりと揺さぶられた。僕はシーツをギュッと、強く掴んだ。

「お父さん、後悔してたよ。殴ったりするべきじゃなかったって。ちゃんと話し合うべきだったって」

…お願いだから、やめてくれ。

僕は眼を閉じ、唇を噛んだ。毛布を頭からかぶり、両手で頭を完全に覆った。今すぐ叫び声をあげて、逃げ出したかった。

「きっとお父さん、どうしてもやらなきゃいけない仕事があったんだよ。あんなに疲れ切って、お母さんの命日を返上してまで、片づけないといけない大事な仕事が。だからさ、落ち着いたら、話だけでも聞いてみよ?そうすればきっと…」

「うるせえよ」

空気が一瞬、凍り付いた。

涙があふれ、吐き気が急激にこみあげてきた。腹の底から迫り上がる声を、感情を、止めることはできなかった。

「出てけよ、うるせぇんだよ!!」

血を吐くような思いだった。喉が焼けて、息が詰まった。

香代が茫然とするのが、気配で分かった。コトッ、と箱が床に落ちる音がして、それから階段を駆け降りる足音が聞こえた。遠ざかる足音に、香代がすすり泣く声が混ざった。やがてそれらの音は消え去り、僕一人だけが、沈黙の中に残された。

僕は部屋で一人、慟哭した。嗚咽は叫び声となり、締め付けられたように呼吸が狂った。唇が切れたらしく、血の味が口全体に広がった。殴られた頬が痛んだが、どうでもよかった。頬の痛みも、唇の痛みも、ほんの些細なものでしかなかった。僕の魂は深いところで切り刻まれ、滝のように血を流していたのだ。僕を斬ったのは、僕自身だった。僕は父をえぐり、香代を傷つけ、その返す刀で自分の心をずたずたにした。僕は自分の精神が流す血を、この目で見たかった。手で触れられて、温度を感じられたら、どんなにいいだろうと思った。あるいは誰かしらが今ここに現れて、僕の体に僕が受けるにふさわしいだけの傷を、じっくりと刻んでいってほしいと願った。でも誰も来てはくれなかった。僕は僕の部屋で、疑いようもなく完全に、一人だった。

涙と血と唾液と鼻水でシーツをぐしょぐしょにしながら、僕はあえぎ続けていた。今度こそ本当に、救いはなかった。僕は自らの手で、大切なものを木っ端みじんに、砕き割ったのだ。それはガラスが粉々になるのと同じように、もう二度と元には戻らない種類の崩壊だった。母がいなくなってから、三人で協力し、助け合い、大切に守ってきたものを、僕は容赦なく踏みにじったのだ。

僕はその夜、ずっと、ずっと、泣き続けた。


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